月別アーカイブ: 5月 2009

訛りの続き

訛りの話が琴線に触れたようで、ゲストブックやらメールやらでコメントをいただいた。

田舎者が方言を直すのでもっとも難しいのがアクセントであることは論を待たないが、意外な落とし穴が、標準語と別の意味で使われている方言だ。この場合、そもそも方言だと思っていないわけだから、直せるはずがない。

中学生のとき、クラスで厳美渓という観光地に遠足に言ったことがある。学校に帰ってきてから国語の時間に短歌を書かされたのだが、そのときにある友人が書いた短歌が次のようなものだった。

『厳美渓 川の間をスルスルと だんご走るよ カネ痛ましく』

厳美渓では、川に渡したロープで名物のだんごを渡すパフォーマンスがあり、友人はそれを歌にしたのだ。問題は最後の部分の「カネ痛ましく」だ。痛ましいと言えば標準語では、「痛ましい事故」などのようにかわいそうというような意味だが、実は私の育ったあたりでは「もったいない」という意味で、とくに金銭についてよく使われる言葉なのだ。つまりこの友人は、だんごを買ってみたはいいが、金がもったいなかったと悔やんでいるのだ。

天然記念物に指定された名勝地まで行って感じたことが「金がもったいない」というこの友人の心がけがなんとも可笑しい。さらに言葉も間違ってるのがよけいに可笑しくて今もこの短歌を忘れられない(そもそもその可笑しさがわかって注目したのは私だけだったはずだ)。いかにこの友人が短歌など書きたくなく、またその素養もなかったかがよくわかる。たぶん本人は全然覚えていないだろう。

ちなみに、実際には我々は「痛ましい」などとは言わず「いだます」としっかりと訛って発音している。これをちゃんと標準語風に「痛ましい」と書いたところまでがこの友人の能力の限界だったわけだ。

そういえばこいつも卓球部だった。

訛りに関する思い出

私の育った岩手県はもちろん東北弁が通常の会話で使われる。小中学生ともなると、標準語を使うことはかなり難しい。もちろん普段から本を読んだりテレビを見たりしているわけだから、読む、聞くは問題なくできる。しかし、話すのは難しい(英語みたいだなまるで)。

高校時代の卓球部の友人に聞いた話によると、彼が中学のとき、友達同士で「訛ったら負け」といういかにも東北の少年らしい、もの悲しい遊びをやったらしい。

それでゲームを始めはいいが、第一声で「僕は、んで・・」と言って負けてしまったという。「んで」とは「それじゃ」という意味だ(標準語圏でも「それで」の意味で「んで、どうしたの?」などと使うことがあるので比較的分かりやすいだろう)。標準語を話すという緊張を「僕は」までしか保てなかったというわけだ。

偶然だが「んで」については私にも思い出がある。小学生のとき、東京の親戚が埼玉に住む知人一家をつれて我が家に遊びに来た。当時の我々にとって埼玉はもちろん東京と同じことだ。その家には私とほぼ同年代の少年がいて、すぐに打ち解けて遊んだのだが、ひとつだけはっきり覚えているやりとりがある。私はなんとか緊張しながらも標準語を使って意思疎通に成功していたのだが、地元のこどもどうしで話しているときに「んで」と言うと「それどういう意味?」と聞かれた。「『それじゃ』という意味だよ」と言うと、「じゃあ、どうしてそう言わないの?」と「素朴な疑問」を呈されて、私はそれにうまく答えられず、なにか負けたような気持ちになったのだった。視野の狭い小学生どうしの異文化交流らしいちょっとだけ居心地のわるい思い出だ。あのヤロー、今頃どんな大人になっているだろうか。

キリシタン

うちの子供が通っている学校はクリスチャンスクールで、もっとも大事な授業は聖書だ。なにしろ科学の教科書の題名も「God’s world」だ。進化論はウソだと教師も全員信じているし、子供の友達もおなじ考えだ。

私は会社で同僚何人かに神様を信じているか聞いてみたが、全員が「イエス」と答えただけではなくて「ものすごく強く信じている」と胸を張る。なんとかひとりぐらい例外はないものかと思うのだが、先日も大敗した。最近いっしょに仕事をしている、ジョークのわかる気の合う奴に聞いてみたのだ。するとそいつは間髪入れずに”Yes. You can kill me.”と言った。一瞬、意味が分からなかったが、説明してもらうと「たとえ殺すと言われても信仰を守る」ということだった。話がわかるどころか、これまででもっとも強烈な答えだ。

「でも、本当に拳銃をつきつけて信仰を捨てろと迫られたらすぐに俺は折れるよ。そんなことをする時点で、そいつは狂ってるわけだから相手にしてもしかたがないからね」などとご丁寧に言わずもがなの現実性を説明してくれた誠実さがおかしい。誰もそんなことしないって。豊臣秀吉じゃないんだから。

続・意味ないなあと思うこと

フェアな試合をするのは賞賛されるべきだが、ときどき、それを意識しすぎて異常な行動を示す人がいる。

大学時代の仲間だが、相手のボールが台をかすめようものなら、それこそ異常な反応速度で審判のように両手を左右に広げてセーフのジェスチャーを示し、「入った」ことを相手に告げるのだ。たいがい、ボールはまだ床に落ちていないタイミングである。あれほどの反応ができるなら、打ち返せるだろうに。意味ない。

もうひとつ。卓球の弱い後輩が、個人戦で他校の有名選手と当り、問題なく負けた。戻ってきて一言「○○さん、マナーが素晴らしかった」と言った。どこの世界に、格下の相手とやるのにバッドマナーをする選手がいるというのか。さすがに見るところが違うなと思ったものだ。

エッジ問題再び

名前は伏せるが、私が書いたエッジ問題について、一番弟子からメールが来た。

彼によれば、あの審判はあのボールがエッジであることは百も承知であり、問題は彼が香港の審判だったことらしい。香港、シンガポール、ともに中国卓球界と深いかかわりがあり、公平なジャッジは不可能だったというものだ。だからこれは「物理法則」の問題でもなければ「論理」の問題でもない、「政治」の問題だったというのだ。

水谷に詰め寄られて無表情だったあの審判の顔は、家族を人質にとられている主の顔だったというわけだ。そう考えれば納得がいく。それにしたって、ビデオで証拠を示せばあの審判も堂々とサイドと判断できたはずで、あいまいだったからこそ政治的判断を入れる余地があったわけだ。ビデオ解析をしなかったのが惜しまれる。

それにしても、水谷が明白に台の内側で打球したボールをすぐさま「サイド」にしてしまおうとガッツポーズをとったシンガポール選手もある意味、見事なものだった。

岸川/水谷 ダブルス準々決勝の誤審

横浜大会の男子ダブルス準々決勝、岸川/水谷組対シンガポール組戦の第6ゲームの8-9からのエッジ判定のシーンをあたらめてITTFのビデオで見直した。

私は当時の実況で「あれはサイドに見える」と書いたが、それはあくまで会場のスロー再生映像だけを見ての感想であり、あらためてビデオを見ると、その判断は間違いであることがわかった。あれはエッジ以外ではありえない。なぜなら、水谷はボールを台の内側で打球しているからだ。台の内側で打たれたボールが、卓球台の側面に当たることは、現代の卓球のボールの軌道ではありえない。水谷がそれを「I push ball here. No possible.」と審判にアピールしている声が入っている。「自分はここでボールをツッツいたんだからサイドはありえない」と言っているのだ。しかし審判はなぜか無反応。まるで水谷の言っている意味が分かっていないような表情だった。他にも年配のおじさんがやってきて水谷と同じような説明をしていたが、誰一人として近くにあった長方形の紙切れを卓球台に見立ててボールの軌道を指し示して審判を納得させようという試みをできなかったのが、今映像を見るともどかしい。

会場のモニターには、問題の核心とばかりに、ボールが台をかすめたシーンばかりを何度もスロー再生していたが、それだけではエッジかサイドかを判定することは難しい。卓球を知っている人なら、水谷がどこでボールを打球したかをこそ再生すべきだった。したくてもできなかった事情があったのかどうかわからないが、当時放送していただろう複数の局のアナウンサーや解説者たちはそのスローが必要であることをコメントしていたのだろうか。「水谷がどこでボールを打ったかが重要ですね。そのVでませんか?」とか言ってくれていたのだろうか。「水谷が台の内側でボールを打った」「そのボールが台に触れた」この二つの証拠があれば、どんな審判でもサイドとは言えない(それでもサイドと言うようなら審判の資格剥奪だろう)。それができなかったのがなんとも残念だ。勝った負けたの問題ではない。こんな明らかな誤審がまかり通ることが残念だ。

学生試合、ある大会で他校の有名選手が同じようにもめたことがある。そのとき彼は、審判にこう詰め寄った。主審に対して「お前は、俺がここ(台の内側)でショートをしたのを見たよな?」と聞いて「はい」と答えさせ、次に副審に「お前は、俺のボールが台に触ったのを見たよな?」と聞いて「はい」と答えさせ、「じゃあこれは絶対にエッジだ。サイドではあり得えない」と審判と相手を納得させた。

選手であろうと審判であろうと放送局であろうと、コレくらいの論理的な判断をしてもらいたい。

なお、私が見逃していた事実がもうひとつあった。今回の卓球台は、側面が鉛直ではなく、下に傾いていたことだ。ボールの入射角と反射角の関係からして、もしサイドなら、ボールはもっともっと下方に落ちなくてはならないから、あのボールの落ち具合を見たなら、やはりあれはサイドではなくエッジの可能性が高いと考えるべきだろう。しかしこれは定量的ではないので絶対的証拠にはならない。もし水谷が台の外でボールを打った場合なら、審判に従うしかなかっただろう。でも今回は違う。ビデオさえ使えばエッジであることを証明することができたのだ。

無意識の素振り

卓球マニアはどうも日常生活で無意識に素振りをする傾向があるようだ。

私もそうだ。どういうときに何の素振りをするか考えてみると、歩いていて左に曲がるときにフォアドライブのインパクトの形を手でやっている。手は、シェークのグリップのチョキだったり、手のひらをブレードに見立てたりだが、後者の方が多い。ときどきシュートドライブになるが、なぜかカーブドライブをすることはない。

次に多いのが、シェークのバックハンドフリック。こちらはグリップのチョキの形をすることが多い。以前はフリックではなくて、相手のフォアに逆モーション的に流すブロックばかりやっていたことがある(素振りの話だぞ)。ワルドナーが世界的に広めた技術だ。

当時、仕事の会議中に、無意識にこれをやっていたらしく、正面に座っていた耳の聞こえない人が反応し、「何?」という顔をした。後で聞いてみると、チョキにして体の前から右に動かすと「とっても」という意味の手話になるらしいのだ。それで、私がその手話を彼女に送っていると誤解されたものらしい。

そういえば村上力さんに弟子入りしたての頃は、指を使ったフォア前の逆モーションフリックばかりやっていた。それと、首を左にひねりながらのバックハンド逆モーションスマッシュ。もちろん指はペンのグリップになっているので、一般人から見ると”OKマーク”を出していることになる。これはもう他人に見られたら完全に神経の病気だと思われるので、度胸のある方はお試しあれ。

おっ、チンキ!

横浜でテレビ放送の画面で陳杞をチン・キと表示するのを見て以来、チキンを見ると反応してしまう。

成田空港でもチンキ弁当に目がいった。機内でもチンキビビンパだ。

人形俳句写真『絶滅した夢』

義姉の人形写真の新作を紹介する。俳句冒頭の漢字は「さえずり」と読むそうだ。

人形はとてもよかったのだが、私は写真がどれも気に入らず、何回も撮り直ししてもらって、やっと33枚めに人形の良さが出る写真を送ってもらえた(当然ながら、私が気に入らないものはここには載せないのだ)。ところが妻は義姉に私と正反対の意見を送っていたらしい。私は「もっと大きく」と言っていたし、妻は「もっているカバンが大事なので全身を」と言っていた。私が「背景はぼかして」と言えば妻は「背景の建物をはっきりと」と、見事に正反対だ。かくも人の意見は違うものなのか。いちいち全員の意見を聞いていたらさぞ混乱することだろうと思う。卓球王国編集部はいつもそういう目に合っていることだろう(『逆も~ション』最高!&止めさせろ!とかね)。

義姉はこの人形を作るのに、鏡に向かって顔の筋肉を動かして慟哭する表情をつかんだそうだが・・・想像したくない・・・。

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