警官たち

左がビール・ストリートの入り口で身体検査をしている警官の様子。
右は、警官が数人ならんで悪者に目を光らせている様子だ。警官もときどき何か飲みながら店から出てきたりする。音楽に合わせて踊っている警官までもいる。こちらでは警官がパトカーでレストランに行って制服のまま食べたりするので、普通の光景だ。

メンフィスに行ってきた

車で片道6時間弱かけて、メンフィスに行ってきた。メンフィスといえばエルビス・プレスリーに代表されるロックの聖地であり、なおかつキング牧師が暗殺された地としても有名だ。

メンフィスでもっとも有名な通りである『ビール・ストリート』のすぐ近くにホテルをとり、さっそく夜に繰り出してみたが、予想以上に楽しかった。音楽の町ということではニューオリンズと比較したくなるが、ニューオリンズがジャズの町なのに対してこちらはロックの町だ。当然、私にはこちらの方がしっくりくる。観光客の年齢もファッションも若い。

ホテルのフロントには「このホテルは周りがうるさいので、静かなホテルが好きな人は別のホテルに行ってください」と注意書きがあるくらい周りが音楽でうるさい。なにしろ隣は野外ステージになっているし、あちこちの店から内部で演奏している音楽が漏れ聞こえているし、それらとは別に勝手に路上でアンプを使ってがなっているやつらがいて、それらがめちゃくちゃに混じってまさに音の洪水状態である。野外ステージから聞こえてくるズンズンという重低音がそれらの音の洪水全体の拍子をとっているかのようだ。

事前の噂では犯罪が多いと聞いていたが、異様な警官の多さにそれを実感した。ビール・ストリートの入り口に警官がいて、全員が身体検査されるのだ(女性はカバンを開けられる)。ストリートのど真ん中にパトカーがデンと停めてあるし、警官も10人近く並んで立っているしで、ものものしい活気に満ちている。

これまでアメリカで旅行したうちで、もっとも面白いところだと思った。

トイレでの振る舞い

日本の小中学校では、学校のトイレで大便をすることほど恥ずかしいことはないとされているが、同僚に聞くとそれはアメリカでも同じで、やっぱりひやかされたりするのだそうだ。

思い出すのは高校に入学したときのことだ。先輩方はヒゲなんか生やしたりして随分と大人に見えたものだったが、その中でも驚いたのがトイレでの振る舞いだ。当時は1年生が3年生のトイレの掃除をすることになっていたのだが、その3年生がこれみよがしに平気で大便をするのだ。「クソしたあとの弁当はうまい」なんて言いながら、我々が掃除をしているのもかまわず平気で個室に入ってどんどん出していく。それどころか、出しながら外の連中と会話を続けたりしている。

私はその迫力に圧倒され、なるほど、これが大人というものか、大便ごときでガタガタ言うのは子供のすることなのだ、と尊敬の念を抱いたものだった。

しかし今考えると、アレはちょっとやりすぎだったように思う。というのも、その後私はとっくに大人になったが、彼らのような連中はついに見ることはなかったからだ。私は騙されたのに違いない。

トイレでブー

アメリカに来て感じることは、「普通はこうだ」という考えがあまりなく、自分と違う他人の振る舞いに対して比較的大らかだということだ。私はいつもアメリカ人の常識というのを気にかけて「日本ではこうだけどアメリカではどうか」と聞くのだが、大抵はあまりはっきりした答えはなくて「人それぞれだ」などといわれることが多い。異民族の集まりなのでそれぞれに常識が違いすぎるため、「普通」なんていうのが無意味なのだろう。

だから日本人の私が多少奇妙なことをしても「変な奴だ」ではなくて「日本ではそうなんだろう」と思われるだけで、特に良いとも悪いとも思われないだろうと思っている。

それで最近はトレイで小便をしながら思いっきり屁をすることにしている。日本でもアメリカでもトイレで大音量で屁をする人はいないので心理的抵抗があるのだが、アメリカ人の前でなら「文化の違い」と許容してくれるだろうとの読みで、これ幸いにと努めて屁をするようにしている。「日本人は普段、和を重んじて、ニコニコしているくせに便所では屁かよ!」とアメリカ人に誤解させるのも愉快ではないか。

そもそもトイレで屁をしないのはおかしいと私は常々思っていた。屁よりもはるかに臭い大便すら許容されている場所でなぜ屁を忌避しなくてはならないのか。それを恥ずかしいとするような幼稚な考えは止めようと思っていた。とはいえ、日本にいたとき、職場の同僚が小便をしながら「ベベベベ」と汚い音の屁をし「おっ」と声を発したのを目の当たりにしたときは、なんとも不愉快な気持ちがしたものだった(だいたい自分でびっくりするというのがおかしい)。その後、彼の行為は正しいというのが私が出した結論であったが、なかなか実践の機会はなかった。今こそ心を鬼にしてそれを実践するときなのだ。実践しすぎて本物が出ないように気をつけたい。

ロバート

息子たちはアメリカに来て3年になるが、普通の日本人の子供よりだいぶ遅れて1年程前からやっと英語が分かるようになってきた。それと同時にアメリカ人の友達もちらほらと出来て、急にアメリカ人の子供や親同士の付き合い方の違いが分かってきてた。その中でも同じ団地に住んでいるロバートはとんでもない。

このロバート、なぜかうちの息子たちが大好きで、とにかくどんな天候にもかかわらずほとんど毎日遊びに来て、帰らせないといつまでもいるのだ(妻が毎回帰らせる悪役をしている)。
息子たちは日本の勉強もあるので断ったり時間制限をしたりしたりするのだが、本人は全く気にしていない。断っても1時間後にはまた来て、さらに断っても再度来て、最高一日のうちに4回きたことがある。

ある時妻が「1時間だけ」という約束で遊ばせたら、次の日から「One hour ! One hour !」と言いながら玄関から入ってくるようになったという。もちろん1時間では済まない。先日は電話番号を教えろというので教えたら、帰ってからその日のうちに5回もかかってきた。「何してる?」とかそんな内容らしい。「勉強があるから切りたい」と言っても「You don’t need to study, sorry」と言って切らないらしい。学校でロバートが息子に近づいて来たので誘われる前に「ノー」と言うと「まだ何も言ってないのに何がノーなの?」という具合で、断られても全然気にせず毎日やってくるのだ。でもこのロバート、とにかく子供らしく素直で、とても可愛いのだ。

太っているので、建築中の家の横に置いてあった巨大なゴミ箱に入ったら登れなくて出られなくなったというのがちょっと哀れだった。(写真は出れなくなったゴミ箱)

アメリカン・ジョーク

向かいの席のグレッグが、面白いジョークを印刷して私によこした。
以下に訳してみる。

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ある男がコンビニにいると、とても風変わりな葬列が近くの墓地に向かっているのが見えたので、コーヒーと新聞を持ったまま慌てて店の外に飛び出した。

その葬列は、先頭に長い黒塗りの霊柩車が走っていて、その後にもう一台の霊柩車、その後に犬にヒモをつけて連れた男が歩いていて、さらにその男の後に200人もの男たちが一列に並んで歩いていた。

男は好奇心を抑えられず、犬を連れている男に丁重に近づいて聞いた。
「この度はご愁傷様です。こんなときにお伺いするのは大変失礼なのですが、こんな葬列は見たことがありません。これはいったいどなた様の葬式なんでしょう。」

「私の妻のです」男は答えた。
「何があったんです?」
「この犬が妻を襲って死なせてしまったのです」
「それじゃ、もうひとつの棺はどなたので?」
「義理の母親のです。妻を助けようとしたのですが、彼女もこの犬に襲われて死んでしまいました」

二人の男の間にある種の共感と感動、そして一瞬の沈黙があった。

「その犬、貸していただけます?」
「列にお並びなさい」

フリーハンド

私のボーリングのとき、左手の指がきれいに揃っていて「能の芝居みたいでおかしい」と言われたが、卓球王国をよく見ると、男女の世界ランク1位の馬龍と劉詩ブンがまさに私と同じフリーハンドの形ではないか!

彼らも小さい頃からオープンハンドサービスの厳しい指導を受けたのだろうか。さすが世界ランク1位だ。

ボーリングの嫌な風習

ボーリングで以前から感じている違和感が、ストライクやスペアをとったときに他の人と手を叩いて祝う動作だ。これがなんとも面倒くさくて嫌なのだ。

真剣勝負をしているなら他人のストライクを讃えるのはおかしいし、ただの遊びだというなら、そんなに毎回毎回喜ぶほどのことには思えない。結局のところ、これは「ボーリングをするときはこのようにして楽しむものだ」と世間一般で思われているからやるのだろう。まあ、写真を撮るときのピースサインや飲み会での一本締めと似たようなもんだろう。私はこういう「理由はよくわからないけどやることになっているからやる」というような動作をするのは、どうも気恥ずかしいような気まずいような気になる。上手く表現できないのだが、何か芝居がかったことをする気恥ずかしさ、茶番劇に参加することの気まずさだ。

学生時代、ときどき飲み会の後にボーリングをすることがあったが、この相互タッチだけは嫌なので「そういうの止めよう」と言って、全員黙々と集中してボールを投じたものだった。それでスコアが70とか80なのだから「それで面白いの?」と言われそうだが、確かに面白くはなかった。一体何をしたかったのだろうか。

ボーリング

今日は会社の人たちとボーリングをした。その名も『ドーサン・レーン』というボーリング場だ。

私は卓球以外のスポーツは平均以上には上手にできないのだが、ボーリングは特にひどかった。一緒に行った淳は自己最高の204点を出したのに、私は80だの90だのである。

淳は私の投げ方がおかしいとしきりに言う。淳の表現を借りると、「すり足で腰をクネクネさせてまるでオカマみたい」「能の芝居みたい」など散々だ。能なんか見たことないくせに。クネクネは別にして、オカマに見えるのはどうやら左手がまっすぐ指を揃えて反っているかららしい。この理由ははっきりしていて、卓球のオープンハンドサービスの癖なのだ。なにしろ卓球のサーブでは、ボールを投げ上げる手の指は4本とも隙間なくそろえて伸ばし、親指は離して、ボールは掌の中央に乗せなくてはミスになるのだから、これだけは常日頃から意識をしていたのですっかりこういう手の形が癖になっているのだ。もっとも、卓球のラリー中でも左手がその形のままでおかしいと真似されたりしていたので、卓球選手が全員こうなるわけではないだろう。

ともかく、今日のボーリングには散々な目に合った。なんでこんなにできないんだろうか。

なお、ボーリング場の様子は日本とほとんど変わらない。アメリカだからってボールが上から降ってくるとかそんな珍しいことはない。しいて言えば、ボールが傷だらけのボロボロで設備が古いことだが、これは別にアメリカだからではなくて、このレーン特有のものだろう。

Invention of Lying(ウソの発明)

モスクワから帰る飛行機で、Invention of Lyingというアメリカ映画を見た。日本ではまだ公開されていないらしく、邦題がついていなかったが、日本語吹き替えがあったので見た。

これは、人間がウソをつく能力のない架空の世界の話だ。誰も彼もが面と向かって「みすぼらしいお客さまですね」「今ウンコしてたところなの」「体に悪いけど買って欲しいです」など、店員だろうが恋人だろうが思ったことだけを言い合うのだ。そして主人公があるとき偶然にウソをつくことを発見する。そして死を怖がっている母親にむかって「死後の世界があって、天には人の運命をコントロールしている人がいる」とウソをつき、人々がそれを本気にして「天の人の声を聞くことができる人」として一躍有名になるのだ。

「ええっ?」と思った人は鋭い。つまりこの映画は、死後の世界も神様もみんな人間が作った話だということを大前提にしているのだ。こんな映画、アメリカ南部なら拒否されそうだが、北部なら許容されるのだろう。なんと思い切った映画だろうか。
ちなみに、映画自体も結構面白かった。

実はこの映画の前に日本映画を2本見たのだが、どちらも凄まじくひどく、ちゃんとした娯楽になっているハリウッド映画を見て心底安心したというのも好評価につながっている。