年別アーカイブ: 2007

スキー場での大記録

降雪地帯で育った男子なら誰でも、厚く降り積もった雪に立小便をして雪を溶かしたり模様を描いたりする楽しみを理解してもらえると思う。

「ある職場で、トイレの小便器の中心に小さな虫の絵を描いたところ、便器を汚す人が激減した」という話を聞いたことがあるが、なるほど、と思わせる作り話だと思う。確かに便器に何か付着物があるとそれを狙いたくなるのは事実だが、そもそも便器を外す人は外していいと思ってやるわけではない。外れたら自分だって汚れるし、誰だって外すまいと便器の真ん中を狙っているが、それでもなおかつ諸事情によってあらぬ方向に飛散するのだ(毛とか皮膚の粘着とかな)。男子ならわかってもらえると思う。あるいは酔っ払ってどうにもならないときかである。どっちにしても、便器に虫の絵を描いたところでこれらを防げる道理がない。

大学時代、平日に山形蔵王というスキー場に行ったときのことだ。ほとんどのコースを滑ったので、珍しいところを滑ろうと人気のないコースに行ってみた。なぜ人気がないかといえば、そこのリフトが古く、一人乗りでしかも遅く、なおかつ異常に長いからなのだ。それでなくても人がいないのに、平日だったため、ほとんど無人状態であった。乗って中腹まで来て前後を見渡してみると、前にも後にも下にも、見渡す限り誰もいない。冬の雪山でたったひとりである。ふと気づくと尿意がする。

「今こそ記録に挑戦するときだ」と私は思った。私は、苦しくなくて努力も要らず、ただやればよい類のことは積極的に挑戦するのだ。それで、動き続けるリフトに乗ったまま2,30m下の地表に向かって小便をするという記録に挑むことにした。やってみるとこれが大変である。当時のスキーウエアはワンピースでこそなかったが、ズボンは胸まであるのだ。まず上着をはだけ、ズボンのチャックを胸から下ろさなくてはならない。椅子を濡らすわけにはいかないので、椅子から尻を半分前にズラさなくてはならない。危険だ。もちろんズボンやスキー板を濡らすつもりもないし、右手の手袋を外すタイミングだって考えておかなくてはならない(これは必須である)。これを一人乗りのリフトに乗ってストックを2本持ったまま人影を気にしながら制限時間内にやるのだから、半ば命がけのようなものである。事故を起こしたときの恥ずかしさもプレッシャーとなる。やっとの思いで最終段階に来たのだが、なぜか出るはずのものが出ない。「ここまできて止められるか」としばらく待って、無事に大記録を達成したのであった。見事な放物線が新雪の上に舞った。

もしかしてスキー部の人とか小さい頃からスキーをやっていた人たちはしょっちゅうやっているのかもしれないが(やるかよ)、素人の私としてはこれが大満足の記録である。

冊子『現代卓球』

大学の後輩の戸田から「田村が2番弟子だとすると1番弟子は誰なのか」とメールが来た。まったく人をバカにした話だ。「お前に決まってるだろ!とぼけるな!」と返事をしてやった。田村といい戸田といい、弟子としての自覚に欠けるのは嘆かわしいばかりだ。毎日どうでもよいことを報告してくる3番弟子の小室を見習ってほしいものだ。

学生時代に戸田といっしょに作った『現代卓球』という小冊子がある。だいたい半々づつ書いたのだが、悔しいが戸田が書いたところの方が面白い。卓球の腕も私より1ランク上なので一番弟子である。ただ『現代卓球』は、あちこちに危険表現がちりばめられているので、後年、ウエブ化するときにかなり修正した(プロフィールのリンク参照)。

戸田は最近、ニッタクを辞めて(追い出されたか?)キラースピンというアメリカの卓球用品会社に入って、音沙汰がないと思っていたら、こんなところhttp://jpnuttl.org/public/sub15.htmlでこっそりと頼まれもしないのに戦評を書いていた。やはり異常に面白い。それにしても「松平健太がいつまでもしゃがみこみサービスができるように牛乳を飲まないようにすべきだ」というくだりは荻村伊智朗『卓球クリニック』のパロディだが、それに気づく人などほとんどいまい。つくづくマニアックな笑いだ。

「頼まれもしない」といえば、どの大学でもあると思うが、私の母校東北大の卓球部にも『覇者』という会報がある。年1回、現役選手たちが作って発行することになっていて、現役部員の紹介や戦績報告、OB同士の近況報告などが載っている。OBには年に何回か、試合の誘いとか飲み会の誘いが往復ハガキで送られてきて、その近況欄に何かを書くとそれがすべて翌年の『覇者』に載るという仕組みになっている。そこに私と戸田は近況でも何でもない文章をびっしりと書き込んで掲載させるという、パフォーマンス競争を何年か続けた。戸田は「世界にそびえる人々」、私は「OB紹介コーナー」を連載(もちろん勝手に)して筆力を現役に見せつけたのだが、現役、OB双方から完璧に無視され、ついぞ憧れの「OB寄稿」への正式な原稿依頼が来ることはなかった。

この件は当時の現役部員である編集デスクの久保に責任をとってもらいたい。

困った奴ら

先々週のことだ。リックという同僚が「俺は卓球でアラバマ州チャンピオンになったことがある」と言ったから大変である。その話の信憑性を確かめるべくいろいろ質問をすると、ラバーの種類や台との距離、ドライブかスマッシュかなどの質問にもついてくるので、もしかすると本当かもしれない。

それで、土曜にチャック、ウォレンと練習をしたときにその話をした。すると、アラバマ州選手権の歴史にそんな奴の名前はないし、その程度のプレースタイルの話などスポーツチャンネルを見れば誰でも言えるとのこと。「親戚だけの大会だろ」とか「友達だけの大会だろ」などという。あるか、そんなの。この件は、いずれ本人を練習に呼んで確かめるときが来るだろう。

さて、この日の練習だが、あきれたことにチャックは私が最近練習に行かないことを指して「センセイを失ったので俺は引退する」と言う。”I lost my Sensei”とセンセイだけ日本語で言うのだ。でかい図体をしてなんとも子供じみた奴である。ウォレンが「またはじまった」と言わんばかりにしきりにウインクしてくる。なんだかめんどくさいなあ。

練習の後、帰るときにチャックが体育館の前で車のトランクからゴルフクラブを取り出し「ゴルフを教えてやる」と言うと、いきなりボールをティーにセットして隣の敷地に思いっきり打ち込みやがった。

ウォレンは「クレイジー!」といって笑っている。アメリカではこんなことをやっていいのだろうか。まるで子供のような奴らだ(それにしてもなんて腕の太さだ)。

その日、ウォレンから少年時代の写真が送られてきた。アラバマチャンピオンと撮影したらしい。右端がウォレンだそうだが、現在のウォレン(8/28を参照)とは種が違うようである。

ストロング・ラーメン

アメリカの生活でもっとも恋しくなる食べ物はラーメンだろう。日本ではしょっちゅうラーメンを食べていたのに、ここにはラーメン屋などないのだ。

ところが日本料理店のKYOTOのメニューになんとramyanと称するラーメンがあるのだ。これは実は韓国製のインスタントラーメンなのだが、ないよりはマシなのでときどき食べる。かつてある日本人赴任者が、「こんなのラーメンじゃない」と文句をつけて以来、しばらくは日本人がこれを注文すると必ず「今日は切らしている」と断られるのが続いたのだが、最近はほとぼりが冷めたようで、普通に出してくれる。

ただし問題がある。スープが薄いのだ。それもそのはず、器が「鍋焼きうどん」用の大きな鉄鍋なので、湯の量が、どうみてもインスタントラーメンの基準である180ccをはるかに超えているからなのだ。そのくせやけに辛いので(だから韓国製だと思ってるのだが)、辛味を別に入れていると思った人が「マイルドにしてくれ」と注文をしたら、それでなくても薄いスープに思いっきりお湯を入れられ、目も当てられない、ほとんどお湯のように薄いスープのラーメンが出てきたことがある。

そういう失敗談があるので、恐る恐る「スープを濃くしてくれ」と注文を出したのだが、それをどうしても伝えれらない。「塩をいれればいいのか」などと言う。そんなことされてたまるか。「高い濃度」という意味でhigh concentration などといっても首を傾げるばかりだ。そこで濃いコーヒーのことをストロングコーヒーと言うことを思い出し、strong soupと言ったらすぐに通じた。意味は伝わったものの、今度は「スープの袋だけ2倍使うわけにはいかない(やっぱりインスタントだった)、あまったラーメンをどうするのだ」ときた。「入れる湯を半分にしてくれ」と言ってやっとわかってもらえた。すると、ひとまわり小さい器に適量の湯が入れられた美味しいラーメン(インスタント)がやってきて大満足であった。

以来、Strong Ramyanと注文すれば、すぐに濃いスープ(普通なんだが)のラーメンが食べられるようになった。ストロング・ラーメンなんて、知らない人が聞いたら、スタミナラーメンのもの凄いやつでどんなに精力がつくのか、と思うかもしれないが、ただのインスタントラーメンである。

このブログに載せるために、「日本風を装ってるが何かが違う店内」を撮影していたら、店員がやって来て「撮ってやる」と言われたので、迫力に押されおとなしく記念撮影をされてしまった。

回転寿司

これまでいろいろとレストランの話を書いたが、実はドーサンで日本人がもっとも多く行くレストランは中華料理店である。美味しいということと、ほとんどの店がバイキングスタイル(こちらではバフェという)なので、注文する必要がなく楽なのである。このような店がドーサン市内だけで4軒あるし、デルビルにも1軒あり、我が家では、土日のどちらかは必ず行っている。

このバイキングスタイルを妻は「食い放題」と解釈して、限界まで食べることを毎週楽しみにしている。いつも6皿も食べて、店を出るときは体をまっすぐにして歩けないほどである。この日のために平日はほとんど食べないようにしているので太る心配はないという(ただしビールは毎晩1.5リットル飲んでいる)。

余談だが、二番弟子の田村が学生時代、「条太さん!300円で食い放題の店があります」と言うからついて行ったらミルキーウエイのサラダバーだった。さすが2番弟子。

妻のもっとも好きな食べ物は寿司である。パソコンの背景は寿司だし、三男の名前は、『寿司』から一字とったぐらいだ。食べ物の名前を息子につけた人は妻ぐらいのものだろう。そのためか三男は妻と同じく異常な寿司好きである。

妻が寿司の中でももっとも好きなのが回転寿司である。「回っていないと食う気がしない」とまでいっている。その回転寿司がドーサンにはないのだが、どうしても食べたい妻は昨日、ついにアトランタに回転寿司屋があることをネットでつきとめた。『FUNE』というのだが多分『舟』だろう。『東京』とか『京都』ではないところはさすがである。車で片道4時間かかるのだが、近々行くことになりそうである。

卓球のマンガ

何年か前、中学校のときに描いたマンガが実家から出てきた。描いた内容はまったく覚えていなかったので、初めて読むような気持ちで読めた。面白いとか面白くないという以前に、卓球マニアであることがわかる内容で、自分ながら「好ましい中学生がいたものだ」と思った。

当時、私は、卓球を扱った少女マンガが昔あったという噂を聞いたことがあるだけで、卓球のマンガは一度も見たことがなかった。卓球がマンガに取り上げられたらどんなにいいだろうと思い、自分で描いたのである。ちょっと後に『ダッシュ勝平』というバスケットマンガで主人公が短期間、卓球勝負をするところがとても嬉しかったものだ。もし中学生の私が松本大洋の『ピンポン』なんか見たら泣いて喜んだことだろう。

私の描いたマンガに出てくる選手名や打球のフォームを見ると、すべて荻村伊智朗の『卓球世界のプレー』を参考にしていることがわかる。その本の中ではスウェーデンのステラン・ベンクソンが大きく取り上げられていたので、その憧れのベンクソンをマンガに登場させて主人公と試合をさせたりしている。

憧れているものになりたい、なれないなら自分のところまで引きずり落としたいという願望は当時からあったようである(覚えていないので想像だ)。

他にも、美術の授業の木板に浮き彫りをする工作で、ベンクソンのフォアへの飛びつきの様子を彫った覚えがあるのだが、残念ながらその作品は見つからない。『卓球世界のプレー』のモデルにした写真に、鉛筆で6分割して構図を測定した跡が残っているだけである。

ファーストフード

この町でもハンバーガー屋が繁盛している。マクドナルド、バーガーキング、チェッカーズ、ソニック、アービス、チキンフィレなど、多数ある。

すごいのがドリンクのサイズである。S、M、L、スーパーラージとあるのだが、一番小さいはずのS(左の写真)が、どうみても日本のLサイズである。ちなみにスーパーラージが右の写真だ。

しかもこれ、店内でいくらでも汲めるので飲み放題である。それなのに容器によって値段が違うのだが、なぜかというと、店を出るときに再び一杯にしてもっていくので、そのときの量が違うためだという。とても正気とは思えない飲量である。

子供から年寄りまでコーラが好きで、上司の年配のデビッドもなにかというとピーナッツを食いながらコーラをグビグビ飲んでは「ゲフーッ、エスキュズミ」なんて言いながら仕事をしている。

中には肥満に気を使ってダイエットコークにこだわって飲んでいる奴もいるが、1リットルも飲んで健康もクソもないと思うのだが。

ビートルズ6

もうしばらくビートルズを続けさせてもらいたい。今回は、マニア好みのアメリカ盤である。

ビートルズがその現役時代に発売したのは、13枚のアルバムと22枚のシングル、1つのEPセットだけである。彼らは、ファンに二度買いさせることを嫌ったのと、いくらでも曲が書けたということから、どんなに売れそうな曲でも、シングルとアルバムの曲がなるべく重複しないように発表していた。『ヘイ・ジュード』ほどの大ヒット曲をアルバムには入れなかったし、『イエスタディ』ほどの名曲はシングルカットされず単なるアルバムの一曲である。とんでもないグループなのだビートルズというのは。

ところが当時はアーティストよりもレコード会社の権力が強く、ビートルズでさえもイギリス以外の国では、自分たちの好きなようにはレコードを発売できなかったのである。どういうことかというと、各国のレコード会社が勝手に曲を組み合わせてアルバムを作って乱発していたのだ。結果的に、アナログ盤時代には50枚以上のアルバムと数え切れないほどのシングル盤が存在していたのである。特にひどいのはアメリカで、オリジナルアルバムの曲を減らして、2枚のアルバムから3枚のアルバムを作るという荒業をやっていたり、2年間で14枚ものシングルをメチャクチャに出して、結果、ヒットチャートの1位から5位までビートルズが独占したりした。日本でもなんと64,65年の2年間に27枚のシングルが発売された。すべてレコード会社の仕業なのだ。

80年代後半にCD化されるときになってこの状況が初めて整理され、CDになってからはイギリスオリジナル盤以外のものはなくなった。その結果、今ではアナログ盤時代のアメリカ盤が貴重なコレクターズアイテムになっている。

ここに紹介するのはそのアメリカ盤のひとつ『ヘイ・ジュード』。アメリカのレコード会社が大ヒットシングルをタイトルにつけて勝手に出したアルバムである。
さて、ビートルズごっこであるが、有名でもないし特徴もないジャケットなので、解説がないと一体何のつもりで写真を撮っているのか、もはや誰にも分かるまい。後向きで石膏像の役をやっているのは例によって弟である。誰に撮影してもらったかが思い出せないが、友人の数は限られているので、母か祖母あたりに頼んだ可能性が高い。それでブレているのだと思う。悔しい。

ステーキ対焼肉

ドーサンにはとても美味しいステーキ屋がある。ある人によれば、ニューヨークでもこんなに美味い店はないというぐらいである。しかも高くても30ドルぐらいのものだから、日本で同じものを食べることに比べれば値段も安い。

たしかに慣れると美味いのだが、最初の頃は、なんだかもったいないような気がした。私は韓国の焼肉が最高の肉料理だと思っているので、ステーキのような分厚い肉を見ると「これを薄く切ったらどれほどの焼肉ができるだろう」と考えてしまうのだ。そこで、2回目の出張に来るときに、贅沢の限りを尽くした焼肉のタレを3種類買い込んで来たのである。それは確か「しょうが味」「にんにく味」「味噌味」の3つだったと思う。何が「贅沢の限り」かといえば、これを一気に3つも買ったところが贅沢なのである。2つまではありがちだと思うが、3つというのはなかなかできることではない。

それで、ドーサンについてすぐにステーキ屋に入り、分厚いステーキを韓国焼肉風に薄くスライスした。店員がいなくなったところでカバンから焼肉のタレを3瓶取り出し、これを順番にかけて食ってみたのである。と、どうしたことだろう。まずいことはないが、それほど美味くない。出されたステーキの塩コショウの方が美味いのだ。やはりステーキにはステーキ屋の味付けが一番なようである。プロの仕事にケチをつけるものではないなあと思った。以来、ステーキに焼肉のタレをかけたいという欲望はすっかりなくなり、おとなしく出されたステーキを美味しくいただいている。

雑誌『卓球人』

昭和22年発行の雑誌『卓球人』は、私の卓球王国での連載につながった特別な意味がある古本である。これを入手したときに、なつかしく読んで喜んでもらえそうな人ということで、『卓球物語』を書いた藤井基男さんに、読みたかった送るという趣旨の手紙をニッタク・ニュース付けに出したのである(藤井さんはニッタク・ニュースで連載していたからだ)。もちろん知り合いでもなんでもないのだが、さっそく返事が来て、これを貸したところ大変喜んでくれて、わざわざ仙台まで返しに来てくれた。以来、手紙のやりとりをさせていただくようになったのである。

何年かしたあるとき、仙台に来るというので昼食をご一緒することになった。そこで、「卓球本のコレクションがあるんだからこれを世の中に紹介することは卓球界のためになる。そういう連載をしたらどうか。その気があるなら雑誌に紹介する。」という話をいただいた。藤井さんへの手紙はいつも面白く書くように努めていた甲斐があったわけである。私は以前から卓球雑誌などで「特別寄稿」などという記事を見ると、「どうしてこんな人のが載るのに俺の文章が載る機会はないのか」と勝手な憤りを感じていたぐらいなので(当たり前なんだが)、願ってもない話であった。ところがその反面、締め切りに追われて連載を続ける自信はなかったのだから情ない話である。それで、喜んだものの断腸の思いで「仕事もあるので書く時間がとれず続ける自信がない」と断ってしまった。すると藤井さんが「伊藤さんね、物書きはヒマがあるから書くんじゃないんですよ」と言った。これはキツかった。私はすぐに考えが甘かったことに気づき「やります」と言ったのだった。それで卓球王国に紹介してもらい(編集部にはすでにいろいろな物を送りつけて断られている仲だったので少々気まずかったが)、連載にこぎつけたのである。

後日、藤井さんに「今野さん(卓球王国の編集長)、伊藤さんのこと知ってたよ。だいぶ有名みたいだね。」と言われて恥ずかしかった。人生、何がきっかけになるか分からないものである。

ともあれ、この『卓球人』は面白い。昭和22年発行なのに「あの頃を語る」とさらに昔を語ったり、卓球小説、卓球川柳などとにかく可笑しい。これを毎日1ページずつ紹介したいぐらいである。「電光石火」「意表を突く」とあるが、意表を突かれたのはこっちだって。