年別アーカイブ: 2010

ピータースのラバーコレクション

以前ピータースの家に行ったときに撮影してアップし忘れていた写真があった。

壁やら天井にラバーのパッケージが貼られているのだが、それがなかなか壮観で、卓球好きは見ているだけで楽しくなってくると思うので載せておく。

キャンプと星空、そして死後の世界

夜はスタンの家の裏庭で焚き火をした。

スタンに誘われて腰掛台に寝そべって夜空を眺めた。田舎なので町の明かりがほとんどなく、異様に綺麗に星が見える。

スタンは「この宇宙に人間だけしかいないとは考えられない」などと語った。そのうち話は創造主の話になり、人間が死んだらどうなるかという話になった。
スタンは強烈に熱心なクリスチャンで、いつも隙を見ては神様のありがたさを我々に説こうとするのだ。妻である郁美さんもその話だけはシャットアウトで全然興味がないらしいのだが、スタンは別に不機嫌にもならず、淡々と自説を述べる。

私の考えは、人間の心は複雑なコンピューターと同じで単なる電気回路であり、魂などなく死後の世界もないというものだ。人間にとって精神活動があまりに重要なため、あたかもそれが宇宙の普遍的な存在のような気がする錯覚なのだ。この世に魂が存在すると思うのは、動物や鉱物にも言葉が通じると思うようなものだ。現実は、動物どころか外国人にさえ通じないというのに。

翌日も夕方まで卓球をして、別れを惜しんだ。

スタンの練習メニューメモ

指導書の最後の方に、なにやら異様な書き込みのメモがはさまっていた。

スタンが考えた練習メニューだという。誰のためということもなく、メモして見ただけだということだが、それが150パターンもあるのだから常軌を逸している。

そんなに卓球が好きなのか。

卓球熱心なスタン

アメリカではとにかく卓球人口が少ないので、その中で卓球をし続けている人というのは、並の卓球好きではない。並の卓球好きでは、練習相手がいないのでとても続かないのだ。

スタンは休憩中も卓球理論について大河さんと熱い議論を交わしていた。

今住んでいるフロララは、卓球をする人がスタン以外には一人もいないので、もっと卓球人口の多いデカーターというところに引っ越すと言っていた。仕事を引退しているとはいえ、卓球をするために引っ越すというのは日本ではちょっと考えられない話だ。

大河さんとスタンの家で卓球合宿

先週末、スタン・郁美さん夫妻の家に卓球をしに行ってきた。

3月頃に、これで最後になるだろうと思いながら家族で行ったのだが、結局、その後3回も行くことになったが、さすがに来週帰国なので、これが本当の最後である。

今回は、アトランタ在住の大河さんという方も合流をして一緒に泊めていただき、なかなかハードな卓球合宿となった。大河さんも日本から単身赴任している人で、もう1年半ぐらいアトランタに住んでいるのだが、お会いするのは今回が初めてだ。
ペンサコーラというところでの試合会場でスタン・郁美さんと知り合い、そこから私に紹介されたのだが、なんと話してみると大学が私と同学年で、しかも東北大と毎年定期戦をやっていた東大卓球部のOBであることがわかり、驚いた。しかし私は大学では3年から卓球部に入ったのに対して、大河さんは3年から引退気味であり、ちょうど入れ違いであった。唯一、3年のときの九州大学での試合に二人とも参加していたことがわかったが、どちらも有名選手ではなかったため、お互いに見覚えがないという悲しい話である(二人とも顔もかなり変貌していると思われる)。
レベルの低い国公立大学の、さらに無名選手なのだから「どこに出しても恥ずかしくない無名選手」であることがお分かりいただけることと思う。

大河さん、お会いしているときは気づかなかったが、写真を見ると中国男子監督の劉国梁に似ていると思うのは私だけだろうか。

気持ち悪くなった

「コクのたれ」は、結局、ご飯にかけることはしなかった。

「異常に美味い」とブログに書いた後、口の中で舌に残った油分が徐々に生臭い味に変わってきて、しまいにはとても気持ち悪い状態になってしまったのだ。一度冷蔵庫にしまった「コクのたれ」だったが、まるで憎むかのようにゴミ袋に投げ捨てた。

コクのたれ

今日の夕飯はカップラーメン『一平ちゃん』を食べた。

ここいらではラーメン店などないので、ときどき日本食材屋で買うカップラーメンがとても貴重なのだ(ただし2ドル以上の高価である)。

今日はそれにたっぷりの海苔を入れ、さらに生のニンニクを刻んで入れて食べたのだが、意外にもあまり美味しくない。体調が悪いために味がよくわからないためなのか、あるいはカップラーメンに対する期待が強すぎたのだろうかと思いながら、最後の汁を飲み干した。

カップを捨てに台所に行くとカップラーメンを開けたあたりに「コクのたれ」があった。入れ忘れたのだ。過去にも2回ぐらいやったことがあるが、なんとも悔しい。今さらこれだけ飲むわけにも行かないし、他にカップラーメンもないし、そもそも不本意ながら満腹である。あんまり悔しいのでちょっとだけ開けてなめてみると脂っこくて異常に美味いので、明日の朝食でご飯にかけることにした。

ああ悔しい。

「俺たちは変わってるよな!」

日本人は自分を変わってると思いたがらないと書いたが、一方で、その反対のこともよく経験する。

クラスやクラブ、あるいは会社の同期など、なんでもいいがそういうある集団で、自分たちがいかに変わった特別な面々であるかを内輪で得意になって話すのをよく聞くのだ。最初に私がそれを感じたのは、小学校のときのクラスだ。先生が「このクラスはユニークだ」などとと言うと私はもともとそういうのが嬉しい性質だから喜ぶのは当然にしても、他の人たちもそれが嬉しいらしく、自らそういうことを言うようになったのだ。これは中学のクラスも同じ、高校、大学、社会人になっても同じだった。「うちには変わり者が多い」と。自分は普通だけど他のメンバーが変わってるんだ」「一番変わってるのがお前だろ」とお互いに言い合う儀式のようなやりとりまでそっくりである。私は普段から変わり者であることにこだわっているので、こういう茶番劇のような視野が狭いエセ変わり者発言を聞くと、なんとも恥ずかしいようないたたまれない気持ちになる。なぜなら、こういうことを内輪で言い合う姿こそが、いやになるくらいに平凡そのものだからだ。

こうしてみると、日本人も結構変わり者願望があるのではないだろうか。ただそれが、先に書いた「他人の目を気にする」のとどう両立しているのかがよくわからない。何かの本で読んだが、ある日本人が外国人に日本人の独特な点を聞いたところ「そうやって自分たちの特別なところを外国人に聞きたがるところが特徴だ」と言われたそうだ。そういえばそんな気もする。変わり者に見られたくないのに、少しだけ変わり者に見られたいのだ。ううむ。よくわからん。

どこかに「俺たちは本当に普通だよな。これぐらい普通のやつしかいない集団ってのも珍しいよな」「ああそうだ普通だ」などと、ひねくれたことを言う頼もしい奴らが出てこないものだろうか。

悪口

先に、面と向かって「変わってる」と言われるので多分悪口ではないんだろうと書いたが、悪口というものについては、面白い考察がある。

他人の悪口というものはよく言うものだが、男と女ではひとつ明確な違いがある。それは、誰かが他人の悪口を言ったのを聞いたときに、それを悪口を言われた本人に伝えるかどうかだ。そういうことをする男は、今までの人生でたった一人しか見たことがない。まず、悪口を言う人は本人に伝えられる前提では話していないので、伝えたりしたら悪口を言った人に対する裏切り行為になるので、その人からの信頼を失う。また、伝えられた人にしてみても、悪口を言った人よりもむしろそれを伝えた人の道義心のなさにあきれ果てることだろう。こう考えると、本人に伝えるメリットなどどこにもないし、あり得ないことのように思える。これが私の感覚だし、多くの男性はそうだろう。

ところが、妻と結婚してしばらくして知ったのは、女性同士の間では、恐ろしいことにこれが当たり前のように行われているというのだ。どういうつもりで伝えるのか聞くと「あの人はあなたのことをこう言っていた。あの人には気をつけたほうがいい。私はあなたの味方だから教えてやっているんだ」というニュアンスらしい(もし男がこんなことを言われたら、気をつけなくてはならないのは目の前のその人だと誰でも思うだろう)。またあるときは、そういう建前のもとに実は本当は自分も悪口を言った人と同じ考えで、その人をいじめる意図の場合もあるという。また、悪口を言った人も、本人に伝わることをある程度想定してイジワルで言っているという。まあ、自分も伝えることがあるんだから当然だわな。しかも一見仲のよさそうな人同士もお互いに影で悪口を言い合うので、いったい、誰と誰が本当の見方で敵なのか入り乱れていてまったくわけがわからないのだそうだ。

これほどまでに男と女は違うものかと愕然としたものだった。

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