年別アーカイブ: 2007

大食いの手坂

痩せの大食いというのがいる。たくさん食べているのに痩せているということは、エネルギー保存の法則から考えれば、二つの原因が考えられる。異常に熱を外部に発しているか、多量に排泄しているか、つまり大便を大量に出しているかだ。通常、こんなことは人に聞けないのだが、誰もが抱いている疑問だと思う。

元の職場の後輩に手坂という奴がいる。これが典型的な痩せの大食いで、よく食べるのだが、太らないどころか最近では少しづつやせてきているという。それで聞いてみると、やはり大量に出すのだそうだ。特に下痢をしているわけでもないのに日に2、3回、しかもたっぷりと出すのだそうだ。当然、最初のころは奥さんから「どうしてそんなに出るのか」と聞かれたそうである。それほど極端なのだ。
手坂という名字は本人の希望があって仮名だが、本名も聞きなれない名字で、全国にも50件もないという。名字博士という興味深いサイトを見つけた。そこに名字のランキングがあるのだが、彼の本名は1万位までは載っていなかった。http://www.alles.or.jp/~tsuyama/name.htm

食べても太らないというのは、現代では良さそうだが、生物としては効率が悪いのだから当然、良くないことだ。飢饉にでもなったら真っ先に飢え死にするだろう。食っても食っても出るのだから当然だ。おそらく手坂の先祖たちは、飢饉のたびに絶滅していたものと思われる。「それでお前の名字が少ないんだろう」とからかっていたものだ。しかし、現代の日本の名字など、明治維新のときに皆で勝手に名乗ったものらしいし、明治以降は飢饉はないので、真偽のほどは不明である。しかし話としては、そういうことにしておいたほうが面白かろう。

このブログのこと

このブログがどれくらいアクセスされているのか興味のある人もいるだろう。編集部から教えられたURLにアクセスしてパスワードを入れると、アクセス数がわかり、日ごとに棒グラフで出てくる。それによると、一日の平均アクセス数は次のようになっている。

8月 181件
9月 196件
10月 203件

最高は10月中ごろの295件である。2番目の記録が249件なので、その日に何か特別な理由があったのだと思われるが、見当がつかない。誰かがリンクを貼ったのだろう。

特にアクセスが多い曜日は決まっていないが、総じて土日は少ない。また、3連休になるともっと少なくなる。多くの人が会社や学校からアクセスしているものと思われる。

卓球王国自体の一日のアクセス数がだいたい2000~3000件であることを考えると、このブログを読む人は10人に1人もいないことになる。日に200件も読んでくれる人がいることは嬉しいような気もするが、卓球王国という大きな媒体を使っているのにこの程度だと思うと、やはり寂しい。

200件といっても、おそらく編集部の20人が2回づつ見て40件、元の職場や今の職場の連中がだいぶ見ているらしいので50件ぐらい(卓球にぜんぜん興味がない人のアクセスなので卓球王国にとっては無意味だ)、さらに2番弟子の田村が日に5回はアクセスしているらしいので、だいたい100件ぐらいは内輪のアクセスということになる。

正味100件が本当の一般の人のアクセスなのだ。やはり寂しいが、書くことは楽しいので続けていこうと思う。卓球王国のサイトなのに卓球ネタが少ないのは、限られた卓球ネタを雑誌連載のためにとっておきたいからだ。まさか卓球王国でハゲや小便やビートルズのことを書くわけにもいかないからである。

ドーサンのパトカー

ここドーサンは、遊ぶものや歴史などはないが、こと安全に暮らすことにかけてはとても快適なところである。市民に対する病院の収容力も高いし犯罪も極端に少ないらしい。

犯罪が少ない理由として考えられるのが、人の良さとか貧困層の少なさとともに、パトカーの多さがある。とにかく町中にパトカーが多いのだ。いったい市民の何割が警官なんだ?と言いたくなるほどである。

レストランにパトカーがとまっているのを見て、最初の頃は何か事件でも起きたのかと思っていたのだが、何のことはない、警官が制服のまま飯を食っているのだ。レストランでそれを見つけたうちの息子たちは「ピストルだピストルだ」と大騒ぎだ。「それは英語だから聞こえるように言うなバカ!」と叱りつけてやった。

住宅地にも警官が昼飯などを食べにパトカーで自宅に戻るので、あちこちの家にパトカーが停まっている。日本なら職権乱用だと問題になりそうだが、こちらでは堅いことは言わないのだ。それに、住民にしてみれば安心感があるだろう。パトカーにカメラをなど向けていると撃たれそうなのでこっそりと撮影して逃げるようにその場を立ち去った。

ドーサンならではの実に興味深い光景である。

スタン夫妻、日本へ行く

こちらで知り合った卓球仲間のスタン夫妻が、月末から日本へ行く。奥さんが郁美さんという日本人で、北九州の実家に一ヶ月の里帰りをするためだ。

最初の5日ぐらいは東京に滞在して郁美さんの旧友などと会い、その後北九州市に行くのだという。里帰りの目的は、郁美さんのお母さんの具合がよろしくないためとのことだが、スタンは生れて初めての日本で、隙あらば東京や九州で卓球をしたいと意気込んでいる。

そこで、東京在住の卓球仲間に相談したところ、「中央区総合スポーツセンター」というところを紹介してもらったので、教えておいた。また、卓球王国のインフォメーションで紹介されている『ストリートピンポン』のイベントも紹介しておいた。

次に九州である。郁美さんの実家に近いところで練習に入れてくれそうなところをネットで探した。なにしろスタンはヘタをすると毎日でも練習しかねないので、週1回の社会人のクラブでは物足りないかもしれない。高校の卓球部は管理が厳しい。そこで、大学の卓球部をあたることにした。

そして「北九州市立大学卓球部」のサイトhttp://kitakyu-fight.com/blog/が見つかった。郁美さんの実家にも近い。さっそく主将の小川裕司さんという方にメールで事情を説明すると、嬉しいことに「部員たちもスタンを歓迎する」という返事がきた。大学生の実力からすると、おそらく年配のスタンでは相手にならないだろうと思われるにもかかわらず、受け入れてくれるとは本当にありがたいことである。これを機会に親交を深めてもらいたいものだ。スタンも一生の思い出になることだろう。

こうして、日本全国どこでも卓球クラブがあるのだから、やはり日本は卓球大国である。
ちなみに、郁美さんは中学のときにたまたま卓球部だったが、卓球には特別な思いはない。スタンを初めて知人から紹介されたとき「ええ~?アメリカ人でたっきゅう~?」と思ったそうである。アメリカ人で卓球を競技としてやる人はきわめて希である。しかし、2時間車を運転しないと練習相手がいないという、その環境の中で続ける人というのは、逆に手のつけられないのめり込みようなのだ。家でも目を離すと卓球のビデオを見ているという。

ちなみに私の妻も中学のとき卓球部であるが、これもたまたまである。私の卓球へののめりこみ方に辟易し、今では「卓球の話はいっさい聞きたくない」と言われるまでに至っている。スタンと私の人徳の差であろう。

弁当の話

昨夜、職場の上司であるジョンの家に招かれて、家族で夕飯をいただいてきた。大変おいしいステーキを出されてとても幸福なひと時を過ごした。

そこでジョンが日本に出張したときの話をきいた。パン屋に行って自分でパンをトレイに入れて買うのがとても楽しかったとのこと。匂いも良いしどれもこれも美味しそうで、喜んでホテルに帰ってかぶりついたら、中にアンコが入っていて吐き出したそうだ。「やっぱりアンコは食べられないんだな」と思ったら、ちょっと事情が違うようだ。彼が言うには、チョコレートだと思って食べたのがアンコだったからまずかったのであり、最初からアンコだと知っていれば食べられるという。奥さんも問題ないそうだ。もしかすると、アメリカ人がアンコがダメだというのは、こういう「不意打ち」に限った話なのであり、イチゴジャムの瓶に入っていた筋子をイチゴジャムだと思ってパンに塗って食ったのと同じ種類の不快さというだけのことなのかもしれない。

ジョンの奥さんが新聞を持ってきて「ここに書いてあることは本当なのか」と聞いてきた。そこには、日本の母親は弁当でさまざまなデコレーションをして人の顔を描いたりすると書いてあった。私は「ある程度はそういう傾向はあるが、こんな写真は普通ではない」と答えた。そして、タイミングのよいことに、ちょうど昨日、私の弁当を写真に収めていたので、それを見せてやった。

私は毎日妻に弁当を作ってもらっており、それを食べながら昼休みにこのブログを書いているのだが、昨日の弁当はなんと、パンケーキが数枚だけであった。何もはさんでいないし他におかずもない。写真の通りなのだ。アメリカ人の弁当が非常に簡素なのをいいことに、妻はアメリカに来てから弁当をここぞとばかりに簡素にしだした。その簡素さぶりに、これまでも度々驚かされたことはあったが、さすがに昨日のは新記録である。これ以上の簡素化はちょっと思いつかないのだが、これより上が今後あるのだろうか。楽しみなような怖いような。

レーティングを日本に入れよう

今月発売の卓球王国でも書いたが、アメリカ卓球界には選手の強さを数値で表すレーティングというものがある。カナダやオーストラリアなど、他にも導入しているところはあるのだが、日本では誰がやるのかということを含めて、導入は難しいと考えられていた。

ところがスティガのサイトhttp://www.ratingscentral.com/で、世界中の誰でも勝手に選手と試合結果を登録するとレーティングが計算されるサイトがあるのだ。実際、すでに彼らは手に入る試合結果を片っ端から入力しており、すでに世界中の一流選手に勝手に独自のレーティングをつけてしまっているのだ。システムを作ったデビッド・マーカスに「これはITTFや選手は知っているのか」と聞くと、「彼らは我々の存在さえ知らないだろう」とのことだ。ヒマなひとがこれにどんどん日本中の試合結果を入力していけば、理論的には世界基準と統一のとれたレーティングが日本全国の選手に与えられることになる。なんだかネズミ講のようだが、選手としての大成は期待できないが卓球への情熱があってヒマで英語のできる大学生あたりにぜひともトライしてほしい。

誰でも入力できるというのは実はウソで、まず事務局と連絡をとってその資格を得ることが必要だ(それを含めてサイトに説明が書いてある)。じゃないと、中にはいたずらでデタラメを入れる人だっているかもしれないからだ。さらに、もしレーティングがない人だけの試合の結果を入れる場合には、どれくらいのレベルがどれくらいのレーティングなのかおおよその見当をつけて入れる必要があるので、その眼力が必要である。若干ずれていたとしても、それはその後の試合の入力でどんどん修正されていくので最後にはかなり正確なレーティングになるはずだ。

このサイトには丁寧にも見本としてレーティング別に選手のプレーの動画がアップされている。その動画を見て、選手のレベルの違いが皆目検討がつかないような人は、入力はあきらめたほうが良い。レーティングが1500ぐらいの人たちが一見派手なプレーをしているのを見て「こりゃあ、馬琳ともいい勝負かもな」なんて考えていきなり3000とか入れられても困るのだ。

インターネットなくしては絶対に不可能な素晴らしい試みだ。レーティングができれば楽しい。知らない人と卓球の話をするとき「あなたのレーティングは?」という挨拶から話が始まるだろう。素晴らしい。

映画館での卓球デモ

ドーサンから車で2時間半のペンサコーラという町に、卓球好きのLAジョンストンという人がいる。彼のクラブに練習しに行ったこともあるし(帰りにスピード違反で捕まった)、彼が主催する大会にも出たことがあるので、親しくしている。

先日、彼から宛先多数でメールが来た。それは公開中の卓球コメディ映画『Balls of Fury』(9/6参照)に合わせて、映画館で彼のクラブが卓球のデモンストレーションをして大盛況だったとの報告だった。映画館からも感謝されて好きな映画を見られるチケットをもらったし、地元の人にも卓球クラブがあることを知ってもらってよかったと書いてある。

それで、下の3枚の写真が添付されてきたのだが、困ったことに(笑)、全然盛況に見えないのだ。写真を見れば見るほどいたたまれない気持ちになってくる(だいたい映画館自体に人がいない)。昔、私が卓球雑誌にいろいろと送りつけたりしているのを見て妻が「いたたまれない」と言っていたが、こういう気持ちだったのだろうか。
しかし彼らは全然気にしないでこんなメールを送ってくるのだ。卓球の大会でも、少ない人数しか集らなくても、めげずにどんどん次の大会を企画する。本当に楽観的なのだ。

「皆さんのクラブでも卓球クラブがあることを市民に知らせるためにやったらどうでしょう」とも書いてあったが、なにしろこっちはウォレンとチャックだからなあ(笑)。ウォレンはともかく、チャックなんか素人に回転をかけてイジワルをしたりしかねない奴なのだ(実際にクラブで弱い人にはそういうことをするのだ)。

メールはウォレンとチャックにも配信されていたのだが、案の定、彼らの反応はなかった。

ビートルズ9

今回はアメリカ盤『アーリー・ビートルズ』である。曲はイギリス盤の既存曲の寄せ集めで、ジャケットは『ビートルズ・フォー・セール』の裏ジャケットをそのまま流用しているというお手軽さだ。

どうしてこれを真似したかというと、バックの黄色の落ち葉の色が、家の馬屋(現代は馬がいないのだが、わたしの実家あたりでは昔のなごりで今でもこう呼んでいる)に、牛の食料として蓄えられたワラの束で再現できそうなことに気がついたからだ。

かくして、黒っぽい服を用意して、高校の卓球部のメンバーだけで撮影をしたのだった。これは大学1年か2年に帰省したときのものだ。なんだかまともすぎて可笑しい要素が何もない。こんな写真を撮ってどうしようというのか。あらゆる意味で救いようのない写真である。何かをしようという意欲はあるのだが、空回りばかりして本当に空虚な時期だった。

その頃、祖母に「何をやっても面白くない」と不満を漏らしたところ「バカいうんじゃない。20歳なんて一番楽しいときじゃないか。60まであっという間だぞ」と言われたことを覚えている。

それから20年。その祖母も昨年死んだ。たしかに40歳まであっという間だった。一般的には20代は楽しいものなのだろうが、こんな写真を撮ることしかやることがなかった20歳の頃には戻りたくない。今のほうがずっと面白い。
車マニアの大宮からメールが来た。「洗車場は6時からしか開いてないので5時からではなくて6時からです」だそうだ。同じようなもんだろ。

車マニア

私もかなりの卓球マニアだと思うが、車のマニアには敵わないと思う。元の職場の後輩に大宮と言う奴がいるのだが、これがすごいのだ。

休日になると、朝5時から洗車場に行って車を磨くのが楽しみなのだという。週に何回どころではない。とにかく車を洗えるときは洗うのだそうだ。その洗車場には同じような車マニアが集っており、埃ひとつないような車を持ってきて、さらにそれを磨いて輝きを競い合っているらしい。「自分なんて全然ですよ」と大宮は謙遜する(謙遜になってないような・・)。彼らは自動の洗車機など細かい傷がつくので絶対に使わないそうである。何種類もの洗剤やスポンジを使ってすべて手磨きをするのだという。2年に1回の車検の時しか車を洗わない私からすれば信じられない話だ(しかも洗ってもらうわけだが)。

なんでも宮城県のどこかに、車磨きのプロがいて、その人のところに日本中、いや世界中から客が来るのだという。その人は、塗装の厚み以内の精度で塗装を削ることで、傷の修復や光沢を取り戻す技術がある達人なのだそうだ。当然、失敗は絶対に許されない作業だ。とても高額なのだが、何ヶ月先まで予約が詰まっているという。大宮は、そこに行ってその人の話を聞いて感動して帰ってきたそうだ。いや、なんとも・・。

大宮はそれだけ凝っているせいか、あるときアパートの駐車場から夜中に車を盗まれたという。普通、そんな目に会う奴などいないわけだが、大宮の車の価値がわかる同好の奴が盗んだのだろう。怖ろしい世界だ。
何年かしていつものように車屋をまわっていた大宮は、盗まれた車のホイールが売られているのを見つけた。どうして自分のホイールだとわかったかというと、そのホイールには彼が自分で傷を修復した跡があって、その形を覚えていたからなのだ。それどころか写真まで撮っていたので、警察を呼んでそれを示し、そのホイールを返してもらったという。それをきっかけにして犯人もつかまったそうだが、盗んだ相手が悪かったとしか言いようがない。

今回、この話をブログに載せるので写真を送るよう頼んだら、「車全体は恥ずかしいので部分写真を送ります」とのことだ。顔写真じゃあるまいし、車の写真が恥ずかしいとは驚くべき感覚である。車をすっかり人間扱いしてるのだ。

一度、今の車を売ろうとしたらしいのだが、廃車にすると聞かされ、「そんな奴に売ることはできない」と、売ることを止めたそうだ。ずっと家に飾っておく気らしい。ちなみに、奥さんは特に車に興味のないノーマルな人なのだが、大宮のような夫といっしょに普通に車に乗っていられるのかどうかが心配である。

幽霊の話

幽霊が怖いと言う人がいるが、私は幽霊がいてくれたらどんなにいいだろうかと思う。普通、人が一番いやなのは死ぬことだ。だから世界中の宗教が死後の世界、霊魂というものを前提としている。自分というものが無くなるなど考えたくもない怖ろしいことだからだ。

もし幽霊というものが実在するのなら、霊魂の存在が確定することになる。つまり自分が死んでも魂が残るということだ。これは嬉しい。自分がなくならないのなら、たとえ幽霊にたたられて、最悪、死んだとしても、自分もまた幽霊になって好きなように人生(霊生?)を謳歌すればいいのだからどうってことないではないか。

そう考えると、幽霊が怖いどころか、愛しささえ感じてくる。もし幽霊に出くわしたら「よくぞ来てくれました」と諸手を上げて出迎えるだろう。幽霊だってもとは人間、話せばわかるはずだ。英語も要らないのでアメリカ人よりよっぽど楽である。霊界が未知の世界だと言っても、もとはみんな人間なのだから、卓球部を卒業したOBみたいなもんだろう。ときどき頼まれもしないのにしつこく部活に来て説教をしたり、これ見よがしにスーツにネクタイを締めて社会人風をふかしに来たりする鼻持ちならないOBと同じことだ。そんなやつらを怖がるヒマがあったら練習しろってことだ。

完全に話がそれた。言いたいことは、「幽霊」よりも「幽霊がいないこと」の方がよっぽど怖ろしいということだ。

赴任直前に学生時代の友人および後輩と久しぶりに飲んだ。そこでこの話をしたのだがその後輩は「僕、死ぬのは全然いやじゃないですよ。むしろ生きるのがつらくて仕方がないですよ。」と言う。彼は人を悲しませず迷惑もかけずに楽に死ねるならいつでも死にたいと言う。一流企業に勤めて奥さんももらい、最近家を建て、そんなにハードに働いているわけでもないのにだ。こういう本能が欠けたような特殊な奴と話してもさっぱり話が噛み合わない。さらにもう一人の友人は宗教にどっぷりと浸かっていて、「条太、進化論は間違っているって知ってるか」と主張し始め、私の送別飲み会はいよいよわけのわからない議論で白熱していったのであった。