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『血液型性格判断批判』の批判

私はこういうことにはとてもこだわる性格なので(笑)、もう少し書きたい。

よく血液型性格判断を次のように批判する人がいるが、これらは間違った批判であり、こんなことを言ったら逆効果である。簡単に反論されてしまうのだ。

・多様で複雑な人間の性格がたったの4種類の血液型で表せるはずがない。
→ ある観点で大まかに4種類に分けることが不可能とはいえない。こんなものは批判のための批判で、もっとも愚劣な批判である。

・脳と血液の間には血液・脳関門という関門あるため、血液型物質は脳組織には入れない。したがって、血液型が性格に影響を及ぼすことはあり得ない。
→ 脳に入らなくても、体の違いが間接的に性格に影響を及ぼす可能性を否定できない。そもそも、メカニズムが解明できないからといって「血液型と性格に関連がある」という事実を否定するのはおかしい。まず事実を認めて、分からないことを解明するのが科学ではないか。

・日本人はたまたま4種類の血液型に分かれるので面白く占いができるが、人口の多くがA型の民族や、全部がB型の動物などはどうするのか。
→ その民族ごとあるいは動物ごと、その血液型の性格になるのではないか。そうでなくても知ったことではない。自分で研究しろ。こっちは、メカニズムまで分かっているわけではない。「理由はわからないけど、日本人の血液型と性格には関連がある」と言っているだけなのだ。外国人や動物の話をして何を得意になっているのか。

・血液の分類はなにもABOだけではない。それとは別の分け方がいく通りもあるのに、どうしてそのひとつであるABO型が性格に影響があるのか。
→ どうしてかはわからないが、それが事実なら認めるしかないではないか。メカニズムがわからないから事実を認めないのは科学者の悪い癖だ。

・血液型性格判断は人種差別がその起源にある危険な思想だ。
→ 血液型と性格に関係があるかどうかとは別問題。
血液型性格判断を批判するのに小理屈をつけると墓穴を掘る。ただ「偶然以上の確率では当らない」という事実を言えばよいだけだ。ノストラダムスの大予言と同じく、血液型を聞いてから「そういえば当たってる」と思うだけなのだ。

http://jp.youtube.com/watch?v=fa1Z5L2Xsgo&feature=PlayList&p=D7F1DB1E606F948D&playnext=1&index=26
さて、このテレビ番組はいかがなものだろうか。

血液型性格判断

2,3日前、yahooのニュースに疑似科学についての記事が載っていた。疑似科学とは、科学を装った非科学のことだ。

血液型性格判断もそのひとつだ。よくこれに対する批判として「血液型性格判断には科学的根拠がない」というセリフがあるが、これは大衆を誤解させる危険を含んだ表現だ。「科学的根拠がない」といわれれば、普通の人は「既存の科学知識とてらしあわせて、そんなことがあるはずがない」ととられる。もちろん科学者は、そういう理由で否定しているのではない。ここでいう「科学的根拠がない」とは「科学的に調査をしたが、そういう事実を見出せない」ということなのだ。竹内久美子など、血液型関連の本を出す人は、「血液型と性格の関連づけをすることは科学者の間でタブーになっている」などと書くが、別にタブーなのではない。何度調査をしても、そのようなデータが出ないから明快に否定されているだけのことなのだ。

http://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/pseudo.htm

話としては面白いかもしれないが、本気で主張されると困ってしまう。血液型による性格判断など、どうにでもとれるものばかりだ。たとえば「物事にこだわらない」という表現があるとする。私の場合、興味があるものには偏執狂的にこだわるが、興味のないものにはまったくこだわらない。だから「こだわる」「こだわらない」どちらを見ても「当たってる」と思うわけだ。また、「あなたは理想を貫こうと思っていますが、妥協しがちです」などというのは、自分にだけ当てはまっているように誰でも思うものだ。いうまでもなく、人はいつも自分の内面を意識しているが、他人の内面は意識しないので、内面を深く掘り下げたようなことを言われると、自分にだけあてはまったような気がするのだ。自分以外はみんな気楽に生きているように見えるのと同じことだ。

科学者が血液型を否定するのに「科学的根拠がない」とか「どうして性格がたかが4種に分けられるのか」と言っても全然反論になっていないし信者を納得させることはできない。

そうではなくて「調査をしてもそのようなデータが得られたことがない、そういう事実がないのだ」とだけ言えばいいのだ。これ以外に何も必要ないではないか。

政見放送

YouTubeを見ていると実にいろんな映像がある。
最近見つけて感動したのが、政見放送シリーズだ。金さえ出せば誰でも立候補できるものらしく、とんでもない人たちの映像が堂々とテレビ放送されたということがわかってとても面白い。

中でも最高だったのが、永遠のロックローラー、内田裕也の政見放送だ。

なにしろ政見放送なのに、いきなり英語の歌を無伴奏で歌い始めるのだ。歌が終わっても内田裕也はなんと英語で演説を始める。いったい何のために?という疑問は無意味だ。なにしろ相手は内田裕也なのだ。

もうひとり素晴らしかったのが、やはり奥崎謙三だろう。奥崎謙三は、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』で有名になったカリスマだ。天皇の戦争責任を追求していろんな事件を起こしているのだが、なにしろこの人、完全にオカしくて、殺人や殺人未遂で刑務所に何度も入っている。『ゆきゆきて神軍』の撮影のときも、原監督に、元上官に罰を与えるために殺すので、その場面を撮ってくれと申し出て断られたりしている(映画にはならなかったが、実際に奥崎は元上官の家に行き、出てきた息子に発砲して重傷を負わせた)。

http://jp.youtube.com/watch?v=t3EALg22uMY&feature=related

こういう人が選挙に立候補しようというのだから、まったく恐ろしい話だ。

写実画

モンゴメリーでは美術館にも行ってきた。
そこで、アメリカの画家、ウイリアム・ハーネットという人の絵に驚いた。

異常に精密なのだ。たかだか横50cmくらいの小さいカンバスに、異常に緻密な画が描かれている。このハーネットという人は、おそらく描くことで表現したいものなどなく、とにかくいろんな質感のものをこれでもかというほど精密に描くことに生きがいを感じていたのだろう。金属、材木、生物、印刷物とどれもこれも信じられない描き込み方で、思わず接写してしまった(撮影可なのだ)。

しかもこのハーネットと言う人、100年以上前に死んでいる。100年以上も前にこんなとんでもない画を描く技術は完成していたのだ。本物そっくりに描くのが偉いなら写真を撮ればいいという言い草があるが、ここまで見事だと、やはり感動する。また、写真ではここまで鮮やかな色は出せまい。

較べるのもなんだが、私も小中学校の頃、画が上手い方でそれなりに自信があった。しかしあるとき『やまねずみロッキーチャック』というアニメを見てからすっかり描くのが嫌になった。そのアニメに出てくる背景が、当時の私がどんなにがんばっても描けないであろう見事な画だった。そしてそれが背景としてほんの数秒使われるだけなのだ。世の中にこんな奴がゴロゴロいたんじゃ、どうにもならないではないか(実際にはゴロゴロはいなかったんだが、たかがアニメの背景ということで、そう感じた)。

もちろん画の良し悪しは上手い下手だけではない。他に魅力があったり、伝えたいことがあったりと価値はいろいろだが、あいにく私の場合、その点でもなーんにもないことが自分でわかっていたので、早々とその道は諦めたのだった。

ビートルズ・モノポリー

土日に、モンゴメリーという町にアイススケートをしに行ってきた。モンゴメリーはアラバマ州の州都であるが、行政機関しかないような町で、意外なほど小さな町である。そしてここは、公民権運動で有名なマーチン・ルーサー・キング牧師の活動拠点のひとつでもあった、由緒ある町だ。

そこのモールで、キング牧師とはまったく関係ないが、ロックンロールのキング、ビートルズのノモポリーを見つけた。盤面にビートルズのオリジナルアルバムがちりばめられている、いかにも楽しそうなゲームだ。付属のコマは曲名にちなんでいて、これだけでも欲しくなる。「こんなものを買うほどイカれちゃいないぞ」と言い聞かせて買いはしなかったが、しばらくうっとりと眺めたのだった(似たようなもんか)。それにしても、いったい何を目的にしたどういうストーリーのゲームなのだろうか。

調べてみると、なんとこれ、ポール・マッカートニーも持っているんだそうな。欲しかったんだろうか。http://item.rakuten.co.jp/thebeatles/10000199/
そうか。ポールが持ってるのかこれ。しみじみ。
でも、単にメーカーから贈られただけかもな。

錯覚とマジック

錯覚に関する素晴らしいサイトを見つけた。
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/index-j.html

「この目で見たから確かだ」などという人がいるが、人の目はあてにならないことがよくわかる。

錯覚と言えば、手品にも錯覚を利用したものが多い。
私は手品にとても興味があって、ときどきその芸術的なタネに、人間の英知の深さを知って感動したりしている。どうやってタネを知るのかって?わかるまでコマ送りして見るのだ(笑)。だから録画しなかったらわからない。ヒマなんだな、と思われるだろうが、他のことを削ってやっているのだ。風呂とか。

私が特に感動するのは、不可能性を強調するための演出そのものが、実はタネになっているような手品だ。たとえば、フランツ・ハラレイという人が、何もない空間から突如、ジェット機を出現させるマジックを発表したことがある。突如といっても、一旦カメラの前に幕を貼ってから、その幕をよけるとジェット機が出てくるというものだ。幕は画面のフレームより小さいので、上下左右から出入りすればすぐに分かるが、そういう気配はない。普通、これを見れば考えられるタネは、ジェット機がチャチな偽物や写真である可能性と、床下に大きな穴があいている可能性だろう。

ハラレイは、この二つの可能性を否定するため、これを「背景に建物ひとつない本物の飛行場の滑走路で行い、出現したジェット機に人が乗って飛び立つまでを、固定カメラでノーカットで連続撮影して見せた」のだ。そして、実はここに書いたことがそのままタネに密接に関係しており、この演出でなければ不可能なマジックだったのだ。タネを知ってこれほど感動した手品はなかった。

マジックもこういうエレガントなものだけならいいのだが、最近は、単なるカメラトリックやサクラだけのものが氾濫している。画面の一部に時間を表示して脱出をするマジックなどがあるが、カメラを切り替えたときに人の位置や光線の影、布のヒダなどから、別に撮影された映像であることが分かることがある。ひどいのになると、あるものを破る様子を撮影して、それを逆回しで再生して「破ったものをつなげる手品」をやったりする奴もいる。視聴者には、現象だけがすべてであり、巧妙なアイディアだろうと卓越した技術だろうとカメラトリックだろうと違いはないのだろうが、いくらなんでもこれはひどいのではないだろうか。

これでいいなら、いっそのことルックスの良いアイドルにCGを使った手品をさればよいではないかと思ってしまう。本当に出てきたりしてね、そういうのが。

風呂の話

世の中には風呂に入らない人というのがいるようだ。以前の職場にも、明らかに風呂に入ってない特徴的な臭いの人がいた。学生時代、風呂のないアパートに住んでいる友達が結構いたので、臭いですぐにわかるのだ。単に汗臭いとかワキガだというのではなくて、言葉では表現できないが「風呂に入ってない臭い」というのがあるのだ。

3年ほど前、改装のために、1週間ほど自宅の風呂が使えないときがあった。この間、近くにある銭湯に家族で通うことになった。楽しい娯楽施設で結構高いので、1日おきに行くことになった。ところが私は仕事の関係で帰りが遅くなって行きそびれ、入る予定だった火曜に風呂に入らないことになってしまった。こうなると、ものはついでとばかり、もっと入らないで我慢してみたくなり、思い切って週末まで入らないことした。4日め、5日めと経っても、少なくとも自分では別にどうということもない。ためしに三浦に「臭いかどうかかいでみろ」と胸元を開けて近づけてやったが別に臭くないという。木曜には飲み会まであってタバコの煙臭くなったが、これももちろん我慢をして金曜まで風呂に入らないでみた。さすがに風呂に入ったときはヌルヌルとなり、洗う爽快感を得ることができた。

まあ、こんなものはホームレスや探検家からみれば低レベルの冒険だが、こういう、どうでもいいことをやってみたくなる性分なのだ私は。

それにしてもあの、風呂に入ってない臭いを常に発散させていた同僚は、いったい何日入ってなかったのだろうか。あれは1週間や2週間ではないな。

英語の口癖

仕事でアメリカ人と会話をしていると、英語でも日本語と共通する常套句というか口癖のようなものがあることがわかる。

basically → 基本的には
in other word → 言い換えると
I may be wrong → 私が間違ってるかもしれないが
for insurance → 保険として
honestly → 正直いって

これらは日本語と英語と相互に関係なく独立で使われるようになったのだろうか、それともどちらかが影響を与えたのだろうか。さすがに日本で一部の人が熱狂的に使う「いい意味で」とか「逆に」に相当する英語の口癖はないようだ。

英語がもとになっていると思われる日本語は結構あるように思う。「ナニナニするところの○○」などは、関係代名詞○○which○○の直訳だと思われるし、「○○は彼を驚かすのに十分であった」などというのも、it is enough to …を直訳したものだろう。

注意を払うの「払う」が英語でもpay attensionのpayと、いずれもお金を払う単語と共通なのは偶然ではないだろう。となると、「注意」という言葉自体、英語の直訳なのだろう(「社会」「自由」「経済」などといった多くの言葉が、明治維新後に英語の直訳として作られた造語であることはよく知られている)。http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8702/1/hogaku0030301790.pdf

「それがどうした?」と言われるととても困るんだが、とにかく英語でも「逆に」を連発されるのだけは避けたい。「逆はお前の頭だろう」と言いたくなってしまう。

鎖骨が曲がった

一ヶ月前に手術をした鎖骨の状況を診てもらいに病院に行ってきた。レントゲン写真を見ると、なんと真直ぐだったはずの埋め込んだプレートが曲がっているとのこと。「大丈夫だ」と説明されたが、何が大丈夫なのかはよくわからない。骨ぐらい曲がってても不都合ないだろという意味に違いない。それはそうだろうが、なんとなく気分が悪い。それよりもなによりも、もっと硬いプレートはなかったのだろうか。白骨死体になったときに身元が判明する便利はあるが、そんなもの要らん。

ついでに左手の指も診てもらった。実は鎖骨を折ったとき、左手の中央の指3本を激しく突き指していて、曲げると痛かったのだ。突き指くらい自然に治るだろと思って診てもらっていなかったのだが、事故から1ヶ月も経つのに、よくなるどころか、ますます痛くなってきた。不安になってネットで調べてみると、治らない突き指というのがあって、放っておくと悪化する厄介なものだと書いてあった。これはいかんと思って診てもらったのだが、幸い骨折はしておらず「できるだけ動かすようにすれば6ヶ月ぐらいで治る」とのことだ。動かすようにとのことだが、先週手品のテクニック「クラシック・パス」の練習をやってからズキズキと痛むんだが、それはやりすぎだろうか。

クラシック・パスとは一瞬にしてトランプの上半分と下半分を入れ替える早業のこと。http://jp.youtube.com/watch?v=Yejxa-b72-g
これでもヘタだってんだから信じられない。マジックの世界は奥が深すぎる。

そういうわけで、事故の直後は右腕は鎖骨が折れていて使えず、左手は親指と小指しか使えず、かなり不自由だったのだ。プレートが曲がってしまったのも、左手を使わないようにしたからかもしれない。

みなさん、突き指に注意!