小室の精神力

3番弟子の小室は私の家よりも海側にあったため、今回の震災で津波が家の二階まで上がり、家には住めない状態である。水が引いてから行ってみると、台所に設置していた自慢の1/2サイズの卓球台が更に半分になっていたという。また、液晶テレビとブルーレイレコーダーはなくなっていたという。

幸い、本人も家族も無事で、しばらくは奥さんの妹の家に避難をしていたのだが、先週めでたくアパートに移った。

家に損害があった場合には市から補助が得られるらしいのだが、全壊と半壊で金額が違うので、中途半端に壊れていたらもっと壊した方がいいかもしれないなどと言っている。

また、小室の家の辺りはどこもひどい有様で、もう誰も住まないだろうから気がねなく卓球場を建ててしまおうなどと言っている。自分たちはアパートを借りて住んでいるのに自分の土地は卓球場にするというのだから、卓球人として素晴らしい心がけである(一般的には完全にイカれた心がけだ)。奥さんは文句がないのだろうかと思ったが、なんとこれは奥さんの考えなのだという。奥さんの卓球熱の方が勝っているのだ。

小室の家の様子を見ようと近くまで行ってみたが、あまりに風景が変わっていて迷ってしまい、結局たどり着けずに、あらぬ方角から通りに出て帰ってきた。

「通れねっちゃ!」

先週の町内の瓦礫撤去作業のとき、また不快な思いをした。

水没した家にたまった漂流物をゴミ捨て場に移動しようと1ヵ所に集めていたところ、作業の途中でその隣の家のおばさんが車に乗って出てきて、運転席から顔を出して我々に向かって叫んだ。

「通れねっちゃ!」

確かにゴミは道路の真ん中に集めていて車は通れないが、我々がそれを置きっぱなしにするとでも思ったのだろうか。トラックが来るまでの10分ほどの仮り置きに決まってるではないか。それに通れないといっても、反対側を回ればどこにだって行けるのだ。

そもそも、この人を含めた、この通りの住人たちのために瓦礫撤去作業をしているのに、この言い草である。

「トラックが来たらすぐによけますから、済みませんが反対側から回ってください」

と言ったが、ボランティアをするということは、こういう人たちにも我慢して相手をしなくてはならないということであり、底知れない忍耐力が必要なものなのだ。私には無理そうである。私はまだ経験していないが、中にはボランティアに助けられるのが当然だと考えていて「もっと早くできねえのか」なんて言う人だっているに違いない。被災者とはいえ特別な人たちではないのだから、一般の人と同じ確率でオカしな人がいるのは当然である(そんなヤツはテレビに映さないことは言うまでもない)。

写真が問題の通り(瓦礫撤去後)。

元気なこどもたち

地震以来、こどもたちは毎日遊び呆けている。

なにしろ学校がないし、風呂が入れないと言っては友達の家に入りに行き、電気が来ないと言ってはロウソクの灯りで非日常を楽しんだりといった具合だ。

町内のゴミを集めた公園では、そのゴミを搬出する業者の横で子供たちが元気に遊んでいた。

再び大地震

昨夜は本震以来、最大の余震が来て驚いた。

普段着で寝ている甲斐があって、地震から1分後には家族5人が軽自動車に定員オーバーでぎっしりと乗って逃げていた。妻は油断してパジャマだったので、パジャマのまま運転をしたのだが、ビールを4本空けた後だったので、危うく壁にぶつかりそうになり、それがもっとも危険であった。地震後に直ぐに停電したため、またもや防災リュックを持たずに飛び出してしまったので、今後は常に車に積んでおくしかないという結論になった。

十分に内陸まで走ってコンビニの駐車場で津波警報が解除されるまで1時間待ち、1時頃に自宅に戻った。今も電気が来ていないので、今晩は電気の来ている妻の実家に泊まることになった。

これで大きな余震は打ち止めにしたいものだ。

和解

妻は最近、例の「こんにちは、おはよう、ありがとう」という挨拶のコマーシャルがすっかり気にならなくなった自分を発見したと、すがすがしい顔で語った。

「何かを乗り越えた」のだそうだ。どうやら和解したようである。

自衛隊と警察

知人の田村が「今回の震災の復興で自衛隊が物凄い活躍だね」と言ったので、私が「俺はもともと自衛隊や警察には最大限の敬意をもっている」と言うと、田村はとても意外そうな顔をした。

普段、なんでもかんでも反対したり批判したりしている私のことだから、自衛隊と警察にもきっと反感をもっていると思ったのだろう。ところが違うのだ。命がけで日本の治安を守る警察や外敵から国民を守る自衛隊を批判する理由などない。

また、警察を批判するヤツらがあまりにも愚劣なので、その反動で意地でも警察に好感を持ってしまうというのもある。10代の頃によく聞かされたのが、スピード違反の検挙を隠れてやるのが卑怯だというものだ。スピードを出させたくなかったらなぜ堂々とやらないのかと言うのだ。

彼らは、隠れてやるからこそ少ない人数で最大の効果を得られているという当然のことすらわからないバカなのだ。「警察官の中にはろくでもないヤツもいる」というのも的外れである。警察官だろうと何官だろうと、ある確率でろくでもないヤツがいるのは当たり前ではないか。そういうヤツが紛れ込んでいて、なおかつ警察官個々の職務の動機が必ずしも市民のためではなくて私利私欲であったとしても、それでもシステムとして交通事故の低減に効果を発揮するように仕組まれているところこそが優れているのではないか。

警察が犯人を追いかけて、逃げる犯人が事故で死んだりするとすぐに警察に落ち度がなかったかを問題にするマスコミも気に入らない。逃げるほどの悪事を働いた犯人が悪いに決まっているのだから警察に落ち度などあるはずがないではないか。

自衛官や警察官が他の職業に比べてもともと特別に偉い人たちだとは思わない。しかし、経緯や動機はどうあれ、結果として国民のために命を懸けていることは事実なのであるから、それだけで私は敬意を表するのである(ただし、取調べで罪をデッチあげるのはこれはこれで死刑にも値する犯罪だと考える)。

ランゲルハンス島

糖尿病の検査の結果「ぎりぎり糖尿病です」と言われた。なかなか気の利いた表現にニヤリとした。ニヤリとしていられたのも、かなり軽度で、正常と糖尿病の中間である「境界型」なので治療の必要はなく、糖分や食事量を心持ち抑えればよいだけだということだからだ。

妻には「あれだけ毎日チョコレートやポテトチップスを虚ろな目で食べ続けていれば病気にならない方がおかしい」と言われた。まあ、妻の表現は誇張だが、甘いものが好きなのは確かだ。チョコレートは毎日食べるし時にはツブ餡の缶詰を買って食べるくらいだから、人並みとは言いがたい。

ネットで調べると、一度本当の糖尿病になってしまうと、もう治らないと怖いことが書いてあったので、今日からチョコレートもツブ餡も食べないことにした。チョコレートごときのために死ぬわけにはいかない。

初めて糖尿病を発見したのは、イギリスの医者トーマス・ウィリスで、1674年のことだという。トーマスは多尿症の研究をしていて、どうしても尿の成分を知りたくて患者の尿を舐め、それが甘いことから糖尿病を発見したという。

また、糖尿病がすい臓と関係があることを発見したのは、それから約200年後の1889年、ドイツの内科医オスカル・ミンコフスキとヨーゼフ・フォンメーリングだ。彼らが健康な犬のすい臓を除去するテストをしたところ(気の毒な犬だ)、何日かするとその犬の尿にハエが群がっていることに気づいて尿を調べ、すい臓と糖尿病に関係があることを突き止めたという。

現代の何をとってみても、先人の途方もない努力の上に成り立っていることを実感させられる。なんと我々は幸福な時代に生きているのだろうか。

ちなみに、ランゲルハンス島とは、血糖値をコントロールするのに重要な働きをするインスリンを分泌する、すい臓内の細胞群に、その発見者にちなんでつけられた名前である。まちがっても「そこに行ったことがある」などとはいわない方がよい。

チャリティーコンサート

初めてチャリティコンサートというものを知ったとき、ものすごく違和感があった。
最初、コンサートでどうやって寄付をするのか不思議に思ったものだ。恵まれない人をコンサートに招待するのだろうか、あるいはもしかして、恵まれない人たちを元気付ける歌でも歌うのだろうかなどと考えたのだ。

そうではなくて実は、コンサートの利益を寄付に回すのだということを知ったときの違和感はどうしても忘れられない。お金を払うのは裕福ではない一般人であって、裕福と思われる主催者側はただ演奏して歌うだけというのが腑に落ちないのだ。もちろん、演奏して歌うだけで経費がかかるし、本来、自分の利益になるはずの分を寄付するのだから、私財を寄付するのと同じことなのはわかるのだが、どうにも釈然としない。

「個人で寄付する金額には限界があるがコンサートで大勢の観客の入場料を集めれば大きな金額になる」という理屈もあるだろうが、それならそのアーティストは、普段はそのコンサートの収益をたっぷりと手にしているわけで、1回のチャリティーコンサートで得られる程度の金額の何倍もの資産を持っているはずである。わざわざコンサートなどして他人に金を払わせるのではなくて、自分の資産を寄付した方がよっぽど早いし直接的である。

金持ちは寄付すべきだと言っているのではない。チャリティコンサートなんてまわりくどいことをするくらいならただ自分の金を寄付した方が良いのではないかと思うだけだ。

孫正義が100億円を寄付することにしたそうだ。流石である。もっとも彼はコンサートしようにもできないわけだが。孫が小話しとかカラオケをしても客は30人くらいのものだろうしな。

許しがたい愚行

福島の被災地で、放射線被爆量が問題ない値であることの証明書を見せないと避難所に入館できないとか、診療所で診療を断られる事態になっているという。
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110329k0000m040129000c.html?inb=yt

信じられない愚行である。原発のすぐ近くで死ぬほど放射線を浴びた人でもなければ、他人に与える影響などないことぐらい、関係者も医者もわからないのだろうか。

「他の避難者から不安がる声が多かったため始めた」そうだが、その不安に毅然として「実害など有り得ない」と科学的根拠を説明すればよいだけのことではないか。
それでもグダグダ言うような「自分のことだけ心配な思い込みバカ」は避難所から出してしまえばよい。当たり前のことである。それを管理者側までが一緒になって、避難地域からの避難者たちを差別するとは信じられない愚行である。

健康に何の問題もない福島産の野菜を食べないアホどもと同じである。一日も早くこんなバカなことは止めてもらいたい。

日本人のこういう感覚には「穢れ」の文化も関係しているのではないだろうか。葬式が縁起が悪いこととして、その穢れを落とすために塩をまいたり、葬式でやることは縁起が悪いので箸渡しをしないとか、科学的根拠などお構いなしに印象を判断材料にすることに慣れているので、その延長で、福島産だというだけで食欲をなくしたり、福島から避難してきた人だから近づきたくないという感覚になるのではないだろうか。箸渡しをしないとか、塩をまくなどというのは実害はないことなので好きなようにすればよいが、これは違う。

こういうときこそ、絶対に科学だけを根拠にするべきであり、文化や伝統はぜひとも後回しにしてもらいたい。

息子がテレビに出演!

息子が、家を流されて高校の体育館で暮らしている友達のところに遊びに行くと、偶然NHKが取材に来たという。フランスの大臣が仙台を訪れ、ついでに避難所を視察に来たらしい。

6:40からのニュースに出るというので、録画しながら家族みんなでテレビを見たが、画面の左端に腕が映っていただけだった。

息子は、なぜだかテレビ画面に映っているフランスのお菓子をもらって帰ってきた。

家を流されたという息子の友達は地震後、家に遊びに来たが「家、土台しかないです、マジです」とそれはもう得意そうに語った。その調子でみんなに言って回っているのだという。考えてみると、家を流されて仕事の心配をするのは大人であり、もともと家を建てたり働くことに関与していない中高生は、大人ほどにはショックを受けていないのだろう。また、亡くなった人たちへ思いをはせる想像力もない。自分の中学生時代を想像してみてもそんな感じがする。あまりモラルに合致することではないが、男子中学生はそんなもんなのだ。また、前向きに生きるためにはその方が都合が良いとも言える。良くはなくてもこれが現実だ。

大人の感覚で子供の心情をおもんばかると大抵は肩透かしをくう。子供は大人の感情移入したいようにはならないのだ。

先週行った床屋の御かみさんも、避難所になっている近くの小学校では、子供たちが毎日キャンプ気分で大喜びしていて「とてもテレビには映せない状態」だと言っていた。そりゃそうだ。

うちの子供も、避難所の友達に「自衛隊が設営した風呂に入りに来い」と誘われ、すんでのところで行くところだった。「迷惑だから行くなバカ」と止めなければ間違いなく行っていただろう。

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