年別アーカイブ: 2010

50万円のラケット

一本50万円のラケットの情報が寄せられた。

http://item.rakuten.co.jp/nikkansports-shopping/tn-000-niktaku

いやはや物凄いもんだ。なんでも、バイオリンの名器「ストラディバリウス」と同じ材質の木を使っているんだそうだ。

バイオリンに必要な材料の特性がラケットに必要な特性と一致するのか興味深いところではある。誰か金持ちの人が買って打たせてくれないだろうか。でも、買ってももったいなくてラバーも貼れないんじゃないだろうか。

さすがに限定一本のようである。

ペンホルダーのバックブロックについて

以前、雑誌にも書いたが、近年の日本卓球界でもっとも大きな技術革新があったのはブロックである。ヨーロッパが中国を凌駕した80年代末からランダムに対するブロック練習が導入されたのが大きな要因だろう。

どのようにして導入されたかはよく分からないが、少なくとも私は、当時今野さん(現卓球王国編集長)がやっていたTSP卓球トピックスという雑誌で新しい練習方法を読み、毎月のように目の前が開けていくような経験をしていた。私の周りの卓球好きたちはみんなそうだった。日本の卓球の進歩のかなりの部分は今野さんによるところが大きいと私は本気で思っている。

日本選手が中国よりバックが苦手だったのは1950年代から言われていたことである。だからバックの強化というのはずーーーーーーーーーっと言われていたのだ。しかし何がポイントなのか、どう練習したらよいのかは誰もわからなかった。

今なら分かる。ランダムコースでの両ハンドの練習をすればよかったのだ。日本選手はフォアハンドを重視していたため、バックブロックのとき、相手の攻撃球を返せるほど面を下に向けることができなかった。80年代までの日本のペンホルダーの選手が実戦でバックブロックをする様子を写真などで見るとそれがよくわかる。河野を例外として、全員がかかとを上げて体全体を上にずらして打球している。なぜそうするのか。「伸び上がる力を利用して打球する」などと言う人がいかにもいそうだが、こういうのが典型的なインチキな理屈なのだ。

彼らは、打点を体の下方にズラすことでラケットの角度を出すために飛び上がっていたのだ。仮に体全体が15cm上にズレたとしよう。肩からラケットまでの距離を50cmとすると、この15cmはラケットの角度にして18度の変化をもたらす。ネット上空をネットと同じ幅の範囲内を通すために許容されるラケット角度の範囲は6度ぐらいだから、これは十分に意味のある行為だったのだ。ブロックをするときでさえ飛び上がらないと角度が出ないのだから、それよりラケットをかぶせなくてはならない強打などできるはずもなかった。

ところが、コースが一定だったり規則的な練習の場合、足を組み替えたり打点を体の右側にズラしたり、あらかじめグリップを変える時間があったりするために、このバックの弱さが現れないのだ。当時は、ランダム練習という「応用」は、まずワンコースで何千本も続ける「基本」が「完全に」できてからやるものだという間違った基本信仰があったため、誰もがワンコースあるいは規則的な練習ばかりをやっていたのだ。そしてその「基本」ができたころには、すっかり実戦で使えないスタイルになってしまうというわけだ。もし相手にランダムに打ち込んでもらう練習をしていれば、実戦で使えないバックになっていることはすぐにわかっただろう。

こういう間違った基本信仰は他にも沢山あると思われる。中国にだってあるはずだ。これらをひとつづつ潰していって中国よりも効率のよい練習に改造してこそ、中国を倒すことができるのだと思う。

フットワークについて

今月の卓球王国の原稿にフットワーク練習について書いた。

ある練習あるいは技術が勝つために有効か否かを判断するのは極めて難しい。
実際に試合で勝ったとしても、本当にその技術を練習したからなのかどうかは証明できない。それをしなくても勝ったかもしれないし、別のことをすればもっと簡単に勝てたかもしれないと、いくらでも思い通りの主張をし続けることができる。

だから、80年代から90年代に、日本の卓球が低迷した時期、日本の卓球は古いからダメなんだと主張する人がいる一方で、昔の日本選手のようにやらないから弱いんだと正反対の主張する人たちもいた。

これらのどちらも証明も否定もできないが、私は卓球は進化していると信じているので、前者が正しいと考える。これは信念といってよい。

私が卓球技術を考えるとき、よりどころは二つしかない。ひとつは物理的に理にかなっているかどうかだ。理にかなっているといっても、『弧線理論』のようなインチキな後付けの理屈ではダメだ。誰が聞いても未来永劫100%確実に間違いない理屈しか使ってはいけない。たとえば、ラケットを速く振るほどボールは速く飛ぶ、面を下を向けるほどボールは下に飛ぶ、こういった、絶対確実なことだけが信用に値する。もうひとつは、現代の強い選手が実際に試合でどのように動作しているかだ。練習のときの動作は信用できないし、まして言っていることはさらに信用ならない。あくまで実戦でどうやっているかだけを見るのだ。もちろんそれは将来、否定されるものかもしれないが、理想的な動きを考えつくためには卓球はあまりに複雑である(だからこそ技術は進化してきているのである)。それができない以上、現在手本を参考にするしかないと思う。

石川佳純とシンガポールの馮天薇との試合をビデオで見た。5ゲーム通して石川のフットワークを見たが、交差歩を使った回数はゼロだった。バックサイドのサイドラインの外側まで回りこんだ後、フォアに飛びつくときでさえ、近い方の足一本で3回飛んで、交差歩を使わずに飛びついていた。一方、相手の馮天薇は、台から離れて大きく飛びつくときに2回ほど交差歩をしたのを見た。おそらくこれは、全体のフットワークの1%以下の頻度である。

この事実から、少なくとも女子卓球において、交差歩を練習するのはまったく時間の無駄だと私は考える。もちろん、「交差歩は試合ではそのまま役に立たなくても、動きの基本であるから絶対に役に立っている」という主張もあるだろう。しかしそれには何の根拠もない。根拠のないものは信じない。それよりも選手が実際に試合でやっていることの方を根拠にすべきだ。

今はビデオがあるので、一流選手がどのように動いているか、誰でも正確に見ることができる。このようにひとつひとつを考えていけば、もっと効率の良い練習や技術を発見できるのではないかと私は思っている。

便利なアクセサリー

私は、いかにも非常時に役に立ちそうな「実用的な物」にとても魅力を感じる。

キーホルダーなんかでも、ただの絵柄よりは、栓抜きがついていたり方位磁石がついてたり、定規の目盛りがついていたりすると欲しくなる。しかし考えてみると、これらを携帯していて本当に役に立つことはほとんどない。そんなものを使わなくてはならない状況にはならないし、品質にも問題があって、下の写真の栓抜きなんて、実際に使ってみると隙間が小さすぎて瓶の口に引っかからないのだ。

帰任するときに、職場のアメリカ人から、卓球を教えてくれたお礼にと、私の名前を彫ったアクセサリーをもらった。よく見ると小さなナイフと爪とぎが折りたたまれていた。私は日常生活でナイフを持って歩いたことはないので、いかにも不必要なものに思えたが、せっかくもらったからとズボンのベルトのところにつけてみることにした。

間もなく驚いたのは、このナイフがとってもよく使う機会があって便利なことだ(さすがに爪とぎは使わない)。
梱包物を開けるとき、封筒を開けるとき、なにかのこびりついたものを剥がすときと、意外によく使うのだ。先日は田丸さんに例の資料をいただくとき、二つ折りになっていたのを半分に切らなくてはならない状況になったので使った。こんなに役に立つアクセサリーというのもそうないだろう。

今までなくて済んでいたので当然、なければないでどうにかなるのだが、あるととても便利なのだ。そういうわけで、これは私の大のお気に入りとなり、くれた人にも「本当に役に立ってる」とあらためてお礼のメールを出した。

田丸さん健在!

昨日、荻村伊智朗と上原久枝さんにちなむ会である智久会に参加した。
2006年以来、4年ぶりだ。

そこで田丸さんにお会いした。外見はまったく変わっておらず、すこぶるお元気のようでなによりであった。

気になっていた名刺を見せていただくと、講習会が71回に更新されていた。最近では講習会に出ても自分の方がよく知っていることばかりで意味がないので、出なくなっているのだという。気づくのが遅すぎるような気がするのだが。

さらに、独自の卓球理論をまとめた書類をいただいたので、ご本人の了解のもと紹介しよう。少し口頭でご説明いただいたのだが、かなり難しく、ちょっとわけが・・・。
それに、まるで鎧を着けた落武者のような白目の人物がかなり不気味であり、夢に見そうな卓球理論である。
知性と精神力に自信のある方はぜひとも解読に挑戦してみてもらいたい。

子供の躾

箸渡しはするは、箸をご飯に突き立てるは、そんなことで家での子供の躾はどうするのかと言われたことがある。

子供たちには「日本では”葬式を思い出す”などという戯言を理由に悪いマナーだということになっているので外ではやらないように。家ではどんどんやってよい。ただしクチャクチャと音と立てて噛むのは俺が不愉快なので絶対にやってはいけない」と言ってあるので心配には及ばない。

礼儀作法の続き

なんだか「人には挨拶しよう」とか「ゴミを拾おう」などという説教くさい正論を書いているような感じになってしまったが、そう思われるのも本意ではない。

ただ私は、意味の分からない礼儀より普通の礼儀の方を重んじたいだけだ。学生時代、コンビニでアルバイトをしていた友人がいて、彼があるとき「レジでお客さんに『どうも』とか言われるとそれだけで嬉しいんだよ」と言った。それまで私は、店員は仕事でやっているだけだし余計な事を言われても面倒なだけだろう、彼らは機械のように気持ちを殺して働いているのだ、などと漠然と考えていたから、この話を聞いたとき「そうだったのか、嬉しいのか!」と目からうろこが落ちたのだった。

それ以来私は、年賀状は出さないしお土産は買わないし箸渡しはするしご飯に箸を突き立てるしスパゲッティは箸で食べるが、コンビニの店員にだけは声をかけるのだ(文句あるか)。

ただ、コンビニに入店したときに「いらっしゃいませ」と言われるのに応えるのは、さすがに何と言っていいかわからないので「ハイハイ」などと小声でお茶を濁している。かえって異常な客だと思われてるかもしれない。

ちなみに、卓球の選手が指導者に大声で挨拶をしたりコーチひとりひとりに頭を下げたりするのを人間育成だと思っている指導者がいるようだが、私は反対である。そんな異常な行為は礼儀ではないし、社会にでたときにも何の役にも立たない。第一、そんなものはガソリンスタンドか居酒屋で1日アルバイトをすれば覚えられる。もちろん卓球の役にも立たない。中国もドイツも、そして水谷も岸川もそんなことをしていないのに強いことを見れば明らかではないか(韓国は危ないけどな)。

ご飯の御代りの作法

礼儀作法のことをネットで調べたら、驚くべき作法を発見した。

ご飯の御代りをするときは、ご飯を全部食べずに、少し残して差し出すのが礼儀だとされているのだ。どうしてそうした方がよいのかにはいろいろ理由が書いてあるが、どれもこれも屁理屈にしか思えない。

こんな、説明しなくては気づかないようなクイズまがいの「理由」なら、そもそもそんな作法は守る必要がないではないか。世の中にはそういう作法にこだわる人がいて「本式はどうだ」とか議論までされているようだ。

何のためにこれらの作法があるのかと考えてみると、ルールに従わない奴を探し出すためだとしか思えない。「よーし、会ったときに薬指を鼻に当てるのを仲間の合図にしようぜ。そうしない奴は仲間外れにしてやろう」という感じで適当に決めたルールのようなものだ。人間がお互いに気持ちよく付き合うために作法があるはずだが、実際には人間を阻害しているのだ。

そんなわけのわからない作法を守らないことよりも、コンビニの店員や守衛などに挨拶をされても無視することのほうがよっぽど礼儀に反していると思うのだがどうだろうか。挨拶をされたらし返すという、時代と地域によらない人類普遍のマナーをしない人たちが箸の使い方だの座る位置だのにこだわるのだから滑稽ではないか。「どっちが大事なんだよ、おい」と言いたい。

礼儀作法

先日、祖母の葬式に自分でお経を読んだ友人のことを書いたが、彼は、日常、箸を置くところがない時など、よくご飯に箸を突き立てて妻の顰蹙を買うという。私もこれはよくやる。箸を置くのに適当な場所がなく、手を空けたいときはなんといってもこれが便利だ。また、食べ物を箸でやりとりする「箸渡し」もよくやる。早くて便利だからだ。

これらはいずれも日本では葬式を連想させる縁起の悪い作法としてやってはならないこととされているので、一応私も公共の場ではやらないようにしている。

作法は文化であり、人間関係を円滑にするためのものだから価値は認めるのだが、こういう変な理屈をつけた作法にはどうにも逆らいたくなる。葬式を思い出すというのは、それを葬式の時しかしないからだ。普段から箸をご飯に突き立て、箸渡しをやっていれば、誰も葬式を思い出しはしない。その証拠に、もっと葬式の特徴と合致する、魚を焼いたりフライドチキンの骨をしゃぶるという行為をしても、誰も葬式を思い出さないではないか。

本来、便利な動作を、わざと葬式の時だけすることにして、日常はそれを禁止にするというのがどうにも納得できない。どこかの「気を利かせすぎたバカ」が作った、人間より上に置いた本末転倒なルールのような気がするのだ。

昔は、人口の半分も二十歳まで生きられなかったのだし、盲腸でも死に出産でも高い確率で死んでいて、いずれもその原因がよくわからなかったのだから、それは縁起にでも頼りたくなろうというものだ。だから葬式のときだけする動作を決めて、日常ではそれをやらないようにして「葬式をするハメにならないよう」祈ったのだろう。祈るしかなかったのだからしょうがない。

しかし現代は、科学が発達して、多くのことの因果関係がわかっている。どう考えたって箸の使い方と人の生き死には関係がない。「縁起」というものを楽しい方向に活用するのは良いと思うのだが、便利なことを禁止するネガティブな方向の「縁起」はいただけない。どうしてもそういう縁起を作りたいなら、葬式の時にはもっと珍しい不便な動作をすればよい。

箸を3本もって骨をつまむとか、ご飯に箸を水平に刺すとかだ。そうすれば誰も迷惑を被ることなく「縁起」を維持できよう。だいたい火葬なんて一般人が初めて50年ぐらいしか経っていないのだから、こんな縁起などつい最近、葬式業者か坊主が思いつきで決めただけのことだろう。いわば、バレンタインデーに職場でオヤジに義理チョコをあげるのが礼儀だと思うのと同じようなものなのだ。そんなものに縛られるのはごめんだ。

スティーブからの返事

先日、卓球のテレビ放送のカメラ位置について説明してDVDを送ったITTFのスティーブから返事がきた。

私の言わんとするところは理解したらしいが、カメラ位置を変えるためにはスポンサーの広告やらその他、いろいろとクリアしなくてはならない問題があり、すぐにはできないそうだ。

すぐには動いてくれそうにもないが、ともかくカメラ位置問題の犯人は分かったし、スティーブはかなり柔軟な考えで私の意見にも少なくとも聞く耳は持っているので、今後、少しづつ改善されるかもしれない。

気がかりなのは、彼が、「卓球の放送こそ3Dに向いている、3Dを導入するのはどうか」と見当違いのことを言っていることだ。あんなに高く遠くから遠近感のない撮影をしておいて3Dもクソもあるか。3Dの前にやることがあるだろう。カメラ位置を変えることだ!

この人に託しておいて本当にいいのだろうか。