月別アーカイブ: 6月 2013

恐るべき千原ジュニア

昨日、すべらない話というテレビ番組を見た。これはいつも面白いので私のお気に入りの番組だ。そこで千原ジュニアという芸人が、岩手のバーだかキャバクラだかに行ったときの話をした。その中で、店にいた女性の会話を千原ジュニアが再現したのだが、そのアクセントが完璧だったことに驚いた。

関西人である彼が、たった一度訪れて聞いた岩手の飲み屋での女性のアクセントをこうも完全に再現したことに心底驚いた。何たる耳の良さ。それを再現する発声の良さ。これは並みの役者が適うわけがない。

ちなみにその台詞とは、前歯がない女性にその理由を聞いたときに、女性がボソッと「ケンカだ」「女同士のケンカだ」と答えた場面だ。

ちなみに、私がこの番組で最も好きなのは小藪という人の話だ。普通の人ならなんとも思わないような些細なことに文句をつけて面白くするスタイルがとても共感できて面白い。

自転車修理でスパーク!

昨夜は職場の懇親会だった。会は途中までは平穏に進んだのだが、私の正面に座っていた同僚が、趣味の話になったとたんにスイッチが入り、怒涛のようにしゃべりだした。

この男、趣味は自転車修理だというから驚く。世の中にいろんな趣味があるが、自転車を修理するのが趣味とは。修理すると言っても、自宅の自転車などしょっちゅう壊れるわけではないから、わざと壊しては直すことを繰り返すかまたは近所などを壊れた自転車を探して歩き回るなどということを想像したのだが、よく聞くと全然違う話だった。

彼は自転車の修理ではなくてリフォームと言ったのであり、それは高価なマウンテンバイクをグレードアップするような趣味なのであった。彼の話は語るほど熱を帯び、そもそもマウンテンバイクを発明したのはアメリカのゲイリーなんとかという人だとか、そういう歴史まで語るのだった。

加えて彼は日本で最初に発売されたアラヤというメーカーのマウンテンバイクを今も持っていて、日々チューンナップしたりフレームの模様を描いたりしているという。シマノというメーカーのことも言っていたが何がなんだか覚えきれなかった。結婚をする前は自転車を部屋にかざってライトアップし、それを見ながら酒を飲むのが至福の時間だったという(もちろん結婚した途端に奥さんから撤去されたという)。

こういう深い話を聞くのは楽しい。特に彼のアラヤの自転車についているステッカーがいかに貴重であるかを自慢していたのが可笑しかった。何年もいっしょに仕事をしているが、こんなに熱い趣味を持っているとは知らなかった。

 

雑談でシュート!

先日紹介した職場の「ブレブレの同僚」が珍しく面白いことを言った。

彼が昇格したのでそのお祝い会があったのだが、そこで彼はスピーチのときに自分の欠点として「雑談が苦手」と言ったのだ。私は仕事中にいつも彼に雑談をされるなあと思っていたのだが、あれは雑談ではなかったらしい(笑)。

まあ、それはよいのだが、なぜそれが欠点なのかというと、それは彼と奥さんの会話についてなのだった。彼は奥さんと話すときにいつも結論を出すとか有意義なアドバイスをしようとしていたのだが、実は女性はそういう会話を求めていないことが最近わかったという。それで、とにかくあいづちを打ちながら話を聞くことが大切であり、それを彼は「雑談」と表現していたのであった。最近ではその苦手な雑談を努めてすることによって、夫婦円満になってきたのだという。

まあ私はそういうポピュラーな雑学は、学生時代から知っていたのだが、彼の表現がとても面白かった。

彼によれば、理想的な奥さんとの話し方はサッカーの「日本対ブラジル戦」だという。試合中の90%はボールを相手に渡しておくべきであり、決してボールを奪おうなどとは思ってはいけないと言う。「条太さんなんかすぐボールを奪って思いっきりシュートするタイプでしょ?それじゃ絶対にうまくいきませんって」「どうせそのシュート、絶対にゴールには入らないんですから」と、まるで見てきたようなことを言う。実際にはコイツは自分のことを言っているのだ。

奥さんのボールをすぐさまかっさらってあらぬ方向にシュートしまくっていた若き日々の彼を想像して可笑しくて仕方がなかった。だって彼は私と仕事中に雑談するときは100%ボールを持っていて常にシュートしっ放しなんだもん(もちろんすべて外れ)。

飛びつきのときの爪先の向き

今月号の「逆モーション」の中に、フォアへの交差歩での飛びつきのときの左足(右利きの場合)の爪先の向きのことを書いた。文字数の制限から詳しく書けなかったので、補足しようと思う。

日本では、フォアに飛びつくときの左足の爪先が相手側あるいはボールを飛ばしたい方向に向けるのがよいとされてきた。そのため、練習ではみんなそのようにやる。しかし現代卓球ではこれは間違った考えである。

このような動きは、時間に余裕のあるときしかできない。実際の試合では誰でも爪先は動いている方向に向けていることは一流選手たちの写真を見ればわかる。一枚の例外もない。交差歩は足をひねることができる時間の余裕がない非常時にしか使わないものだからだ。

当然、練習で爪先の向きを相手の方を向けるためには、本来交差歩を使ってはいけないような遅いボールあるいはあらかじめボールがフォアに来ることがわかっているような有り得ない状況を作り出してやるしかない。このような練習が役に立たないことは言うまでもない。

理想的なフォームを実現するために実戦でありえないような甘い状況で練習をする、ここにも日本の卓球の間違った理想主義が表れている。ワンコースのゆるいボールで1000本ラリーをするとか、ボールより先に動いて止まって打つ(ひどい場合には次の場所に動き出しながら打つ)左右のフットワーク練習もそれらの仲間である。

濁音の規則2

東北弁の濁音についてさらに規則を見つけた。ドラマ制作者は参考にしてほしい(読んでいないかそんな人)。

日本語の濁音は「が行」「ざ行」「だ行」「ば行」「ぎゃ行」「じゃ行」「びゃ行」だが、これらのうち、東北弁として出てくる濁音は「が行」「だ行」に限られることが、書いてみてわかった。「が行」と「だ行」の10音はすべて使われる。例を示そう。

が行: 聞ない、聞ます、聞、聞、聞

だ行: 書い、み(道)、な(夏)、書い、俺

他の規則として

・名詞の頭の音は濁らない。例:影を「げ」とは絶対に言わない。例外:なんてごど言うんだ

・直前の音が「っ」のときは濁らない。例:雨だっ とは言わない。

・直前の音が「ん」のときは濁らない。例:本当を「ほんう」とは言わない。

・直前の音が無声音の場合には濁らない。例:ちい(近い)とは言わない。「ち」が無声音だから。「聞かない」の場合は、標準語では無声音である「き」を有声音にした上で「が」と濁る。

・西洋からの外来語は濁らない。例:ラケットをラットとは言わない。

・歴史が浅い単語は濁らない。例:携帯電話を「けいいでんわ」とは言わない。しかし自転車は「じんしゃ」と言う。

・漢語よりは和語の方が濁ることが多い。漢字で言えば、音読みよりは訓読みの単語の方が濁る場合が多いような気がする。例:「わる」とは言うが「りいする」とは言わない。

今、あまちゃんを見ていたら「緊張感」を「きんちょうん」と言っていた。有り得ない。こういうちょっと堅い単語や専門用語は濁らない。でもまあ、わからないよなあこんなの。自分でも、自分の中の何がこうも確信をもって濁音の有無を断定できるのかわからないんだから。まあちょっとした標準語と東北弁のバイリンガルの風情である。

濁音の規則

さて、東北弁の特徴に濁音がある。濁音は、名詞だろうが動詞だろうが形容詞だろうが、はたまた人の名前だろうがあらゆるところに現われる。当然そこには規則があるのだが、ドラマなどで話される東北弁の濁音はデタラメに入れられることが常である。

しかしこれを責めるのは酷だろう。なぜなら、どういうときに濁音が付くのか東北人自身が説明できないからだ。もちろん規則性はある。人によって違うとか同じ人でも気分次第で違うということではない。どこに濁音がつくのかは完全に固定されているのだが、その規則を一般化して説明できないのだ。もしかすると書いてみれば規則性がわかるかもしれないので書いてみる。初めての試みだ。

まず題材として、ある小説の冒頭を引用しよう(一部変えてある)。

「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」と村上と呼ばれる少年は言う。幾分のっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。でもそれはそぶりみたいなもので、じっさいには隅から隅まで目覚めている。いつもと同じように。

これを訛ってみる。本気で訛ると母音や単語そのものまで違うので東北人以外にはまったく意味がわからなくなるので、ここでは濁音以外は訛らないことにする。実際にはありえない訛り方だが、濁音の規則性を知るための実験だ。

「それで、おねのごどはなんとなったんだね?」とむら呼ばれる少年は言う。いぶんのっそりした、いっつものしゃべりがだだ。深い眠りら目覚めりで、くの筋にが重くてまだうまないどぎのような。でもそれはそぶりみいなもので、じっさいには隅ら隅まで目覚めいる。いっつも同じように。

我ながらなんたる濁音の多さだろうか。村上という固有名詞まで「むらがみ」と訛るのだ。ここ数日の考察で、ある音の直後の音には濁音が絶対に付かないことを見出した。それは「深い」の「ふ」や「○○していた」の「し」あるいは「来た」の「き」だ。この三つに共通するのは母音を息を抜くように発音すること。このような音の直後に濁音をつけるのが難しいことは発音をしてみればわかだろう。だから「ふい(深い)」とか「○○しいた」とは絶対に言わないのだ(ドラマなどでこのように発音するときは当然、前の音を修正した上で濁音をつけている)。同様に、「行ってきた」などの「っ」の直後の音が濁音になることもないような気がする。理由は同じく発音が難しいからだ。「行っきた」なんて東北弁を聞いて「なんて言いづらい発音なんだ」と思う人もいたかもしれないが、それは我々だって言いづらいのでそうは言わないのだ。あと、外来語は濁音がつかないような気がする。そういう例を見つけられなかったが、例外もあるかもしれない。なにしろ規則を一般化できていないのだから、どんな反例が出てくるかわからない。

今のところはわかったのはこれくらいである。

米さ煮て食った

私は「あまちゃん」はよく見たことがないのでわからないが、ドラマや映画での東北弁のデタラメな使い方にはほとほとうんざりさせられる。代表的なものが助詞の「さ」だ。確かに東北弁では「さ」という助詞をよく使う。しかしそれは、標準語の「に」と「へ」に当たる場合だけだ。

たとえば「学校さ行った」「牛さ餌やれ」という具合だ。この「さ」が印象的なので、東北人はなんでもかんでも助詞を「さ」で済ますと思われているのだ。その結果「米さ煮て食った」などというトンチキな台詞がまかり通る。「まんが日本昔ばなし」などこういう台詞だらけだった。そもそも助詞とは言葉と言葉の関係を示すものだから、なんでもかんでも「さ」で済ましていたら助詞の役割をなさないではないか。

製作者や役者の中に東北出身者はひとりもいないのかといつも思っていたものだった。

「じぇじぇ」の由来

NHKのドラマ「あまちゃん」で、岩手の方言「じぇじぇ」がなにかと話題になっている。私は岩手出身だがかなり南側の奥州市出身なので「じぇじぇ」は知らないが、同類と思われる「じゃじゃ」というのはよく知っている。

子供心にも、大人たちが使うこのいかにも根拠がなさそうなデタラメっぽい方言をユモーラスかつ不思議に感じていたのだが、あるとき、その由来について結論を出した。

これは標準語の「いや」の転訛なのだ。奥州市で「じゃじゃ」を使うときは、たとえば他人の家に遊びに行って思いがけず料理を出されたときなどに「じゃじゃー」と恐れ入ったように言う。あるいはまた、誰かが酒酔い運転で警察に捕まったと聞いたときなど「じゃ、だらしない奴だな」などと言う。そしてこれは子供はあまり使わない、どちらかというと分別臭い大人の言葉である。このときに我々が体感するニュアンスは、標準語の「いや」あるいは「いやいや」にかなり近い。音にも共通点がある。だから私は「じゃ」は「いや」が訛ったものだと結論づけていた。「いや」と同じだから「じゃ」と1回だけのときもあるし「じゃじゃじゃ」と3回言うときもあるし「じゃー」と伸ばすときもある。

もちろん、これまでこんな「学説」を披露する場はなかった。奥州市以外で使われているかどうかもわからない方言の由来を解説する場などあるわけもない。

「あまちゃん」で役者たちが使う「じぇ」の発音の仕方にはとても違和感がある。何の感情もない音をただ発しているのでとってつけた無意味な言葉に聞こえるのだ。「いや」と同じつもりで発音をすればより自然になるものと思われる。標準語で「いや」「いやいや」と言うとき、ちょっとあごを引いて下の前歯を出すように下唇を横に広げ気味にするだろう。音程も少し下げ気味になる。「ゲゲッ?」のように尻上がりに発音することは絶対にない。そういうところも含めて私は「じゃ」が「いや」と同じものであると結論している。

「じぇじぇ」についても同じ起源かどうかは、久慈に知り合いがいないのでなんとも言えないが、さてどうだろうか。

編集者の仕事

卓球王国の私の連載の担当編集者の渡辺友くんにはいつもお世話になっている。自分でもちょっと面白くないけどまあいいか、なんて思って原稿を送ると大抵はちゃんと修正依頼が来る。それで、直すと必ずグッと良くなるのだ。もちろん、直すのは私自身なのだが、やはり自分で書いたものはどこが悪いのかなかなかわからない。

来月号には通常の連載とは別に、世界選手権パリ大会の原稿もあるのだが、そのどちらにも修正依頼が来た。メールの文面を抜粋してみよう。

「真ん中らへんの「たとえばここに~・・・~適ったものではない。」の2段落がサービスの重要性への導入と考えると、なくても良いかなと感じました。最後のほうの「サービスの威力~」と「ところで、」の段落が、両方とも、おだやかな正論という感じで印象に残りにくいのでどちらかに比重を置いて、もう少し乱暴に主張しても良いと思います。あと、全体の「試合に生きる練習をしよう」といったお話は他の人でもちょこちょこ聞く話題なのでもう少し条太さんならではの、さらなる掘り下げがほしいです。」

「まず全体的にちょっと説明的で、間延びした感がありました。いつもより展開に抑揚がないなという印象です。特に序盤で、どれほどマーサンがおかしな人なのかが、伝わりきれてないので、もう少しイメージしやすい描写がほしいです。」

という具合だ。なんと具体的かつ詳細な要求だろうか。私が今回嬉しい賞をいただけたのも、このような指導のおかげである。友くんには私から「もう一人の柳澤太朗賞」でもあげたいほどだ。

なお、以前もブログにこのようなことを書いたところ、友くんから「本当は怒っているのですか?」と心配をするメールが来た。そんなことはないので安心してもらいたい。ただ、今回の直しからちょっとだけ逃避してこのようなことを書いているだけなのだ。

こんな顔してまったくなあ。編集者の役割は大きい。

日本表彰協会から受賞!

なんと私がこの度「日本表彰協会」という団体から「もう一人の荻村伊智朗賞」という賞をいただけることになった。この日本表彰協会というのは、ウエブサイトhttp://ameblo.jp/nihon-hyosyo-kyokai/によると「各界の凄い人たちに勝手に賞を送らせて頂く世界初の協会」だそうだ。協会メンバーには3人の放送作家さんの名が連ねられ、その中の一人が卓球ファンらしく、これまでに表彰した47人のうちに、松下浩二さんと吉田海偉さんが入っているという(笑)、極めて偏った協会のようである。

賞状に書いてある私の表彰理由は「日本最強の卓球コラムニストとして膨大な知識と卓越した思考でファンを楽しませ、更に日本卓球の浮揚にも寄与する数々の提言を放ち、そしてあの劉国梁に『勇敢な屁』までブチかましたその姿へ表彰します」とある。そしてそのウエブサイトには私についての論評がきっちりと書いてあるのだが、それが素晴らしかった。

私はここまで他人に褒められたことは人生で一度もないと思う。また、単に褒めるだけではなく、この論者が私がこれまで書いてきたことを隅から隅まで読んで頭に入れていることに本当に深く感動した。もちろん、放送作家だから、頭に入れているだけではなくてそれを表現できる能力があるからこういう論評になったわけだ。そういう人にも褒められたということも嬉しい。

これからも期待を裏切らないようもっともっと面白いことを書いていきたいと思う。