月別アーカイブ: 5月 2009

良心

「良心的」という言葉をめぐって人形俳句写真の義姉としばらく議論をしていた。

議論の発端は、義姉がこの言葉を使ったことだったが、考えてみると私は以前からこの言葉に縁があった。

以前、他人に理解できない理由で怒り出す、ちょっと異常な同僚Aがいた。その同僚と別の同僚Bがある装置の予約について口論となった。その装置は混んでいるので、使う日の使う時間帯だけ予約を入れるのが普通なのだが、同僚Aはさすがにおかしいだけあって「いつ使うか分からないから」という理由で、一週間まるまる朝から晩まで予約を入れてしまった。

これには当然、他の使用者たちが騒然となり、同僚Bが代表して同僚Aを説得にかかったのだった。私は俄然楽しくなって、二人の口論に聞き耳を立てた。

口論の中で同僚Bが「使う時間に対して予備としてどれくらい多めに予約するかは、使用者個々の・・」と言いかかったときだった。同僚Aが突然ブチ切れて「『良心』なんて言ってみろ!ブン殴るぞB!」と絶叫したのだ。「良心」という言葉に脈絡なく反応して激昂するAがなんとも可笑しく、それ以来、この言葉はお気に入りとなった。

良心的商売

よく、商品の値段を安く設定することを良心的ということがあるが、違和感がある。

商品を安く売ることと人間の良心が関係あるだろうか。単に安くして競合他社より売ろうという戦略かもしれないし、欲がないだけのことかもしれない。欲がなくたって良心があるとは限らない。あるいは、買う人から感謝されていい気持ちになりたいという浅はかなエゴのためかもしれない。自分の利益を減らしてでも買う人の幸せを願うためだったたとしても、ライバル他社にとっては迷惑な行為であり、その社員や家族の幸せにはつながらない。良心はあるかもしれないが、その影響は必ずしも意図どおりにはならない。

商品を安く売るのは、結果的に消費者にとって都合がよいというだけのことで、それを良心的と表現するのはなんかおかしいと思う。良心があるとは限らないからこそ良心「的」とつけているのだと言われればそれまでだ。いわば、良心「風」と同じ意味ならよしとしよう。

客を欺かない商売をすることは良心的と表現してよいと思うのだがどうだろうか。あるいはそれが普通で、欺いたら悪人と言う方がしっくりするか。

ピースサイン

写真を撮るときにピースサインをしなくなってから久しい。

大学2年くらいのとき、卓球同好会の部内の試合で入賞をして、その夜の飲み会で、商品をもらいながらカメラに向かってピースサインをしている自分の写真を見て以来、していない。

その酔っ払っていい気になった顔でピースサインをしている自分の写真を見たときにとても恥ずかしくなった。いい気になっているのが恥ずかしいし、それにこの動作の意味がわからない。なぜ自分はこんな、意味を説明できない不必要な動作をしているんだろうと考えたら、なんだかとても決まりが悪くなった。あえて意味をいえば、自分は幸福だ、元気だ、機嫌がよい、とでもいうことの意思表示だろうか。それにしてもはっきりはしない。

それに、日本中の小中学生が決まりきったように出すピースサインをなぜ私も同じようにやらなくてはらないのか。それで、二度とやらないことにした。

調べてみると、ピースサインの起源にはいろいろあるが、イギリスの首相チャーチルが第二次世界大戦のとき、ある戦いに勝ったときに勝利のビクトリーの頭文字の意味でVサインをしたのが起源だという説が有力のようだ。その後、60年代のアメリカでヒッピーたちが平和をうったえてピースサインを出して流行したようだが、今ではアメリカでは通常、する人はいない。

日本では、70年代に井上順がコニカのテレビコマーシャルでやったのが最初らしく、それ以前の日本人の写真にはピースサインはほとんど見られないという。

こういう歴史を考えると、ますますピースサインなどできない。

まあ、どっちにしても40すぎのオヤジがピースサインなど普通はしないわけだから、今さら力説するまでもないことだが。

胃の中の吹き矢

マーティンという同僚が、朝っぱらからなにやら楽しげに写真をみんなに見せている。

よくみると、なんだか内臓のようではないか。なんでも、14歳の息子が吹き矢で遊んでいて、まちがって矢を飲み込んだそうで、その胃カメラの写真だと言う。

そういえば私が鎖骨を折ったときにグレッグに聞いた話では、8歳の息子が木から空中回転して飛び降りようとて腕の骨を折り、手術でプレートを埋め込んだ後、まだくっついていないうちにまた同じ遊びをして同じところを骨折したという。

アメリカ人って、もしかして・・・

Water please!

ドーサンには日本人は会社の同僚くらいしか住んでいないが、ちょっと都会に行くと、日本人が多く住んでいる。

そういうところには日系2世のアメリカ人もいるので、外見だけからは日本からの観光客なのかアメリカで生まれた人なのかわからない。先日遊びに行ったオーランドもそういうところで、そこで日本食の店に入った。店員も客も日本人の顔をしているが、お互いに相手が日本語を話せるかどうかわからないので、念のため、英語で話しかけることになる。

日本人の顔をしたウエイトレスが飲み物を何にするか英語で聞いてきたので、「water please」と答えた。するとそのウエイトレス、「あ、お水ですね。かしこまりました」と言った。water pleaseだけで日本人だと分かられてしまったのだ。ちょっと悔しい。

宮根さんの関西弁検定「それ、チャウチャウちゃうんちゃう?」ぐらいなら言えなくても仕方がないが、water pleaseは言えそうなもんだが。まあ、聞き返されなかっただけ良しとしよう。

小便飛ばし競争

息子たちの幼稚な振る舞いにあきれた妻がよく「中学男子ってこんな程度なの?」と私に聞くので、大体、以下のような話をすることになる。

中学一年のとき、学校の休み時間に小便飛ばし競争が流行った。当時の男子便所は小便器がなくて、ついたてで左右を仕切られて、床に溝が彫られた壁に向かって立って放尿する便所だった。コンクリートの壁に小便のあとが残るので、いつしか、その高さを競うようになってしまっていた。

そのためにわざと途方もない量の小便をためるやつや、飛び跳ねて記録を伸ばそうというやつがいたし、あろうことか助走をつけて失敗するやつまでいた(考えればわかりそうなものだが)。記録はどんどん伸び、ほとんどの生徒は自分の頭より高い記録を作っていた。40半ばとなった今では考えられない勢いだ。今でも覚えているのは、隣でがんばっていた友人の小便が方向を失い、ついたてを越えて私の正面に振ってきたことだ。このときばかりは、自分たちが便所の設計者の常識を超えた遊びをしていることを実感したものだった。

また、あるとき、その便所の小便だまりに赤のボールペンが落ちているのを発見した。聞いてみると、卓球部の阿部が落としたという。これを知った私は、阿部を驚かしてやろうと思い、汚いのを我慢してそれを拾って洗って机の上に返しておいた。親切心を装った高度なイタズラだ。阿部の反応を見たい気持ちが、小便を汚いと思う気持ちに打ち勝った瞬間であった。

このような話をするので、妻の苛立ちはますますつのることになる。

正直な話

大学教授殺人事件の犯人が捕まったようだ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000075-maiall-soci

犯人が捕まって、学生が「正直ほっとした」というコメントが寄せられている。こういうコメントはよくあるが、見るたびに吹き出してしまう。

なぜ「正直」なのだろう。殺人事件の犯人が捕まってほっとするのは当たり前ではないか。そもそも本心を偽る必要がないのだから、「正直」はまったく不要だ。「正直、事件のことは忘れてました」とか「スリルが減って正直残念です」とでもいうなら正しい。建前と反対の本心を言うからこそ「正直」とつけるのだ。犯人が捕まってほっとしたのが本心なら、いったいどんな建前があったというのだろう。もしかして自分で捕まえたかったとか。

長々と揚げ足取りをやったが、誤用の理由はわかっている。何も考えていないただの口癖なのだ。めったやたら「逆に」を連発する人や、さんざん話した後で最後に「結論から言うと」と言う人と同じで、意味などないのだ。

このコメントを聞くたびに「ほほう、それが偽らざる本音ですか。じゃあ、いったいどんな偽り、建前があったのかな?」などと発言者を問い詰める想像をして愉しんでいる。

さらに訛りの話

アクセントを直すのが難しいと書いたが、私より上の世代ともなると、アクセント以前に、母音の発音すら難しくなる。

高校の卓球部の10歳上の先輩など、日本語の50音を発音することさえできなかった(もちろん今もだ)。「あ・い・う・え・お」と言っているつもりでも実際には「あ・うぃ・う・い・うぉ」となる。同様にサ行は「さ・す・す・し・そ」という具合だ。

「5時 に 駅裏 に 来い」

と言う場合、実際の発音は

「ごづ ぬ いぎうら さ こ」

となる。もちろん、本当の発音は日本語の母音の中間音なので書き表すことはできないが、もっとも近い音がこのようになる。母音の発音、アクセント、単語そのものと、彼がアナウンサーになるための道は果てしなく遠い(なるわけがないが)。

今のように方言の再評価などされる前は、方言はとにかく「悪い言葉」という扱いだった。この先輩など、小学校のとき、先生に黒板に頭をガンガンぶつけられながら「訛るな」と指導されたという。成果はなかったようだ。なんとも切ない話だ。

かつては「東北人の発音が訛っているのは舌の構造に欠陥があるのではないか」と本気で考えた学者もいたほど、発音の訛は根が深いのだ。

「し」が発音できないなんてことがあるのかと思う人もいるだろうが、フランス人など「ハ行」を発音できず、ハローと言えずにアローと言うくらいで、小さい頃に身につけないと、発音は難しいのだ。

卓球と同じだなっ!

訛りの続き

訛りの話が琴線に触れたようで、ゲストブックやらメールやらでコメントをいただいた。

田舎者が方言を直すのでもっとも難しいのがアクセントであることは論を待たないが、意外な落とし穴が、標準語と別の意味で使われている方言だ。この場合、そもそも方言だと思っていないわけだから、直せるはずがない。

中学生のとき、クラスで厳美渓という観光地に遠足に言ったことがある。学校に帰ってきてから国語の時間に短歌を書かされたのだが、そのときにある友人が書いた短歌が次のようなものだった。

『厳美渓 川の間をスルスルと だんご走るよ カネ痛ましく』

厳美渓では、川に渡したロープで名物のだんごを渡すパフォーマンスがあり、友人はそれを歌にしたのだ。問題は最後の部分の「カネ痛ましく」だ。痛ましいと言えば標準語では、「痛ましい事故」などのようにかわいそうというような意味だが、実は私の育ったあたりでは「もったいない」という意味で、とくに金銭についてよく使われる言葉なのだ。つまりこの友人は、だんごを買ってみたはいいが、金がもったいなかったと悔やんでいるのだ。

天然記念物に指定された名勝地まで行って感じたことが「金がもったいない」というこの友人の心がけがなんとも可笑しい。さらに言葉も間違ってるのがよけいに可笑しくて今もこの短歌を忘れられない(そもそもその可笑しさがわかって注目したのは私だけだったはずだ)。いかにこの友人が短歌など書きたくなく、またその素養もなかったかがよくわかる。たぶん本人は全然覚えていないだろう。

ちなみに、実際には我々は「痛ましい」などとは言わず「いだます」としっかりと訛って発音している。これをちゃんと標準語風に「痛ましい」と書いたところまでがこの友人の能力の限界だったわけだ。

そういえばこいつも卓球部だった。

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