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境界問題

髪を短くしたのをきっかけに、髪とヒゲの境界について明確にすべく、しばらくヒゲを剃るのをやめてみることにした。いっさいの人為的な手を加えず公平に育てた場合、髪とヒゲがそれぞれどのように自己主張を始め分化していくのかを、しばし観察してみたい。ヒゲの薄い編集部の友くんには不可能な技だ。

カメラ位置

DVDを見ていると、ラリーが素晴らしければ素晴らしいほど、カメラ位置の悪さにがっかりさせられる。テレビ局の撮影はいつもカメラ位置が高すぎるのだ。そのため、両方の選手を画面に入れようとするとどうしてもズームアウトせざるをえず、結果的に恐ろしく小さい画面になってしまう。ボールはろくに見えないし、遠近感がないので迫力はないしボールの高さ方向の情報が失われるのでドライブやカット独特の軌道がさっぱりわからない。なによりもすべてが小さく映っているのが残念でならない。

これまでもNHKやテレビ東京にカメラ位置を低くするよう提案してきたが、相変わらずである。低い位置にカメラがないわけではなく、スローのリプレーでは使ったりしているのだから、そちらをメインに使えばよいだけなのにどうしてそうできないのかまったく不思議だ。

決勝などの重要な試合に限ってこの最悪のカメラ位置になるのだから残念なことである。

写真左は昨年の横浜大会男子シングルス8決定の陳杞対水谷、写真右は決勝の王皓対王励勤。選手もボールの大きさも面積にして4倍も違う。加えて右の画面では画面上でボールの移動距離が長いので、ボールは目で極めて追いづらい。迫力がないのにボールは目で追いづらいのだ。一方、左の画面は、迫力満点でボールは恐ろしく速く感じられるが、実際の画面上のボールの移動距離は小さいので(画面手前から奥への移動なので)実は目で追うことは容易である。映っている大きさも大きい。

このように、何をとっても低いカメラ位置の方がいいのだ。なお、このカメラ位置は、似た球技であるテニスやバドミントンではほとんど不可能である。これらの競技は卓球にくらべてコートが大きいので、競技領域を画面に入れるためには、コートからかなり離れなくてはならない。これを低いカメラ位置でやるためには、コート後方のフロアに広大な空間を作るしかない。物理的には可能だか、現実的にそんな会場セッティングは無理だろう。だからテニスもバドミントンも高くて遠い位置から撮影するしかなく、いずれものっぺりとした遠近感のない画面になっているのだ。

低いカメラ位置はコートが小さい卓球競技の特権だとさえ言える。それが活かさず、テニスやバドミントンと同じのっぺりとした画面で撮影しているのがなんとももったいないことだ。

天才ワルドナー

あらためて書くまでもないが、ワルドナーは卓球の天才である。25年も世界のトップ10にいて、5世代の中国選手に対抗し続け、現代卓球の技術を次々と塗り替えたなんてのはワルドナー以外にはいない。卓越した予測能力でほとんど歩いているようにしか見えないフットワークでことごとくボールに手が届く。まるでボールがくるところを知っているようだ。そのうえ脚力も肺活量も優れているものだから、誰よりもスタミナが続く完璧な肉体。

写真は最近発売されたワルドナーのスーパープレー集DVD(http://www.world-tt.com/video/d036.html)より、2004年アテネ五輪の柳承敏との男子シングルス準決勝の1シーンだ。柳がバックに捨て身で倒れこみながら回り込みながらワルドナーの逆をついてストレートにドライブを放った。ワルドナーはバック側にボールがくると予想してバック側に動き終わったシーンだ。このとき柳のボールはすでにネットを越え、ワルドナーのフォアを抜こうとしている。常識的に考えてここから間に合うはずがない。間に合ったとしても当てるだけかロビングするのが精一杯だろう。ところがワルドナーは、ほとんどボールを後から追いかけるようにして後方に移動しざまに、上半身と手首だけでラケットを出してギリギリのところでボールをとらえたばかりか、グニャリと曲げて柳のはるか遠くのフォアサイドを抜き去ったのだ。ボールの位置を見て欲しい。なんでこんなところにあるんだろうかこのボールは。バックに倒れ込みながら捨て身でドライブを放った柳はまだ画面の外だ。こういうファンタスティックなシーンって、卓球界広しといえども、ワルドナー以外には見られないのだ。

ワルドナーこのとき、2年前に足を骨折して復帰したばかりの38歳。凄すぎる。

教科書の村上春樹

海外赴任者の子息には、希望者にはアトランタ領事館を通じて、日本の教科書が無料で配布されることになっている。

昨日、中学生の息子に国語を教えていたら、教科書に村上春樹の文章が載っていた。題名は「ふわふわ」という短編で、猫に関する文章だった。

そこには、「長い間使われていなかった広い風呂場を思わせるような、とてもひっそりとした広がりのある午後に」とか「僕ら二人はからまり合うようにして、まるでおなじみの泥水みたいに、そこに静かに転がっている」とか「猫の時間は、まるで大事な秘密を抱えた細い銀色の魚たちのように、あるいはまた時刻表には載っていない幽霊列車のように、猫の体の奥にある、猫の形をした温かな暗闇を人知れず抜けていく」などと、中学生に容赦のない相変わらずの意味の分からない比喩だらけの村上春樹ワールドが展開されていた。

この作家のどこが優れているのか、次のように息子たちに説明をした。たしかにこれらの比喩にははっきりとした意味はないが、作者は言葉にできない何かを感じて、それを読者に伝えようとしている。「長い間使われていなかった広い風呂場」という言葉や「猫の形をした温かな暗闇」という言葉を聞いたときに、読者はそれぞれ自分の経験に基づいて何物かを思い浮かべるはずだ。それが作者のそれに一致していなくても、それが読者をなんらかの形で楽しませることができる力があるから、この作者は天才と言われている。「おなじみ」と「泥水」という誰でも知っている二つの言葉をくっつけて「同じみの泥水」とすることを思いつくことができるところが凄いのだ。比喩は、まず意外性がなくてはならない。しかし、ただ意外なだけではダメだ。意外でありながら、そう言われればそうだと納得できるような巧妙なものでなくてはならない。それが凡人にはほとんど不可能といっていいほど難しいことなのだ。村上春樹は、誰でも知っている言葉の海の中からそういう言葉の組み合わせを見つけることができる天才なのであり、それが大勢の人が彼の文章を読むためにお金を払う理由だ。

私はまだ村上春樹のファンではないが、説明しているうちに興奮してきて、なんだかファンになったような気持ちだ。私も中学の国語の時間にこういうふうに教えてもらっていたら、もっと授業も面白かったろうに、と思って悦に入っていたら、妻が「お父さん長すぎ。さっさと次いって。」と言われた。ギャフン。

卓球正月

元旦のアクセスは201件だった。昨年の元旦は171件、その前は139件だったので、すこーしづつではあるが増えているようで嬉しい。元旦といえばあまり仕事をしている人はいないだろうから、自宅で見てくれているということだろう。今年も書きたいことと読者が読みたいことの共通項を書いていきたいと思う。

アメリカでは正月は日本でほど特別な日ではないので(さすがに休日ではあるが)、特に行事もなく、ただひたすらゆっくりと過ごしている。そういうときはやはり卓球のDVDを見ることだ。昨年の横浜大会のDVDや、ワルドナーのプレー集、そして昨年買った、95年天津大会やら97年マンチェスター大会の映像を堪能している。といって、ドラマのようにずっと面白いわけでもなく、どちらかというと見ておかなくてはならないという義務的な見方ではあるが、それでも全体的には楽しい。

昨日、床屋で丸坊主にしてきたので寒くて仕方がなく、家でも帽子をかぶっている。パジャマのままこれにヘッドフォンをつけて一日中いるので、家族に変だと言われたので、得意になって写真を撮ってもらった。「ゴダールはどこ行った?」という感じだ。

写真のパソコン画面に映っているのは横浜大会男子シングルスの水谷対陳杞

宮澤賢治

何ヶ月か前、吉田司という人の『宮澤賢治殺人事件』という本を読んだ。たまたまアトランタの本屋で目について買ったのだった。殺人事件といっても推理小説ではなくて、現実の宮澤賢治を殺して聖者に祭り上げた人たちへの批判本であった。それでも著者は宮澤賢治のファンなのだろうと思って読んでいたが、最後の最後まで著者は賢治を「現実性のない役にも立たない思想を唱えていただけの役立たず」ということを本気で主張していて、全然評価しておらず新鮮であった。私は自分と反対意見の本をあえて読んで自分の論理が対抗できるかをチェックするのが好きなので、全然問題なく楽しく読めた。

宮澤賢治といえば、何年か前に生誕何年とかでやけに盛り上がったことがあった。そのときテレビで、賢治の写真から骨格を推定して、コンピューターで合成して肉声を再現するという試みがあった。その合成した声で「雨にも負けず」を朗読して、賢治を知る存命の教え子たちに聞いてもらうという企画だった。

なかなか気が利いている企画だったが、可笑しいのがその合成の声で、合成の雛形に使った声がプロのアナウンサーによる標準語であるために、発音が極めて明朗でアクセントが完全に標準語なのだ。岩手の100歳近い人たちにそんな話し声を聞かせて「賢治に似てますか」と聞くのは無謀というものだ。案の定、彼らの感想は似てるかどうか以前に「もっと普通に語ったったもな」というものだった。私にはこの「普通」の意味が、すぐにわかってなんとも可笑しかったが、テレビ局の人たちはこの老婆たちの感想の意味が分かったのだろうか。

俺たちの頃は

「俺たちの頃は」という話は実は卓球の世界でも散々聞かされてきた。

あるとき、先輩が「俺たちの頃は合宿ともなれば、何でもかんでも徹底的にやったもんだ」と言う。「最初の柔軟体操からもう、あばら骨が折れるくらいにみっちりやった」と言う。あまりの可笑しさに噴き出してしまった。肋骨が折れる柔軟体操とはどんな柔軟体操だろうか。たぶん、背骨の言い間違いだと思うんだが、どっちにしても骨折したら卓球どころの話ではない。なにがなんでも自慢したいというこの先輩の情熱の空回り具合がなんとも可笑しかった。

さらに、練習ではラケットはほとんど使わず体力トレーニングばかりだったという。なるほど、これでは弱いはずである。どこまでも話は空回りだ。

さらに、その頃は練習中に水を飲むと疲れるから飲むなと言われていたそうで、それでもなおハードな練習を続けていると、体中から水分が抜けて、最後には汗が出なくなってユニフォームがカラカラに乾くのだという。死なずに済んだのが不思議である。

こういう、どこまで本当かわからないし、意味のある努力だったのかどうかもわからない怪しい話を聞くのは、面白いので楽しい。

最近の若者

「最近の若者は」という話を聞くことがあるが、私はそういうことを言ったことも思ったこともない。

私が学生の頃、新人類などという言葉が流行り、私も言われたことがある。些細な流行や習慣の違いを取り上げて、なんとまあバカバカしいことを言うんだろうと思ったものだった。自分も年をとったらそんなことを言いたくなるんだろうかと思ったが、別にそんなことはなかった。世代の違いよりもひとりひとりの違いの方がずっと大きいとしか思えない。あとはちょっとした生活習慣が違うだけだ。「最近の若者は」と言う人たちはおおかた、自分の昔を美化した妄想と若者を比較しているんだろうと思う。

私が世代論を嫌いなのには実は理由がある。学生運動だ。大学や会社で、学生運動をした世代の人たちから「今の学生は意識が低い。俺たちのころは・・」と散々愚劣な話を聞かされたためだ。その人がどういう人なのかは、普段を見て分かっているわけだから、今さら昔の崇高な話をされたところで、メチャクチャなフォームのオヤジに「昔は強かった」と言われるのと同じようなもので、その程度は知れている。今でも地下活動で政府転覆を狙っているとか、政治家になって社会を変えようとしているというならともかく、ただの流行でデモをしていただけの人の自慢話などバカバカしくて聞いていられない。

そして大抵の場合、私はこういう話を感心して聞かなくてはならない立場なので困るのだ。

昔、若者と言われた世代も年をとれば、今度は昔の大人と同じように若者に「俺たちの頃は」という寝言のような話をする。60年代の学生もそういわれたし、昭和初期、大正時代、明治維新、江戸時代の武士ですら、その前の世代からはくそみそに言われてきたのだ。これは人類の有史以来そうなのであって、この点においてこそ、どの世代もまったく違いなどありはしないのだ。

『戦前の少年犯罪』読了

『戦前の少年犯罪』を読了した。
著者は、戦前には現在とは比べ物にならないほどめちゃくちゃな凶悪犯罪が多かったかこと揶揄を交えて表現しており、犯罪が題材なのにもかかわらず、つい声を出して笑ってしまった。

中国に軍属として旅立つ学生を送るために、駅でかちあった他校学生たちがささいなことで乱闘になった事件について「これから戦争に行こうというときに殺し合うんですから、愛国心以上の愛校心です。命がいくつあっても足りません。」とか、戦前に主殺しが多かったのは住み込みで働くケースが多いためだとし「終始顔を合わせているだけでも息が詰まるのに、親には孝行、兄弟仲良く、主には忠義をつくせなんて、繰り返し云われていたとすれば、逃げ場のない状況に追い込まれて、これは逆に殺せと命令されているのと同じようなものです」などと書く。さらに、旧制高校生たちの悪行に触れ「決められた場所で年に一回秩序正しく騒ぐ成人式の若者などこれに比べたらおとなしいもんです。旧制高校生世代や、街中で機動隊に石や火炎瓶投げてた世代が、彼らを非難するのはどうもよくわからんことです。若いころに甘やかされて、おつむのネジが少々ゆるんでいたりするんでしょう。」とも書く。

著者の目的がこうしたユーモアだったのかどうかはわからないが、私にはこういう部分がとても面白かった。

最後に著者はあとがきで「戦前の少年犯罪をきちんと検証できていなかったこれまでに提出された日本に関する考察はすべて根拠のないデタラメだったと考えてもいいのではないかと愚考しています」と書く。

まったく痛快である。

言葉の力

以前、「意味」など考えるのは人間だけだと書いた。「意味」を伝えるものは「言葉」だ。言葉の力はとてつもなく大きい。

私の好きな『編集王』というマンガがある。かつてこれが週刊ビックコミックスピリッツに連載されていたとき、ある号をコンビニで立ち読みしていて、慄然としたことがある。

何コマか使って、誰の台詞とも判別がつかないような次のような詩が綴られていたのだ。

<けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ>

ちょっとひっかかる良い言葉があるが、このあたりまでは格調高いふりしているな、と思うだけで別に何とも思わなかった。

<すべての才や力や材とふものは
ひとにとどまるものではない
ひとさへひとにとどまらぬ
おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰かけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ>

人さえ同じではいられない、というこのあたりからこのマンガ家、土田世紀のただならぬ言葉の感覚に畏敬の念とわずかな嫉妬を覚えた。こんな台詞を考えるマンガ家がいるのかと。

<みんなが町で暮らしたり一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌ふのだ>

立ち読みしながら全身に戦慄が走る。なんだなんだなんだこの異様な言葉の力は。これが一マンガ家に書ける言葉なのか。大衆消費材として何百コマ、何千コマと書いているマンガ家が、そのうちのただ一回の連載のために考えたこれが言葉だというのか。確かに言葉もマンガ家の創作の一部だが、こんな、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいるようなことがあっていいはずがない。

<ちからのかぎり そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

(宮沢賢治『春と修羅 第二集』より)>
だーっ!やっぱり!これは宮沢賢治の詩だったのだ。『春と修羅』だったのだ。またまた全身に鳥肌が立つ。
こんなマンガにちょっと言葉を何行か挟みこんだだけで私にも分かるほどの凄まじい力を持つ宮沢賢治とはなんとすごい人なのだろうか。

こう思うと同時に、私がその言葉の力を感じることができたことと、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいなかったことに安堵を覚えた。

すぐにこの詩の全文を手に入れたことは言うまでもない。