村上春樹

最近、村上春樹の小説を読んでいる。『海辺のカフカ』『パン屋再襲撃』と読んでいて、以前宮根さんに借りて読んだ『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と合わせて3冊読んだことになる。

私はそもそも小説というものを読まないのだが、村上春樹といえば世界的に認められていてしかも売れているというものすごい作家だから、これなら私にも魅力がわかるのではないかと思って読んでいる。ところが面白くない。面白くないのは趣味の問題だから仕方がないとして、わけが分からないのは困った。ファンの人たちはわけがわかっているのだろうか。

そう思っていろいろ調べてみると、村上春樹本人が実はわけがわからないそうなのだ。「頭の良い人がいろいろ解説をしてくれていますが、私はよくわかりません」と語っているのだ。村上春樹は、日常生活で経験したいろいろなことから、言葉にできないある思いがわきあがり、それを表現するのに小説を使っているという。その思いは言葉にできないので、小説以外の形態で説明することはできないという。

さすが小説家、うまい表現だ。「解る」ということは言葉にできることだから(「味がわかる」などというのとは別の「解る」だ)、そもそも彼の小説には「解る」べきことは何もないのだろう。「解る」のではなくて味わう、感じるべきなのだと思う。

しかし、ここで疑問が生じる。村上春樹が表現したいと思っている「ある思い」が読み手に伝わっているかどうかは、実は確かめようがないのだ。客観的な言葉にできないものは確かめようがないからだ。考えうる実験として、村上春樹に、何の思いもなく空っぽな小説を、いつもの巧みな比喩を駆使した文体で書いてもらい、それをファンが評価するかどうかを試すのだ。いつもと同じように絶賛されれば、ファンは彼の表現の妙や文体を好いていたのであって、彼の思いを感じていたわけではないことになる。逆の結果なら、ちゃんと彼の思いは伝わっていたことになろう。しかし現実にはこの実験は不可能だろう。なぜなら、村上春樹が小説を書く動機は、その思いを表現したいことだから、表現したいことがないといかなる小説をも書けないだろうからだ。

うーん、深い。