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月曜が楽しい?

土日の休みが終わって今日からまた仕事だ。毎週ながら楽しい気分ではない。

息子たちはアメリカから帰ってきて以来、学校に行くのが楽しいと言っていたので、「もしかして月曜の朝とか楽しいのか?」と聞くと驚いたことに「楽しい」と言う。

まさかと思い「じゃ、金曜の夜は嫌なのか」と聞くと「一週間のうちで一番嫌」なんだそうだ。信じられない。さすがに授業中は楽しくはないそうだが、休み時間に友達とふざけるだけで楽しいのだという。

アメリカに行く前はそうではなかったそうだから、これもアメリカに行った利点だと思う。もっともアメリカに行っている間は「ずっと刑務所に入れられていたようなもんだ」と言っているので、本人たちにしてみればトータルで考えれば得でもなんでもないということになるのだろう。なにしろ向こうでは物を食べられなくなって何キロも痩せるほどだったのだから。

町内の卓球クラブその後

町内の有志ふたりで立ち上げた卓球クラブだが、その後、最初に来た人から芋づる式に人が増え、ついに昨日は大変な人で収集がつかなくなってしまった。

卓球台は4台しかないのだが、すでに入会をした2家族(それぞれ2人の小学生)の他に、新たにそのクラスメートの母娘が来た。さらに私の会社の同僚夫妻が3人の子供を連れて訪れ、そこに3番弟子の小室があろうことか奥さんと子供二人を連れてきて、こんなときにかぎって近くの中学生が5人も来て、そこに久しぶりの青年が顔を出し、体育館はまるで運動会のようになった。

大人11人に子供が15人である。この敷居の低さが卓球の長所なのだなとあらためて思った。「子供が運動が苦手なので何かさせたいと思って・・・」というお母さんがいたが、これも卓球の特徴だろう。「そういうヤツばかり集まるから卓球のイメージが悪くなるんだ」と怒る人がいそうだが、それは怒るべきところではない。より多くの人が気軽にやってみようと思うのがメリットでなくて何だろう。

スポーツにはそれぞれに異なる特徴がある。卓球の長所は疑いなくこの大衆性である。

有名な経営学者ピーター・ドラッカーの言葉に「何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。」というのがある。私は彼の本を読んだことはなく、何かでこの一文を見ただけなのだが、とても感動した。以来、ときどきこの言葉を反芻している。言われてみれば当たり前のことなのだが、なんと簡潔にして力強い言葉なのだろう。そしておそらくそれは真実なのだ。

卓球にドラッカーの上の言葉を当てはめれば、卓球をよりメジャーにするためには、敷居の低さという大衆性をもっともっと伸ばすしかないということになる。卓球が競技特性の違うサッカーやゴルフや野球などの真似事をしたり、それらより劣っているところを改善しようとだけしてもダメなのだ。

ごったがえす体育館でそのようなことを実感した週末であった。

補助剤問題

卓球王国今月号の水谷選手の補助剤問題をとても興味深く読んだ。

やっぱり、検査できないものをルールにしているのが問題のような気もする。
いっそのこと、後加工自由とでもしてしまえば公平なのだろうが、そうなると製品に対する「公認」自体が意味を失ってしまう。ラケットだろうがラバーだろうが、内部や外部にいろんな飛び道具を仕込むやつがいくらでも出てくるだろう。打球面の摩擦をまだらにするとか。

後加工は禁止にするしかないが、それを実証する方法がないのでは、どうしようもない。もし日本だけが正直に守っている状況なら、日本人もいっしょになってルール違反するのもひとつの「公平」なあり方ではないだろうか。

今回のような「ルールはあるが実質取り締まれないために多くの人がルール違反を犯している」例に、DVDやソフトの違法コピーがある。本来、お金を出して買わなくてはならない知的財産をコピーして只で使うのだから、これは窃盗と同じく他人に迷惑をかける明確な犯罪である。しかし警察が各家庭を回って摘発するのは実質不可能だ。その結果、コピーできるものは多くの人がコピーをする。そこに、ある正義感の強い人が「我が家では絶対にそういうルール違反はしない」といきりたち、他の家の人を「ずるい」と批判している状況を考えてみるとどうだろう。他国の選手たちには日本の意見がそのように映っているのかもしれない。

ITTFがルール違反を見つける方法を開発するか、そうでないなら「分からない範囲のルール違反はしてもよい」と解釈するのが現実的なのではないだろうか。

なんたってトップ選手たちは、趣味や楽しみではなくて人生をかけて卓球をやっているんだから、そんなところで不公平があったんじゃ本当に水谷のいうとおり時間の無駄である。

あるいは、ITTFがこっそりとルール違反を見つける方法を開発してロッテルダムで実施し、日本選手以外は全員失格になって全種目日本がメダル独占どころかベスト8も独占というのはどうだろうか(8人もいないが)!

曲線と直線

一緒に買ったもう一冊の卓球本にも怪しいところがあった。

回転をかけるのにラケットの動きが曲線的であった方がよく、直線的だとかかりにくいと書かれている。ラケットの軌道が作る程度のゆるい曲線など、1/1000秒のインパクトに影響するわけがない。

そして、その説明に描かれているイラストが下の写真だが、ラケットの角度まで違ってる・・・これじゃ回転かからないよなあ(笑)。

さすがに軌道の違いだけでは説得力がないと思ってちゃんとラケットの角度まで変えて描いたところに、著者の中途半端な誠実さが感じられて微笑ましい。

「止まってから打つ」の間違い

下記指導書の間違いのうち、前半の二つはただ科学的に間違っているというだけで、それを信じてもなんら実害のないものであり、いわばただのイチャモンのようなものである。

しかし、最後のフットワークは実害大有りである。日本では昔からこのように「動いて止まってから打て」と言われてきたのだ。一流選手たちもその指導DVDに出ると同様の動きを練習している。フットワークの基本は、体勢をくずさないで理想的な姿で打つものだという考えがあるからだ。

確かに理想的ではあるが、ボールがどこに来るか分からない実際の試合では、馬琳や柳承敏でさえ決してそれほど速くは動けないのである。ましてや普通の選手をや。止まって打つのが理想的だからといって、そうできるようにコースを規則的にしてどうするのだ。コースが規則的でもいいから、とにかく実戦での動き方すなわち飛びつきをそのままやって練習するべきなのだ。

「科学的」な卓球指導書

昨日、本屋に行ったら見たことがない卓球の指導書が2冊も売っていたのでさっそく買った。私は卓球の指導書は基本的にすべて買って研究することにしているのだ。

買った本の1冊には、本の題名に「科学」という言葉が使われていて、いかにも科学的に分析したかのような本である。

読んでみると、これまでのどの本にも増して非科学的な本であった。

なにしろ、いきなりサービスのところで「回転をかけるためにはラケットの上でボールを長く当てる」である。ボールをラバーの上でそんなに長く転がすことができないことぐらい、ラバーにつくボールの跡を見れば誰でもわかるのに。まったく不思議である。

フォアハンドのスイングでは、あいかわらず遠心力を使って打つと書いてある。面白いのは「スイングスピードを速くするためには、ひじを伸ばしてスイングの半径を大きくすることがポイントになります。スイング半径が大きいと、それに比例して遠心力(ラケットが体から遠ざかろうとする力)も大きくなり、」とここまでは完全に正しいことを書いておきながら「スイングスピードが速くなります。」と続くのだ。惜しい!

体から遠ざかろうとする力はスイングスピードに影響しようがない。なぜならそれはスイング方向に垂直の方向の力だからだ。スイング半径が大きければラケットの速度も増すが、同時に遠心力も増す。だからといって遠心力をスイングに使えはしない。上の説明は、例えて言えば「財布にお金が増えればその分だけ財布が重くなるので、その重さを利用して高いものを買うことが出来る」と言っているようなものだ。もっと卓球に近い例えをあげるなら「強く打つと大きな打球音が出る。この打球音を利用してボールに威力を出す」ってなもんだろうか。
こういう間違いは昔から言われているので、私はてっきり遠心力の意味を知らないから間違うのかと思っていたのだが、この本の説明を見ると、遠心力を完全に理解していながら、なおかつ間違っているのだから、まったく不思議である。

そもそも、回転半径を大きくすればラケット速度が速くなるのは誰でも直感的に納得できることなので、わざわざ遠心力なんて持ち出す必要はないのだ。

最後はフットワークである。やはり動き終わって止まってから打つのが基本だと書かれている。実戦でのフットワークはほぼ100%目的地に動きながら打球するのだから、このような練習は1000本ラリーと同じく、まさに練習のための練習でしかない時間の無駄である。

ちなみに、ある中国からの帰化選手に聞いたところでは「小さい頃から続ける練習はしたことがなく、50本ぐらいなら遊びでやったことはある」という話である。実戦でありえない役に立たないものだから彼らにとってこれはピンポン球野球と同じくおふざけでやる類のものなのだ。だから日本人が続ける練習を真面目にやっているのを見ると「なになに?なにやってんのこれ?」と「可笑しい」のだという。しかもこれは、80年代に活躍した選手の話なのだ。
30年、いや、40年前の中国の練習の常識から見て可笑しいような練習を我々は何十年も、いや、今でもやっているのである。

もっとこういう視点を広めないと中国に追いつくことなど到底無理である。いや、逆の見方をすれば、これほど考えのレベルに差があるのにここまでやれているのだから、実戦的な考えに修正すれば意外とあっという間に追いつくのかもしれない。それも楽しみである。

蟹の謎

ゲストブックへの投稿によって弁当の謎が解けた。

生前、あさりに虫のように小さい蟹が共生していることがあるため、蟹アレルギーの人は注意するようにとのことだったのだ。全然ギャグでもなんでもなかったのだ。ネットでも同様の質問と回答が寄せられていた。

妻に話すと「うちの子供がそれであさりが嫌いになったことを知らなかった?」と言われた。どうも我が家では有名な話だったらしい。面目ない。

決着、世界ランキング

1968年の女子世界ランキング12位の清水の正体が分かった。

私の蔵書、卓球レポート1969年3月号に世界ランキングが載っていて、そこにはっきりと
「清水照美(無)」と書いていた。(無)とは前回のランクが無いということだ。

なぜ国際大会に出ないで世界ランキングを持っているのかは分からないが、ともかくshimizuが清水照美であることははっきりした。

喜んでー

気を利かせすぎといえば、最近、居酒屋などで注文をすると「はい、喜んでー」と叫ばれることがあって非常に不愉快である。

店に客が来て注文をしたら経営者なら嬉しいのは当たり前だ。しかし雇われている店員はそうではない。同じ時給なら客が少なくてヒマな方がいいに決まっている。経営者だかマネージャーだかが店員たちに口々にそう叫ばせることによって(当然やらされているにきまっている)、「本当は喜んでいない」という事実をかえって明白にしてしまうのだ。なぜそう感じるのかといえば、この挨拶が「ありがとうございました」「またお越しください」など普通の形式的な挨拶を超えた過度な表現になっているからだ。なんでもやりすぎれば逆効果になる。

「ハイ、喜んでー」と言われるたびに「そんなに仕事、嫌なのかよ」と思ってしまう。第一、うるさい。

この話を職場の昼礼で話したら、誰の賛同も得られなかった。

まあ、そんなもんだ。

トイレットペーパーの謎

泊まったホテルのトイレに不思議なことが書いてあった。

「トイレットペーパーの使い切りにご協力ください」と書いてあるのだ。このホテルはベッドメイクを省略するとか歯ブラシは持参してくださいとか、環境に配慮したことが部屋中に書いてるのに、なぜかトイレットペーパーだけは「使い切れ」と言うのだ。原文が英語でその誤訳ではないかと思って下の英語を見るとPlease finish up a role of toilet paper in order to prevent wasting resources.つまり「資源の無駄を防ぐためトイレットペーパーを使い切ってください」と書いてある。どうしてトイレットペーパーを使い切ることが資源の無駄使いを防ぐことになるのだろうか。使わないとどうせ捨てられるので、それよりは無理にでも尻を多めに拭いたほうが無駄にならないという理屈だろうか。それだって無駄なことに変わりはないし、必要以上に使わないに越したことはない。

この不思議な気分を保つため、あえてホテルのフロントには聞かないで帰ってきたのだが、とうとう我慢できずにネットで調べてみて笑った。私と同じ疑問を持った人が質問していて、それに対する回答によると「客が入れ替わるたびにトイレットペーパーを新品に交換するのはやめますよ」という意味だと言うのだ。つまり、客それぞれに使い切ることをお願いしているのではなくて、ホテルの側から見て、客が使い切ってから交換しますよということなのだ。だから「使い切ってくれ」ではなくて「使い切ることに協力してほしい」となっているのだ。なるほど、そう言われればそうとれるが、一体どれくらいの人がこの意味を分かるだろうか。むしろ反対に「次の客が来る前に責任をもってすべて使い切ってくれ」と読めるではないか。

さらに英文では「どうぞ使い切ってください(Please finish up)」とはっきりと書いてある。ここには「毎回新品に交換していないので、半分くらいに減ったトイレットペーパーがあっても許してくださいね」というニュアンスはどこにもない。文章の読み手に向かって明確に「使い切れ」と働きかけているのだから使い切るしかないではないか。

おそらく英訳した人は完全に私と同じ誤解をした上でこの英語を書き、それを読んでいるはずの店員たちも誰一人それが正反対の誤訳になっていることに気がついていないのだろう。

首をかしげながら英文を書いた人と、「環境保護」のため、トイレットペーパを物凄い勢いで使い切ろうとしている外人客の姿を想像すると可笑しい。

「トイレットペーパーを毎回は交換しません」と明確に書けばいいものを、なんとか感じが悪くならないよう婉曲に書いた結果がこれである。過度の配慮は逆の結果を生むのだ。