墓の話

一昨日、どういう経緯か忘れたが、自分が死んだ後の葬式と墓の話になった。

私は霊魂など信じないので、それを商売にしている坊さんにお金を払うことだけはどうあっても認められない。当然、葬式も墓も不要である。檀家などとんでもない話だ。そんなことは金が余っている人たちにだけ続けてもらって日本文化を維持してもらいたい。私はごめんである。まあ、自分が死んだ後のことだからどっちにしてもコントロールできないし知ることもできないのでどうでもよさそうなものだか、あえて言えば、死んだ後にどうしてくれるかを知って納得して死にたいということだ。死ぬ前の自分の満足のためにそういう約束を遺族としておきたい。

映画やドラマなどで「貧乏のために葬式も満足に出してやれなかった」と泣いたりするシーンを見ると「やらなければいいのになあ。そんな無駄なことに金をかけるから貧乏なんじゃないか」と話のスジと関係ない憤りが沸いてきてしまうので、こういう台詞はぜひとも削ってもらいたい。

とはいえ、私が嫌いなのは霊魂だのお布施だのだから、坊さんなしでの葬式なら大歓迎だ。仏壇もお経もなしで関係者に集まってもらって弔辞を読んだりするのは全然問題ない。これらは生きている人の満足のためにやることだからだ。そこに霊魂だの宗教だのが入ってきて余計なお金をかけるのが嫌なのだ。

ネットで調べてみたら、葬式をしたくないという人はときどきいるらしく、費用もかなり安くなるらしい。普通に葬式をすると130万円ぐらいかかるのが、火葬だけにすると30万円くらいだそうだ。私は火葬も要らないので、警察に罰されない範囲で生ゴミにでも捨ててもらってよい。人間など死んだらただの物なのだから、外見にだまされて大事にする必要はない。

当然私は墓参りなどしない。お墓は実家のすぐ近くにあるので、お盆に親戚といっしょに行くことはあるが、墓を見ても「なんと無意味な石だろう」と苦笑するだけである。

こう書くと、私に先祖を敬う気持ちがないと思われるかもしれないが、それとこれとは別である。そうだとしても文句を言われる筋合いもないが、むしろ私は先祖を敬う気持ちは人一倍強いと思う。私は常日頃から、祖父母や曽祖父母が若かった頃はどうだったのだろうかとその情景を思い浮かべたりして、祖先についての思いをめぐらせているし、大好きだった曽祖父の名前を息子につけたほどだ。これほど先祖のことを思っている私が、お盆のときしか先祖のことを思い出さないような人たちに、その気持ちを見せるために無意味な儀式をする必要などない。お盆に墓なんかに行かなくてもいつでもどこでも私は祖先とともにあるのだ。

葬式も墓も要らないと言ったら、子供たちが「お父さんのことを忘れられてもいいの?」と言った。「そんなことをしなくても忘れなければいいではないか」と言ってハッと思ったのは、墓はたぶん、死んだ人のことを忘れないためにあるのではなく、その逆に、お盆のとき以外は忘れてもよいという免罪符のためにあるのだ。

まあ、自分が忘れられても忘れられなくてもそれは死んだ後のことだから実はどうでもよい。これだけ強調をしてもいざ私が死ねば平気で葬式をして墓を作って「面倒な要求ばかりする変わり者だった」と言われるのだろう。それもどうでもよい。