「目が死んでる」

息子たちの高校受験が今日終わったので、ご苦労さん会に回転寿司に行った(長男と次男は双子である)。

食べ終わって店を出ようとすると、入り口にいかにも新鮮そうに魚が飾ってあるのに気がついた。

長男「あ、目が死んでる」
次男「いや、全身死んでるでしょ」

勉強で疲れた頭を休めて欲しいものだが、休めすぎが心配だ。

ウオッシュレットの悲劇

アメリカではウオッシュレットがあまり普及してないが、日本に来てウオッシュレットを使ったアメリカ人の多くがその便利さに驚嘆の声を上げる。中にはどうしても欲しくて、わざわざ取り寄せて設置する人もいると聞く。

数年前に死んだ祖母も「便利なもんだ」と喜んでいたのを思い出す。

私が初めてウオッシュレットなるものを知ったのは、たしか80年代末だったと思う。東京に遊びに行ったときに新宿駅の近くの公衆トイレにあったのだ。適当に入ったらなんとそこは有料トイレで、多少損した気分になっていたら、そういう装置がついているトイレだったので使ってみたのだ。初めての体験だったので、何かとてもくすぐったくて落ち着かなかったことを覚えている。我が家には今もウオッシュレットはないが、会社や公衆トイレなど慣れているのでそのときの感覚はもう思い出せない。

ウオッシュレットといえば失敗談がある。息子がまだ5歳くらいの頃、実家に行ったときに、息子をトイレに連れて行ってウンチをさせた後、ウオッシュレットを使って驚かせてやれと思い、スイッチを押したのだ。すると、息子の尻があまりに細くて小さいため、勢いよく噴出されたお湯は息子の尻をかすめて上空に跳ね上がり、私の顔にかかったのだ。考えれば容易に予想できたアクシデントだが、こういう、失敗しても致命的ではない程度に危険なことは、あえてやってみたくなるのであった。

おかげで息子の尻に湯を当てて驚かすつもりが、自分が「うわっぷ」と驚くハメになったのだった。

息子の妙技

中学男子なら屁などを得意になってするものだが、今日の次男の技には感心させられた。

屁を何発もしながら「うっ、あっ」などと銃弾を浴びたときのように腹を押さえたりのけぞったりしながら倒れるのだ。自分の屁の音を銃声に見立てているところが気が利いている。これが日本特有の「見立ての文化」である。

しかも実際には弾丸が打ち込まれるのとは逆に放出しているところが可笑しい。

このような遊びを初めて見たので、息子ながらとても感心した。

「就活難航で大学生の自殺者が倍増」

2,3日前にネットでこのような見出しの記事が出ていた。「就活失敗による大学生の自殺2倍に」「自殺13年連続3万人超」「就職失敗が急増」というサイトもあった。

あいかわらずのインチキぶりである。これを見ると、なにかとんでもなく状況が悪くなっていると誰でも思うだろう。そう思わせるためにそういう部分だけを選んで見出しにしているからなのだ。

記事をよく読むと、確かに「就職失敗」が原因の自殺は2倍になっている。
平成10年は46人で、平成9年の23人の2倍になったというのだ。大学生以外を含めた「就職失敗」が原因の自殺者は354人から70人(20%)増の424人である。

一方、「借金関係」の項目を見ると、2640人で前年の3261人の19%減になっていて、621人も減っている。「就職失敗」と「借金関係」を含んだ「経済・生活」全体としては前年の8377人から939人(11%)減って7438人となっている。

それでは自殺数全体としてはどうかというと、31,690人で、前年から1155人(3.5%)少ないのである。

つまり、自殺数は全体でも原因別でも多くの項目で前年より減っているのに「就職失敗が原因で自殺した大学生」、それもわずか23人が46人に増えたことだけをとりあげて「倍増」と見出しに使っているのだ。

マスコミは常にこのようにネガティブなことを取り上げて騒ぐ。それは不安や恐怖の方が人々の注目を得られ、「売れる」からだろう。何の根拠もなく青少年の犯罪が凶悪化しているというデタラメを書くのもそのためだ。

景気というものは文字通り人々の気持ちを反映するものだが、不況の原因を作っているのはマスコミにもあるのではないだろうか。戦争中の大本営発表のようにウソまでは書かないにしても、せめて事実を歪めるような印象操作はやめてほしい。むしろ逆に良い状況をとりあげた印象操作をした方が景気は良くなることはまちがいない。ためしにどこかの新聞がそういうことをやってくれないだろうか。

私なら今回の見出しは「自殺者数、1155人減」と書くだろう。23人しか変動していない項目をとりあげて「倍増」と書くなどという芸当はとてもできない。

ラーメン屋で2連敗

今日はどうしてもラーメンを食べたかったので、家には夕食を断ってひとりで会社帰りにラーメン屋に寄って食べてきた。

例によって、やたらと手作りだの無添加だのに気が違ったようにこだわっているよくあるタイプの店だ。

無添加といえば、小さい頃から疑問に思っていたことがある。それは、いったい何が添加されていないのを無添加というのかということだ。食品である以上、砂糖や塩が入っているのはよくあることだが、それらが入っていても「無添加」として堂々と売っている。後で知ったところによると、添加物というのは防腐剤とか合成着色料とかのある特定の目的の物が入っているかどうかだけを言うのだという。だから体に悪くてもそれらに分類されるものでなければ入っていても「無添加」なのだ。なんだか釈然としない。

無添加とか添加とか体に良い悪いとは何の関係もない。ただそれを知らない無知蒙昧の一般大衆に訴求するために宣伝しているに過ぎない。

ラーメン屋に話を戻す。店員が注文をとりに来たので、味噌ラーメンを頼んだ。「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と不愉快な過去形で聞かれるのが嫌なので「味噌ラーメンお願いします。以上です。」と、ことさらにはっきりと言ったのだが、この店員は、注文をメモし終わると「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と言いやがった。よろしいに決まっているではないか。いったい何を聞いているのだろうか。

幸いにもラーメンは美味しかった。食べ終わってレジに伝票を持って行き、余計な会話をしなくてよいように、伝票に1000円札を重ねて「お願いします」とレジに出すと、「1000円からでよろしかったでしょうか」と聞かれた。よろしいに決まってるではないか。こっちはそう聞かれたくないから誤解の余地がないように伝票といっしょに札を出しているのだ。注文をとった店員と同じヤツである。まったくなんという強者だろうか。

今日は2連敗だ。

月曜が楽しい?

土日の休みが終わって今日からまた仕事だ。毎週ながら楽しい気分ではない。

息子たちはアメリカから帰ってきて以来、学校に行くのが楽しいと言っていたので、「もしかして月曜の朝とか楽しいのか?」と聞くと驚いたことに「楽しい」と言う。

まさかと思い「じゃ、金曜の夜は嫌なのか」と聞くと「一週間のうちで一番嫌」なんだそうだ。信じられない。さすがに授業中は楽しくはないそうだが、休み時間に友達とふざけるだけで楽しいのだという。

アメリカに行く前はそうではなかったそうだから、これもアメリカに行った利点だと思う。もっともアメリカに行っている間は「ずっと刑務所に入れられていたようなもんだ」と言っているので、本人たちにしてみればトータルで考えれば得でもなんでもないということになるのだろう。なにしろ向こうでは物を食べられなくなって何キロも痩せるほどだったのだから。

町内の卓球クラブその後

町内の有志ふたりで立ち上げた卓球クラブだが、その後、最初に来た人から芋づる式に人が増え、ついに昨日は大変な人で収集がつかなくなってしまった。

卓球台は4台しかないのだが、すでに入会をした2家族(それぞれ2人の小学生)の他に、新たにそのクラスメートの母娘が来た。さらに私の会社の同僚夫妻が3人の子供を連れて訪れ、そこに3番弟子の小室があろうことか奥さんと子供二人を連れてきて、こんなときにかぎって近くの中学生が5人も来て、そこに久しぶりの青年が顔を出し、体育館はまるで運動会のようになった。

大人11人に子供が15人である。この敷居の低さが卓球の長所なのだなとあらためて思った。「子供が運動が苦手なので何かさせたいと思って・・・」というお母さんがいたが、これも卓球の特徴だろう。「そういうヤツばかり集まるから卓球のイメージが悪くなるんだ」と怒る人がいそうだが、それは怒るべきところではない。より多くの人が気軽にやってみようと思うのがメリットでなくて何だろう。

スポーツにはそれぞれに異なる特徴がある。卓球の長所は疑いなくこの大衆性である。

有名な経営学者ピーター・ドラッカーの言葉に「何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。」というのがある。私は彼の本を読んだことはなく、何かでこの一文を見ただけなのだが、とても感動した。以来、ときどきこの言葉を反芻している。言われてみれば当たり前のことなのだが、なんと簡潔にして力強い言葉なのだろう。そしておそらくそれは真実なのだ。

卓球にドラッカーの上の言葉を当てはめれば、卓球をよりメジャーにするためには、敷居の低さという大衆性をもっともっと伸ばすしかないということになる。卓球が競技特性の違うサッカーやゴルフや野球などの真似事をしたり、それらより劣っているところを改善しようとだけしてもダメなのだ。

ごったがえす体育館でそのようなことを実感した週末であった。

補助剤問題

卓球王国今月号の水谷選手の補助剤問題をとても興味深く読んだ。

やっぱり、検査できないものをルールにしているのが問題のような気もする。
いっそのこと、後加工自由とでもしてしまえば公平なのだろうが、そうなると製品に対する「公認」自体が意味を失ってしまう。ラケットだろうがラバーだろうが、内部や外部にいろんな飛び道具を仕込むやつがいくらでも出てくるだろう。打球面の摩擦をまだらにするとか。

後加工は禁止にするしかないが、それを実証する方法がないのでは、どうしようもない。もし日本だけが正直に守っている状況なら、日本人もいっしょになってルール違反するのもひとつの「公平」なあり方ではないだろうか。

今回のような「ルールはあるが実質取り締まれないために多くの人がルール違反を犯している」例に、DVDやソフトの違法コピーがある。本来、お金を出して買わなくてはならない知的財産をコピーして只で使うのだから、これは窃盗と同じく他人に迷惑をかける明確な犯罪である。しかし警察が各家庭を回って摘発するのは実質不可能だ。その結果、コピーできるものは多くの人がコピーをする。そこに、ある正義感の強い人が「我が家では絶対にそういうルール違反はしない」といきりたち、他の家の人を「ずるい」と批判している状況を考えてみるとどうだろう。他国の選手たちには日本の意見がそのように映っているのかもしれない。

ITTFがルール違反を見つける方法を開発するか、そうでないなら「分からない範囲のルール違反はしてもよい」と解釈するのが現実的なのではないだろうか。

なんたってトップ選手たちは、趣味や楽しみではなくて人生をかけて卓球をやっているんだから、そんなところで不公平があったんじゃ本当に水谷のいうとおり時間の無駄である。

あるいは、ITTFがこっそりとルール違反を見つける方法を開発してロッテルダムで実施し、日本選手以外は全員失格になって全種目日本がメダル独占どころかベスト8も独占というのはどうだろうか(8人もいないが)!

曲線と直線

一緒に買ったもう一冊の卓球本にも怪しいところがあった。

回転をかけるのにラケットの動きが曲線的であった方がよく、直線的だとかかりにくいと書かれている。ラケットの軌道が作る程度のゆるい曲線など、1/1000秒のインパクトに影響するわけがない。

そして、その説明に描かれているイラストが下の写真だが、ラケットの角度まで違ってる・・・これじゃ回転かからないよなあ(笑)。

さすがに軌道の違いだけでは説得力がないと思ってちゃんとラケットの角度まで変えて描いたところに、著者の中途半端な誠実さが感じられて微笑ましい。

「止まってから打つ」の間違い

下記指導書の間違いのうち、前半の二つはただ科学的に間違っているというだけで、それを信じてもなんら実害のないものであり、いわばただのイチャモンのようなものである。

しかし、最後のフットワークは実害大有りである。日本では昔からこのように「動いて止まってから打て」と言われてきたのだ。一流選手たちもその指導DVDに出ると同様の動きを練習している。フットワークの基本は、体勢をくずさないで理想的な姿で打つものだという考えがあるからだ。

確かに理想的ではあるが、ボールがどこに来るか分からない実際の試合では、馬琳や柳承敏でさえ決してそれほど速くは動けないのである。ましてや普通の選手をや。止まって打つのが理想的だからといって、そうできるようにコースを規則的にしてどうするのだ。コースが規則的でもいいから、とにかく実戦での動き方すなわち飛びつきをそのままやって練習するべきなのだ。