以前、同僚のアメリカ人に日本のマンガの中でのアメリカ人像について話したが、適当な画像が見つかったのでさっそく送ってやった。
しかし返事がない。
腹が立つ話を書いたが、先日、同僚から「条太さんが怒るのを見たことがないけど、腹が立つことはないんですか」と言われた。
考えてみると、私は他人から侮辱されたり尊重されない対応をされたりすることで腹が立つことはほとんどない。評価の基準はいつも自分の内部にあるので、他人からどう思われても気にならないのだ。
そういうことでは腹は立たないのだが、先の映画の断り書きのように、理屈に合わないことを言っているのを見聞きすると、私に関わることかどうかに関係なく、どうにも腹が立ってくる。だから、仮に誉められたとしても、あまりにもトンチンカンな誉められ方をすると、そのトンチンカンさに腹が立ってくるほどだ。
仕事などでときどきある腹が立つことに、「聞いたことに答えない人」がある。
たとえば「○○することは必要ですか?」と聞いたとすると、それの答えとして「○○しなかったら意味ないですよね?」とか「えっ?○○できるんですか?」などと、質問に対する答えをすっとばして質問し返したり、早とちりして自分の言いたいことを言ったりする反応をされると、どうにもキリキリと腹が立つのだ。「必要か」と聞いてるいるのだから、答えは「必要である」か「必要ではない」か、あるいは「分からない」であるはずだ。答えたくないなら「答えたくない」でもいいし、最悪「質問の意味が分からない」でも何の問題もない。ちゃんとコミュニケーションが成り立っている限りにおいては全然問題ないのだ。しかし先の2つの例のようなトンチンカンな対応だけは我慢ができない。
だから私は、できるだけこのようなトンチンカンな答だけはしないように努めているのだが、現実社会ではそれも必ずしも正しいわけではないらしいことを体験したことがある。ある仕事のときに、失敗をして他の部署の人たちに迷惑をかけ、会議でそれを釈明したことがある。謝罪をするとともに失敗の原因と対策について説明をして、今後はこのようなことがないことを説明したのだ。すると、ある参加者が私に「もしそれでもまた同じような失敗をしたら、今回のような事態になるのですか」と聞いた。私が「それはそうです」と答えると「えっ?じゃ、また同じ失敗をすることがあるっていうことですか?」と言った。私が「それはありません」と答えると「じゃ、最初っからそう答えなさいよ!」と怒った。
これは「もしまた同じような失敗が起きたら、今回のような事態になるのですか」という質問に対して、その質問には答えずに「そういう失敗は起きません」と答えろということだ。もし私がこういうトンチンカンな答えをされたらそれこそ「いいからまず聞いたことに答えろ」と腹が立つだろう。
家に帰って妻にこのことを話すと「それは条太が間違ってる。そういうときは論理なんかどうでもいいから、もう失敗しませんと答えるのが正しい」と言われた。そんなものだろうか。こういう非論理的な会話が正しいとされる世界は私にとって途方もない苦痛である。なんとかそういうデタラメな会話をしなくてよい世界で暮らしたいものだ。
妻の知人に家具を安く譲ったのだが、そのついでに彼女がやっている創価学会のドーサン支部に誘われたので行ってきた。強烈なクリスチャンが99%以上のこのドーサンで創価学会をやっている人たちとはいったいどんな人たちなのか、以前から興味があったのでちょうど良い機会であった。アメリカの創価学会は日本でほど熱心に勧誘をしないらしいのだが、あるとき、大手スーパーのウォルマートの駐車場で勧誘を始めて店の人に止めさせられた人がいるという。これほど強固なバイブルベルト地帯で勧誘するなんて、勇気があるというか無謀というか、さすがである。
会合場所は毎回、会員が交代で提供するらしいのだが、今日は、町の中心部で針治療業をしている人のオフィスが会場だった。
今日来たのはいつもより少なく写真に写っている12人だが、会員は23人いるという。
・・・ドーサンの卓球人口より多いじゃないか。多いどころか3倍以上である。これは悔しい。宗教と争ってもしかたがないが、卓球は私の宗教みたいなものだから、どうしても比較してしまう。
会の始めに全員で5分ぐらい「ナンミョーホーレンゲーキョー」とやるのだが、人によって声の音程が違うので、それがなんともいえないハーモニーとなり、さらにそれぞれに異なる息継ぎの周期が干渉し合って全体の音量がうねり、数少ない男性の低音の長い周期が、まるでロックバンドのベースのようなグルーブ感を醸し出しており、信じている人にとっては麻薬のように気持ちが良いものと想像された。
途中「ご本尊様の製造方法」と「お経が人間の運命を変えるメカニズム」について質問をし、有意義なディスカッションをさせていただいた。なお、ご本尊様の撮影だけはまずいということで、叶わなかった。
こうしてドーサン最後の日曜日は有意義に過ぎたのだった。
私が帰国のために、会社から卓球台を引き上げると、いつも昼休みに卓球をやっていたメンバーが、こんどは机の上で紙片を指で弾き合う遊びを始めた。
「ペーパー・フットボール」といって、アメリカでは学校などあらゆるところでやられるポピュラーな遊びだという。
ルールは簡単で、紙を三角形に折った「ボール」を交替で指で弾き合い、ボールの一部が相手のテーブルの端から出た状態で止まれば「タッチダウン」で6点もらえるという。いきすぎてテーブルから落ちれば逆に相手に点が入る。点が入ると今度は相手が空中に指で作ったゴールに「キック」する権利が与えられ、成功するとさらに1点入るのだという。
なかなか面白そうだが、二人の試合を見る限りでは、どちらもタッチダウンすることはほとんどなく、お互いにボールを強く弾きすぎて台から落ちることで点のやりとりをしていた。だから、タッチダウンすることはあえて狙わず、相手が失敗して落ちることだけを待つようにすれば確実に勝てるように思われる。もっとも、それで勝っても面白くはないだろうが。