年別アーカイブ: 2007

フリーマーケット

ドーサンでは郊外に毎週土日にフリーマーケットをやっているところがある。店が100軒以上あってとにかくいろんなものを売っているのだが、ナイフとか手裏剣とか、やたらに凶器の割合が多いのが面白い。中には土だらけのコカコーラの瓶など売っていたりして不思議である。

そこの看板にFlea Marketと書いてあったので、私は「ははあ、Free Marketと書くべきところをわざと同音異義語で洒落ているのだな」と思った。家に帰って念のために調べてみるとFleaとは「ノミ」のことであった。そうえば、フリーマーケットのことを日本語では「ノミの市」とかいうなあと思ったら、実はノミの市というのはFlea Marketの直訳だったのであり、Free Marketは日本人がよくやる間違いだったのである。周りにこれを話すと半数ぐらいの人は知っていてバカにされた。知らなかったものは仕方がない。

他にもいろいろと発見をするのは結構楽しい。

たとえばパイナップルはパイン・アップルだが、パインとは松のことである。どうして松のりんごがパイナップルなのかと思ったら、わかった。松ぼっくりの形がパイナップルに似ているのである。パイナップルと命名した人がパイナップルより先に松とりんごを知っていたであろうことも同時にわかる。

トレンチコートというものがあるが、トレンチとは溝である。溝とトレンチコートがどういう関係にあるかと調べたら、トレンチとは戦場の塹壕のことも指し、第一次世界大戦で兵士が塹壕(トレンチ)で着るために作られたのがトレンチコートだったのである。

コートの話で思い出した。背広の襟の形や無意味についているボタン穴の由来をご存知だろうか。じつは背広というのは、えりを立てて首に巻くとぴったりと合い、詰襟状態になるのである。もともとナポレオン時代だかの兵士が首を守るために詰襟を使い、それをめくってだらしなくしたのが流行したのが背広のルーツなのである。私は寒いときに背広の襟を立ててみたときにあまりに見ごとな詰襟になってちゃんと第一ボタンの穴があることに気がついてこれを発見した。みなさんも寒いときは背広の襟を立ててみることをお薦めする。

最後にダメ押しの一発。officeとはoff+iceで、「氷の無いところ」という意味なのを発見した。これはウソである。

yeah right

7年前、この町に出張に来たときに、ロナルド・ピータースという人の家に泊りがけで卓球をしに行ったことがある。彼は歯医者でインテリで、食事の間中、いろいろな自説を語ってくれた。その中でひときわ役に立って記憶に残っているのがyeah rightの話である。

ロナルドは私に「面白い英語を教えよう。英語でyeah rightって言ったらどういう意味だと思う?イエスかノーのどちらだと思う?」と聞いた。yeahはyesだし、rightは「正しい」だから、単体ではどちらもイエスの意味である。私は「わざわざあなたがそう聞くということはノーの意味なのですか」と言うと、そのとおりだと言う。

彼は用例を語ってくれた。たとえば友達が「俺、明日大統領になるぜ」と言ったようなときに「yeah right」と言えばよいのだという。理由は知らないが現実にはそういう皮肉の意味でしか使われないのだそうだ。方言の可能性もあると思ったので、しつこく聞くと、これはテレビや映画でもそういう使われ方しかしない言葉なので、方言ではなくてアメリカ全体の共通事項だという。日本語でいうなら「そりゃよーござんしたね」とでもいう感じなんだろう。

翌週、職場で何人かのアメリカ人に聞いてみると彼らも全員が同意した。よほど親しい友達どうしが皮肉で言うとき以外は使わない言葉であり、ましてビジネスではありえない失礼な言葉だと言う。そこでブライアンは「実は本社(日本)のSさんがしょっちゅうそれを言うのだが悪気はないとわかっているので気にしていない」と告白した。これは相当腹に据えかねているに違いない。

そういえばそうだ。私もしょっちゅうそのSさんが電話口で「イエーライ、イエーライ」と相槌を打っているのを聞いていたのである。これはまずい。その人は社外との交渉の担当なのだ。社内ならともかく、社外の人に「そりゃよーござんしたね」と相槌を打っていたのではどうりで交渉が失敗するわけである。これは大変だ。

私は日本に帰るとさっそくその人に事情を説明した。彼は「言い方によるんだよね。状況とか。」と言って決して認めない。

悔しいので次に出張に来たときに私は「yeah right」と言って失礼ではない状況や言い方があるかを何人かにしつこく聞いたが、結局どんなに考えてみても「そんな状況や言い方はない」との結論を得た。

確実に知らないことを話すことは危険である。わからないならバカみたいでも安全にyesと言えばよいのであり、慣れたふりをしてyeahと変形させたり、それでは寂しいからといってrightをつけたりするのが間違いの元なのである。もっとも、私は英会話教室で、講師の話を聞くときにいちいち「イエス、イエス」と相槌を打っていたら「それは変だから黙ってうなづけ」と言われた。ちなみに、「yeah」「you are right」「right」はいずれも問題なく普通に使う。「yeah right」だけがダメなのである。難しいものである。

Balls of Fury

同僚のマイクがニヤニヤしながら「お前にぴったりの映画があるぞ」といって、公開されたばかりの映画「Balls of Fury」を紹介してくれた。なるほど、これは面白そうだ。少林サッカーとベストキッドをあわせたような感じのコメディである。

さっそく家族5人で見に行ってきた。最初、観客が5人ぐらいしかいなくて「お父さん、お客さんいないね」などと言われて沈んだ気持ちだったのだが、だんだんと多くなって、始まる頃には7割ぐらいは入ったように思う。

観客はしょっちゅう笑っていたのだが、英語がわからないためにその笑いの半分以上はわからず残念だった。それでもアクションだけで十分に笑えたので、日本語版をみたらさぞ面白いのだろうと思う。主人公に卓球を教える老師がいるのだが、これがなんと盲目で、それをネタにしたギャグが満載。老師がいいことを話そうとすると、横から老師の向きを話し相手の方に向くようにいちいち直されたり、あちこちにぶつかったり転んだりとバカにしまくっている。

卓球のボールはほとんどすべてCGで、めちゃくちゃである。主人公はデブだし、ライバルたちも全員おかしな奴らで、「卓球の達人はこういう変な人たちだろう」という幻想に基づいて描かれている。日本代表も出てくるのだが、なんと相撲の格好で出てきてマワシをしたまま試合をするのである。負けるとすぐに泣く10歳ぐらいの中国人の女の子や、いかにもオタクっぽい分厚いメガネの白人など、どいつもこいつも滑稽である(ドーサンで卓球の大会を見に行ったとき妻が「卓球しているアメリカ人ってかっこよくない人ばっかりだな」と言った。私は内心ギクリとしながらも「気のせいだ」と否定しておいた)。

唯一、ヒロインの東洋人女性がかっこいいのだが、こいつがなんとCGでも矯正できないほどのへっぴり腰。もっとも卓球の場面はあまりなく、だいたいはバク転したり吹き矢をよけたりして(そういう映画なのだ)飛び回っているのであまり問題にはならない。

最後の方は、主人公のデブとクリストファー・ウォーケン演じる悪の親玉が、卓球台を使わずに、竹やぶ、山道、つり橋などを歩きながらボールを地面につきながら試合を続ける(これでも勝負なのだ)というめちゃくちゃさである。

卓球がコケにされるなどと視野の狭いことを言ってはいけない。こんな形でも卓球が大衆に露出するのは良いことである。コメディにさえならないバドミントンのファンがどれほど悔しがっているか考えてみるのだ。

家のこと

家を選ぶにあたって、20軒ぐらいの家を見ただろうか。アメリカの家は微妙に日本の家と違って面白かった。

まずアメリカ人はふつう家では靴を脱がないので、玄関に靴を脱ぐところはない。写真のようにいきなりリビングなので、日本人としてはどうも落ちつかないのだ。業者もすぐに靴で上がりこもうとするので「脱いでください」とお願いをして困惑されてしまう。脱いでもらって室内用のスリッパを貸したりするとそのまま外を歩かれたりしてどうにも困るのである。

台所にはガスはなくすべて電気製であるが、面白いのが調理台である。まっ平らになっているので、てっきり電磁調理器かと思うとそうではなくて、下に電気コンロが入っているだけなのである。料理台の上には換気扇があるのだが、なんとこの換気扇、吸い込んだ空気が電子レンジの上から吹きだして人の頭にかかるようになっているのである。フィルターが入っているとはいえ信じられない感覚である。これはオプションで外に出す工事をしてもらえる場合もあるのだが、多くはこのままなので、アメリカ人は平気なのだろう。

さて、風呂である。アメリカにはバスタブが無いことが多いと聞いていたが、意外にもほとんどの家にはバスタブがあった。ところが追い焚きというものがない(穴が見えているのはジェットバスの泡の出口である)。夏はともかく、湯がすぐに冷めるような冬は家族5人入るのは難しそうである。バスタブがある部屋は普通の床なので、日本の風呂みたいに湯をあふれさせることはできない。体を洗うのは別のシャワー室であり、バスタブはそっと入るためだけにあるようである。ある人の話だと、バスタブは女性が体に石鹸のいい匂いをつけるために入るもので、体についた石鹸をそのまま流さないでタオルで拭くだけにして上がるのだそうである。なるほど、映画で歌など歌いながら風呂に入って足を上げている女性の姿はそれだろうか。ある日本人は「俺はいつもバスタブに入っている」と言ったら「なんだ、女じゃあるまいし」とアメリカ人に言われたというから(そのときは意味がわからなかったそうだが)、先の話にも説得力が出てくる。真相を確かめるべくグレッグに聞いてみたところ、「男でも女でもバスタブに入るやつもいるし入らない奴もいる。香水を流す奴も流さない奴もいる」とのこと。ただしグレッグはバスタブを使わないが奥さんは使うそうであるから、グレッグは断言したくないだけであって、そういう傾向はあるのだろう。

日本食レストラン

ドーサンには日本食レストランが2件ある。MIKATAとKYOTOであり、いずれも韓国人が経営している。KYOTOはともかく、MIKATAとは意味がわからない。まさか「味方」じゃないだろう。「御方(みかた)」なら古い日本語でありそうな気もするが、なにしろ店員は全員韓国人で日本語は「ドウモアリガトウ」しかわからないので聞くこともできない。そもそも現代の日本人が知らない名前をつけたところで意味がないではないか。店内はなんともいえないデタラメな感じの日本風になっている。しかしうどんや寿司、天ぷらがおいてあり、日本食が恋しいときにはなかなか重宝している。

車で40分ぐらいの隣町にはTOKYOという店があり、やはり韓国人の店である。さらに2時間以上走ると、MIKATO、OSAKAなどという店がある。MIKATOとなるともうまったく意味不明である。写真のMIKATOの店構えから、いかにもデタラメっぽい感じがお分かりいただけることと思う。それにしても店名が「京都」「東京」「大阪」とは、いかにも唐突で滑稽である。

ドーサンに来る前に通っていた英会話教室でそのことを私が得意気に話したところ、講師のアメリカ人に手痛い反論をされてしまった。「じゃ、仙台駅にある『リパブール』ってナンデスカ」「『キャバレー・ロンドン』ってナニヨ」と大笑いされてしまった。店の名前に「パリ」などとあると彼らは「なんだそりゃ」という感じで可笑しくて仕方がないらしい。ぐうの音もでない(私の職場はまさにその『リバプール』で忘年会をやったのだった)。

言われてみれば、KYOTOやTOKYOやOSAKAは、「日本食を出している」という意味がある分だけ『リバプール』や『キャバレー・ロンドン』よりマシかもしれない。

ビートルズ4

今回は私が初めて買ったもっとも好きなアルバム『ラバー・ソウル』(’65年)である。Rubber Soulとは「ゴム製靴底」の意味であるRubber Soleと同音であるが、sole(靴底)をsoul(魂)に変えた洒落のようになっている。その洒落の意味を聞かれてメンバーはずっと「特に意味はない」と語っていて長い間、その真意は明かされていなかったが、ビートルズ研究家のマーク・ルイソンが’90年にその意味を解き明かした。ルイソンはビートルズ関係者以外で唯一、ビートルズが残した何百時間という音源のすべてを聞くことを許された研究家である。彼は、ラバー・ソウルのレコーディング中、曲の合間にポール・マッカートニーが「黒人ミュージシャンがミック・ジャガーを偽者のソウルだと揶揄して『プラスティック・ソウル』と言っている」と他のメンバーにしきりに説明しているのを発見した。これをヒントにしてビートルズがアルバムタイトルをつけたであろうことは間違いない。「じゃ俺たちはプラスチックとまではいかないがゴム製のソウルってとこか。靴底ともダブルミーニングだしな」ってなところだろう。名作『ラバー・ソウル』のタイトルの謎はこうしてその発売から25年後に明らかにされたのである。

私がこの名作のジャケットをカバーしたのは’82年であるから、比べるのも何だが、これもそれから25年後の今日、こうしてブログで世に発表することとなった(ただし、画像のゆがみと色相変更は自分でパソコンで画像処理ができるようになった5年ほど前にやったものである。まだ続けているのだ)。まさかこんなものをしかも卓球雑誌のサイトで発表できる日がくるとは思いもしなかった。インターネットと卓球王国編集部は偉大である。

それにしても、何の発表のあてもなく竹やぶの前でビートルズの真似をしてポーズをとるこの若者たちは、いったいどこに向かっていたのだろうか・・。このうちの二人は今、中学教師である。

方言

徳川宗賢の「日本の方言地図」(中央新書)という本がある。これは、国立国語研究所の研究員が全国2400箇所に赴いて方言の聞き取り調査を行ったものを、徳川が簡約化して文庫化したものである。言語地理学には柳田国男の「方言周圏論」というのがあるらしい。方言の中には、近畿地方を中心として同心円状に分布しているものがあり、これは、昔の都だったところから時間をかけて言葉が池の波紋のように伝わったためだというのである。その伝播速度は平均して1年に600m程度だという(もちろんマスメディアが発達していない前近代の話である)。なるほど、私の祖父母が話していた方言のなかに、それらしい言葉があったわけである。ヒマなことを「トゼンだ」と言っていたがこれは「徒然」だったわけで、千年以上前の京の都の言葉なのである。

柳田が周圏論を見出すきっかけになったのが全国に広がるカタツムリの呼称の分布である。周圏論に従えば、カタツムリの呼称は、古い順にナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デンデンムシと近畿地方で変化してきたのであり、これが時間をかけて全国に伝わったのだということを現在の方言の分布は示しているのだという。もっとも新しいのがデンデンムシというわけである。こういうことを知ると、言葉に関して何が正しいかなどという議論には限界があることがよくわかる。

もちろん方言はそのようなものばかりではない。たとえばサツマイモだ。サツマイモのことを九州ではカライモ、中国地方ではリューキューイモ、近畿以北ではサツマイモと言う。これはサツマイモが日本には沖縄(琉球)→九州→本州という順で伝わったことをそのまま表しているのだという。薩摩(九州)の人はサツマイモとは言わないのだ(ただし調査対象は1903年以前に生まれた男性)。

ところで面白かったのは、この方言の調査の方法である。質問に答えてもらう方法なのだが、たとえば「おんな」という言い方を聞くのに「婦人代議士の”婦人”のことを普通の言葉ではどのように言いますか」が原案だったと言う。どうしてこういう聞き方をするかというと、調査対象の人たちが標準語を知らなかったり別の意味で使っていたりすると困るし、また質問に標準語を入れるとその表現に回答がひきずられる可能性があるためである。それにしてもこの原案はひどい。結局これは「獣や鳥については”おす・めす”という区別があります。でもこのことばは人間には使いません。人間についてはそれぞれ何と言いますか」となったという。他にも「恐ろしい」という意味を聞くのに「大きな犬が何匹もほえかかって、いまにもかみつきそうになる。そんなときの感じをどんなだと言いますか」と質問したのだという。これはいかがなものだろうか。難しいものである。

何年か前にマスターズの試合で沖縄に行った。那覇市は町中が観光地で、いたるところに「沖縄ソバ」の看板があった。「沖縄の人がわざわざ『沖縄ソバ』と言うだろうか」と疑問に思い、タクシーに乗ったときに運転手さんに聞いてみた。すると「ソバといえばあのソバに決まっていますから誰も『沖縄ソバ』なんて言いません」とのことである。やっぱり。それでは我々が普通『ソバ』と呼ぶ、あの黒い麺は何と呼ぶのだろうか。彼の答えは明快であった。「あれは『内地ソバ』言います」。聞いてみるものである。言葉は面白い。

情けない奴

私はヒゲが濃い。ジョン・レノンがヒゲをはやした写真を見て、自分もヒゲをのばせるようになればいいなと高校生の頃に思っていたのだが、だんだんと濃くなてきて、二十歳を過ぎたころにはどうやら自分はヒゲが十分に濃いようだとわかり、心底嬉しくなったものである。世の中には、ヒゲを伸ばしたくても薄くてどうにもならない人がいるわけで、この点では私は良い体に生まれたと喜んでいる。

問題はヒゲと髪の毛の関係である。ヒゲというのはなにやらとてつもなく硬い。だいたい、手の甲が痒いときなどアゴに当ててこすれば掻けるし(どうしてわざわざアゴで掻くのか、と思うかもしれないが、もう一方の手を使う必要がないので便利なのだ)、そのとき手の甲には無数の白い掻き傷ができるほどである。これだけ硬くて濃いヒゲを何かの役に立てられないものかと思う。

ヒゲが硬いと感じるのは確かだが、本当に髪の毛にくらべて硬いだろうか。短いために硬く感じるとか、生える角度によってそう感じるなどということはないだろうか。人間は錯覚をする動物であるから、こういうことは客観的に確認しなくてはならない。

そこで確認した。アメリカに来たばかりの頃、英語の会議があまりにもわからないので、ふと思いつき、ノートに毛を並べてデジカメで接写してその太さを比べてみたのだ。写真左から順に?ヒゲ、?髪の毛の濃い部分、?髪の毛のハゲている部分、である。結論。毛の太さの関係は、日常感じている通りであった。ヒゲは間違いなく直径が太い。本当に髪の毛より太いのである。それにひきかえ、ハゲ部分の毛の細いこと。われながら情けない奴である。ヒゲの太さの1/3ぐらいしかない。これは断面積、曲げ剛性にしたら1/9ということである。しかも長さも密度も少ないのだろうからこれでは薄く見えるのも道理である。ハゲるわけだよこれじゃ。

アメリカの単位

子供の学校の勉強で、もっとも簡単なのは算数である。数字はすでに知っているので英語がわからなくても見当がつくからだ。しかし困ったのが単位である。

こちらではいまだに長さはインチとかヤードが主流で、体積はリットルよりはガロンである。驚いたのは、長さの単位であるインチとフィートとヤードの関係が10の倍数ではないことだ。1インチが2.54cmと半端なのは仕方がないとして、12インチ=1フィート、3フィート=1ヤード、そして1760ヤード=1マイルだってんだからあきれるではないか。

重さもこの調子で、1オンスが28.35gだが、なんと16オンス=1ポンドなのである。12ならまだしも、16ってどういうことよ。体積もなぜか液体用と固体用と別になっていて、ピンツだのクオートだのペックだのブッシェルだのわけのわからない単位が目白押しである。3ティースプーン=1テーブルスプーン なんてことを覚えても日本に帰ったら何の役にも立たないことが分かりきっているだけに、覚えさせるのが不憫でならない。

ちなみに私の免許証には身長が5.06フィート、体重が163ポンドなどと書いている。ボクサーにでもなったようで新鮮である。

温度も日本ではセルシウスが考案した摂氏(℃)が主流であるが、こちらではファーレンハイトが考案した華氏(F)が主流である。℃は水の凍る温度を0度、沸騰する温度を100度にしてその間を100等分して決めたものである。ファーレンハイトには諸説あり、当時測定できた最低気温を0度、人間の体温を100度ぐらいにしてその間を100等分して決めたらしく、あまり物理的ではなさそうである。「今日は100度を超える暑さだ」などと言っているのを聞くと、私はいまだにちょっと違和感があるのである。

自動車の話

私は自動車には興味がないのだが、世の中には結構興味のある人がいるようで、「どんな車に乗ってるんだ?やっぱりアメ車か?」などというメールが知り合いから来る。そこで今日は車の話である。

まず、家族用にトヨタのシエナというバンを新車で買った。次に、私の通勤用に小回りのきく車がほしいと思い、先に赴任していた日本人が乗っている車を見て同じものを買うことに決めた。クライスラー社のPTクルーザーという車である。これは中古で買うことに決め、あちこち中古屋を回った。こちらでは、使ってもあまり値段が落ちず、かなり高く売れるので、みんな結構平気で車を買う。

この町の人たちは商売熱心ではないので、信じられないことに日曜は車屋はすべて休みである。なお、売れているレストランも日曜は休みである。これは日曜は教会に行く日と決まっていることが関係しているのだと思う。

そういうわけで、PTクルーザーを探して中古屋を回ったのだが、置いてあるところは少なく、レンタカー落ちで比較的新しい車を売っているOUTLETというところでやっと見つけた。そこの店員がものすごく怪しい感じで、近づいてくるなり「お前は友達だ。普段は17,000ドルのところを特別に14,500ドルにしてやる」などと言ってくる。車に積んでいたブライアン・ウイルソンのCDを見つけると勝手に手に取り「俺もこれは好きだ」などという。ウソつけ。

とにかくてんで信用できないので、もっと安いに決まっていると思い、翌週行ってみると別の店員が出てきて「13,500ドルだ」という。喜ぶどころか、こうなるとますます信用できない。結局、「諸費用込みで13,000ドルにしないと帰る」と言ったら、それで売ってくれたので良しとした。

帰り際に店員が、他の日本人を紹介してくれと言う。私は正直に「この店は他の店と違って展示している車に値段が書いていなくて、いちいち聞かなくてはならず、そのつど10分も20分も待たされるので紹介できない。どうして値段を書かないのか。」と聞いた。すると店員は「じゃ、たとえばだ、この車に17,000ドルと書いてあったとしてだ、お前、この値段で買うか?」ときた。「高いので買わない」と答えると「だろ?どうせ値段交渉して買いたいと思う値段じゃないと買う気がないんだろ?だったら値段書いても意味ないじゃないか」と言った。

うーむ。なにかが激しく間違っている。まちがって高く買ってくれる客がいることをあてにしているのだ。とにかくそういう方針の店なのだ。さすがにこういう店はこの町ではここだけであり、他の店はこんなではない。

このPTクルーザー、アメリカの車だなあと思うできごとがあった。あるとき、構内で急に雨が降り出したので、上司のジョンと同僚を後の席に乗せた。走行中、すごい雨が降っているのに後の窓がガーッと開き始めた。ジョンは何かと気難しいやつなので、車内の空気が悪いとかいって雨でも構わず開けようってんだな、と思って黙っているとジョンが「ジョータサン、マド・・」と困ったように言う。私が開けたと思っているのだ。しかし開けた覚えはない。そこでハッと気がついた。この車にはパワーウィンドウのスイッチがドアではなくて中央に寄ってついているのだ。後の席に座ったジョンが大きなカバンをもっていて、そのカバンで気づかぬうちに写真右中央の黒いスイッチを押していたのである。なお、前の席の中央上部に4つ見えているのもパワーウィンドウのスイッチである。どうみてもカーステレオのスイッチに見えるがこれがパワーウィンドウのスイッチなのだ。車などという近代的なものにも文化の壁があるのだなあと思った瞬間であった。なお、写真の車にナンバープレートがついていないのは、アラバマ州ではナンバープレートは後にだけつけるからである。