今日は雨で会社の清掃業務はできないため、休みだった。土方になった気分だ。
町内でゴミを集めている公園を見に行くと、どこから流れてきたのか卓球台の残骸があった。何を思う卓球台。
通勤路の両側には瓦礫が散乱していて、まるで映画などで見る戦争直後のような雰囲気だ。ところどころ、バツ印がしてある車がある。何の印かはわからないが、もしかして遺体が発見された場所だろうか。
今回の災害では行方不明者を合わせて2万人近くが亡くなっているが、あらためて思うのが、戦争の恐ろしさだ。
第二次世界大戦の東京大空襲で10万人も亡くなったということの意味を今さらながら思い知らされる。しかも戦争は、何の意図もない自然災害とは違い、人間が人間をわざと狙って殺すのだから、その恐ろしさ、無念さは到底理解不可能だろう。そして戦争では時には拷問すらあるのだ。
南洋の戦地で、飢えとマラリアに悩まされながら死んでいった兵士たちが味わった恐怖と絶望は想像すらできないが、そういう人たちがいたことは紛れもない現実なのだ。
本当にこの世には神も仏もない。
地震で避難するとき、パソコンなどの貴重品をカギのかかる引き出しに入れて避難したのだが、その後、妻の実家に行ったりしているうちにカギをどこかに失くしてしまった。
パソコンを取り出すためには、どこからか合鍵を手に入れるか、引き出しを壊すしかないと覚悟を決めたのだが、今日、カギのかからない一番上の薄い引き出しを開けると手前の小物入れスペースにスペアキーらしき物が入っていた。「あれえ?」と思って例の引き出しの鍵穴に差し込んでみると開いた。
ガクッ。嬉しいけど「意味ねー」。
地震以来、初めてまともなお風呂に入った。
我が家はガスも電気も水も来ているのだが、地震直後の停電で凍結防止機能が失われたときに給湯器が凍結して壊れたのだ。台所で湯を沸かして少量を風呂に入れるインチキ風呂は2回入ったが、まともな湯量の風呂は今日が初めてである。
隣の家にはこれまで、玄関から上がったことすらなかったのだが、わざわざ誘いに来て風呂を勧められたので、ありがたく使わせてもらった。毎日ドブさらいのようなことをしていて自分でも臭いほどだったので助かった。
ただ、風呂に入らない生活をして思ったことは、慣れればなんでもないということだ(毎日ドブさらいさえしていなければだが)。余震に備えていつもジーパンにセーターを着て寝ているのだが、これも慣れると非常に心地よい。なにしろ起きている状態の服装で布団に入るのだからポッカポカに温かいのだ。起きたときにはもう手足の先が快感で痺れるほどぬくいのだ(ちょっと大げさかな)。これまで思い込んだようにパジャマを着て寝て、ときどき布団がずれて寒いなんて言っていたのがバカバカしい。すべてはパジャマ屋(そんな職業があるかどうか知らんが)の策略だったのだっ!
ゴワゴワして寝にくいのではないかと思う人もいるかもしれないが、これもすぐに慣れる。私は財布、デジカメ、携帯電話、車のキー、メモ帖とペン、これらを起きているときと同じ定位置のポケットに入れたまま寝ているのだが、気にもならず大変に快適である。携帯電話がいつもポケットから出て変なところにあるが。
今後、一生このスタイルで行こうかと思っている。
なお、妻は風呂に入らないことに体がすっかり慣れてしまい、例のインチキ風呂に入ったら目まいがして具合が悪くなったという。まあ、こういう特殊な人はあまり参考にはならない。
地震があって以来、テレビのCMの種類が限定され、公共広告機構の同じCMが異常な頻度で流されている。
初めはどうということはなかったのだが、こうも高頻度に流されると流石に苦痛になってくる。仁科明子親子の乳癌健診のCMは、あまりにも多くの批判が視聴者から寄せられ、そのためか数日前からすっぱりとやらなくなった。
我が家でもっとも評判が悪いのが「楽しい仲間がぽぽぽぽーん」という挨拶奨励のヤツだ。これが始まるたびに「ひーっ」「気ィ狂うーっ」「許してくれーっ」と言っているが、容赦なく2連発も3連発もかまされる。
妻は「魔法のことばで」という音程が上昇するフレーズと、「楽しい仲間が」というところのスキップの最後にちょっと飛び上がるところを見るのが一番つらいという。
要するに、もう何もかもが気に入らなくなっているのだ。同じことをこれほど繰り返されれば嫌になるのも当然だ。いっそのこと、無理にCMを流さずにカラーバーなどの無機的な画面にしたらよいのではないだろうか。それはそれで「ピンクと黄色の境目が気に入らない」などと言いかねないが。
瓦礫撤去作業には朝8時から息子たちもつき合わせたのだが、作業を始めて2時間したら「俺たち、もうそろそろ勉強しないといけない」と言った。初めて聞く台詞だ。今日は勉強しなくていいと言って作業を続けさせたが、昼頃になると「2時から友達と遊ぶ約束がある」と言うので、午後は自由にしてやった。
妻の話だと、家に帰ってきてあわてて何人かと連絡を取り、むりやり遊ぶことにしていたようで、どうも「約束がある」というのはウソのようである。
まあ、そんなもんだろうな。
昨日、今日と、町内会のボランティアとして水没した地域の瓦礫除去作業に参加した。
一輪車かリヤカーがあればはかどるのだが、数に限りがあり、ほとんどの人が手で持って集会所までの2、300メートルも運ぶという気の遠くなるような作業だったが、それでも参加者が多いので、朝から夕方までの作業でかなりきれいになった。
途中、瓦礫を集める場所のことで揉め事が起きた。ゴミを集めることになった空き地の近くに住むおばさんが、自分の家の近くにゴミを置かれるのが嫌だというのだ。別にその人の敷地に置こうとしているわけではない。近くの空き地に置いているだけなのだが、この非常時にそれにすら文句を言うのだ。
その文句が面白い。「みんな自分のところだけはきれいにしたがるんですよ」と他人を批判しているのだが、まさに自分に当てはまっていることを言っているのだ。あげくのはてに、床上浸水した家の駐車場が空いているからそこに置けばいいというのだ。よりによって、家には住めず今でも近くの小学校の体育館で寝泊りをしている人の家の駐車場をゴミ置き場にしろと言うのだから、なんとも見上げた根性である。
仙台市のゴミ撤去部隊が作業をするのに、ある程度まとまった場所に集めて置かなくてはならないので集めているのだと説明をしても、とにかく自分の家の近くは困るの一点張りである。さすがのボランティア隊長も「私、ブン殴って良いですかね」と陰で言っていた。
左の写真が、文句を言われたゴミの山。右の写真が、あわやゴミ置き場にされそうになった水没した家。窓ガラスの表面に水の跡が残っている。
最近では、いろんな食品で「無添加」が大流行だが、それと同じくらい流行しているのが産地の表記だ。「山形県○○村産の大根」などと書かれても、それが良いのか悪いのかさっぱりわからないのだが、わざわざ書くくらいだから良いのだろうと客が勝手に思うのを利用した巧みな技だ。
これを逆手にとって、「無菌状態で純度100%の原料を使って精製されたソルビン酸カリウム合成保存料を使用」とやったらどうだろうか。逆効果か。
それはそうとして、今日入った寿司屋では、店員の名札に「仙台市出身 高橋○○」と書いてあった。なるほどこう書かれると「八木山あたりかな、東仙台あたりかな」などと興味が沸いてくる。そういえば、忘年会をやった店では山形出身と名札をつけた店員がいたのを思い出した。
どうも店員の産地まで書くのが流行りつつあるようだ。