月別アーカイブ: 3月 2011

復興の音

昨日は、あまりに頭がかゆいので、仙台駅前で見つけた個室ビデオ鑑賞店でシャワーを浴びた。仙台都市ガスはまだ復旧していないのだが、ところどころプロパンガスのために湯が出るところがあるのだ。個室ビデオ鑑賞店は初めて利用したが、インターネットカフェと同じようなもので、60分で1500円、DVDは6枚まで借り放題だった。シャワーはひとつしかなくて順番待ちだったので1時間半後を予約し、そのため、12時間2500円のコースを利用するしかなかった。これなら宿泊にも使えるので便利だ。これからも利用したい。それにしても、60分でどうやってDVDを6本も見るというのだろう(と、とぼけてみる)。

一昨日は開いていなかった、レストランやコンビニも開き始め、街は急速に日常を取り戻しつつある。相変わらずおにぎり売りが近づいてい来ると思ったら、どうも私の外見がいかにも腹を空かしているように見えるようだ。単に会社に行っていないのでヒゲを剃っていないだけなのだが。

「腹、空いてないぞー」と、この場でうったえておく。

被災レポート

一昨日、今野編集長からメールが来て、来月発売の卓球王国は災害への応援特集にするとのことで、私は通常の連載とは別に被災者としてレポートも書くことになった。

テレビや新聞では伝わらない私らしい内容をとのことだ。シリアスすぎるのは得意ではないしかといってユーモアを書けるはずもない。このブログのように淡々と書くしかないだろう。

メールをもらったあと電話で今野さんとゆっくり話したが、東京の方では仙台全体がテレビのニュースのように車がひっくりかえっていると思っているそうだ。外国となるともっと極端で、もう日本中で家屋が倒壊して死の灰が降っていると思われているそうで、今野さんには日本脱出のオファーが何人もから来たと言う。今野さんの家族分の飛行機のチケットを確保したという人さえいたらしい(そのわりに1枚足りなかったそうだが)。

昨日、仙台の街中に行って見たが、水と電気はすでに通っていて、開いている本屋はあるしタクシーも走っていた。街頭でおにぎりなどを売っている人たちがいたが、誰も見向きもしないで歩いていて、牛タン弁当とかおいしそうなものにだけは行列ができていた。この後におよんでグルメなのであり、街中では誰も飢えている様子はない。声を枯らして売れないおにぎりを売っている人たちの方がむしろ哀れな感じがした。

買う必要のない人が買う必要のない量を買っているために店に物がなくなっているのは、東京も仙台も同じだ。義姉の情報によると、呆れたことに広島でも無用な買い占めが起こっているという。事態が収まれば今度は家庭にも店にも在庫が大量に膨れて廃棄処分にせざるを得ないものが出てくるだろう。まったくバカバカしい。

「避難所に笑顔が戻った」か

震災からちょうど一週間。テレビでは「避難所には子供たちの笑顔が戻りつつあります」とやっていた。

他のところは知らないが、私の妻子が地震のあった日に一夜を明かした小学校に限ってはウソである。子供たちは初日から修学旅行気分の大騒ぎで大笑いをしている。他の場所で大勢が亡くなったこと、自分たちの先行きへの不安、こういったものを想像する力のない大多数の子供たちは不謹慎にも最初っから笑い、親に怒られていたのだ。

地震から一夜空けると朝の6時から体育館でバスケットボールをし、「おばあちゃんのところに行く」と言われた女の子は自分だけ遊べなくなるのが嫌で泣き、テレビカメラが来ると面白がってカメラの前に飛び出し、編集でカットされる。

テレビ局は、自分たちが語りやすいストーリーを作って放送しているのだ。今回に限っては、それが視聴者の同情を呼び、寄付や節電をしてくれることにつながるからいいのだが。

自然とテクノロジー

今回の災害について、必ずどこかのバカが「天罰だ」とか「人間のおごりに対する自然の戒めだ」とか言い始めるだろう。

理不尽な災厄に対して、どうにかして説明をつけて安心したいのだ。しかし世の中には説明のつかないこともある。これはただの自然現象であり、何者かの意思もなければ何かの報復でもない。地球は誕生以来、地層が90度も傾くような地殻変動を何度も経験してきたのだ。

人間がこれらに立ち向かうためにはテクノロジーしかない。科学しか有効なものはない。

神様や聖書を持ち出して納得したところでクソの役にも立ちはしない。そういう行為は亡くなった人たちに対する最大の冒涜である。私はそういう発言だけは絶対に許さない。まだ誰もそんなこと言ってないけど(石原知事は撤回したし)。

自宅の様子

地震から3日め、海岸近くにある自宅に行って見ると、郵便受けにニッタクニュースが届いていた。郵便配達がもうちゃんと機能していることに感動する。

水は駐車場のスロープの途中で止まっていたことが泥の位置で分かった。

同じ住宅地でほんの300mほど離れた家では1階の床に浸水していて、住宅地を出た道路の反対側(海側)では家ごと流されていたことを考えると、まったくただ運が良かっただけである。まったく偶然に我が家は水浸しにならずに済んだのだ。

仙台中心部に住んでいて被害のなかった田村とは連絡がしばらく取れなかったので、彼はわが家の位置からして私の家族5人のうち少なくとも1人は死んだと思ったという。私もそう思われているだろうと思っていたので、一刻も早く自転車で彼の家に自分の無事を知らせに行きたかったのだが、危険だから勝手な動きは止めてくれと妻に止められた。田村は田村で、自転車で私の家に行こうとしてやはり奥さんに止められていたという。「俺が死んだら全部お前にやる」と私が常々言っていた卓球の蔵書が気になったんだと憎まれ口をたたいた。

復興

黙々と復興に携わっているプロの方々には本当に頭が下がる。
彼らだって被災者なのに、地震の翌日、私たちが会社から脱出して歩いていると、地震からまだ24時間も経っていないのに、すでに重機を使って道路の泥を取り除き、壊れた自動車などを運ぶ作業がどんどん行われていた。

そういえば、まだ危険だとして我々が会社から脱出命令が出る前、数人の工事業者たちが我々が取り残されているビルの周りの深い水をかき分けて自分たちの仕事用のバンのところに行き、窓を割って工具を取り出して持ち帰っていた。

誰も彼もが余震の恐怖を振り払うようにして、あるいはそれを感じるヒマもなく、復興に向けて自分の役割をこなしているのに感動するとともに、ただそれを待っているだけの無力な自分が情けない。

民族の品格

テレビでは津波の惨状しか放送しないので、遠くにいる人はあたかも仙台全体があのような状況だと思っているようで、いろいろと心配をしていただいた。

実際には、地震自体による倒壊などの被害はほとんどなく(そういう家は一軒も見ていない)、津波の被害に合った沿岸以外の人たちは、ガスと水道が止まっている以外は自宅で不自由なく生活をしている。水とガスがないのは不自由だが、亡くなった方々や何もかも失って避難所で寒い思いをしている方々に比べたら何でもないことだ。風呂も入っていないが、ホームレスの人たちや探検隊など何ヶ月も入らないのだから騒ぐほどのことではない。これは前から思っていたのだが、思い込んだように毎日風呂に入るなんてのは単なる趣味のようなもので、なければないで何でもないのだ。

地震から3日めの夜までは電気が止まっていて携帯電話を充電できなかったのだが、近所のある家の人がソーラーの電気を道行く人に分けてくれていて、充電をさせてもらった。「ご自由にお使いください」と貼り紙がしてあり、イスまで置いてあった。

我々日本人は、こういう助け合うことが自然にできる民族なのだなと思った。

ヤフーのニュースで、災害時にも秩序だって冷静に行動している日本人に対して驚きの声が上がっているという。こういう日本人の民族性は、良し悪しではなくて単なる価値観の違いだと相対的に考えていたのだが、他国の人たち、中でも普段日本バッシングが激しい中国人や韓国人までもがちゃんとこれを「学ばなくてはならない」と感嘆の念を隠さないことにむしろ感動した。

なかでも
「英紙インディペンデントは13日付1面全体を日章旗を象徴する白と赤で満たし、英語と日本語で「がんばれ日本、がんばれ東北」と激励のメッセージを入れた。」
という一文に涙が滲んだ。

もうひとつ日本人自慢をさせてもらえば、どの海外メディアも見落としていることだが、我々のこの尊厳ある行動は、なんら宗教的なバックグラウンドに基づいていないことだ。神の法や死後の裁きの恐怖からの行動ではなく、狂信でもなく、あくまで人間が本来持っている良心と知性に基づいてこれだけの秩序を保っているのだ。

以前、アメリカ南部の敬虔なクリスチャンとどうして神が必要なのかを議論したことがある。ジョージア工科大学を卒業して知性あるその彼は「神がいなかったら、目の前で死にそうにしている人がいても助ける理由がない」と言った。私は「我々日本人は知性と良心だけによって助ける。人間に神は要らない。」と言って彼を怒らせたものだった。

また、息子たちの学校の女性教師は「地球温暖化も災害もすべて神の教えを守っていない人間への罰」と語っていた。今回の災害でもお悔やみをもらったが、心の底では「日本人はイエス様を信じていないからだ」と思っているに違いない。そのバカさ加減が悔しい。

被災4

王国編集部には初日の夜から電話を掛け続けていたのだがつながらず、心配をかけた。海から2kmしかない私の住所から考えて、かなり心配をされていると思っていた。

地震から3日め、公衆電話に1時間並んでやっと編集部に電話をし「私の追悼号は不要です」と無事を知らせた。

公衆電話の列に並んでいるときに見ていると、電話をしながら泣き崩れる人が何人かいた。次が私の番というときに、電話をしている人が話し終わって別のところにかけようとしたら後の方に並んでいたオバさんが「ひとり1件までですよ!」と怒鳴った。私は「そんなことありませんよ。複数のところに掛けたい人だっているんですから、手短かにすればいいじゃないですか」と言い、何人かがそれにうなづいたが「他にかけたいんだったらもう1回並んだらいいんですよ」とゆずらない。自分が1ヶ所しかかけたいところがないものだから、他人にはもう1回、1時間並んで掛けろと言うのだ。「みんな待ってるんですからね」とさもそれが公平なように言う。自分が早くかけたいだけなのだ。

無視して私は2ヶ所にかけた(本当は4ヶ所にかけるつもりだったが気まずくなってやめた)。

近所の八百屋でも、普段から自分勝手で有名だというおばさんがレジに横入りしようとして店員に拒否されていた。外国ならこういう人が多いのだろうが、日本ではごく少数だ。

被災3

翌朝、脱出方法について紆余曲折を経た後、昼頃、水の中を徒歩で脱出する方針となり、無事に水のないところにたどり着いた。

会社の前の道路は信じられないような光景で、製油所はまだ燃えていた。

3kmほど歩くと、自宅に水の来ていない同僚の家につき、彼の車で妻の実家に送ってもらい、すでにそこに避難していた妻子と会った。義母が泣いた。

被災2

夕方、近くの製油所が爆発音を立てながら燃え出した。信じられない光景で恐怖に身がすくんだ。爆発音は一晩中断続的に続いた。

他にも町の3ヶ所から火の手が上がり、逃げ出したいが逃げ出せない状況になった。そもそも、逃げるところがあるのかどうかも分からない。

ともかく、地震と津波に関しては比較的新しく大きな今いるビルより安全なところはないと自分に言い聞かせ、机の下に入って一夜を過ごした。途中、どこかから煎餅が支給されて数枚食べたが、緊張で食欲はなく、万が一のときの体力維持のために喉を通した。

このときキャラメルを2個確保し、何日か後にここを脱出して、15kmほどある妻の実家に歩いて向かうときのエネルギー源として取っておこうと決めた(結局その前に食べたが)。

Page 3 of 41234