渋谷五郎氏の貴重な話にときおり割って入って「私の思っていた通りです」と微妙に違う持論をぶちかましていたのが私の恩師である柏山徹郎氏である。
最近では腰を悪くしたとかで杖をついて歩いていて、さらに芝居がかったようなコートまで着ているので、異様な雰囲気であった。クリスチャンが見たら悪魔か何かのように見えるのではないだろうか。
ともかく、卓球狂としての迫力に満ちており、渋谷氏とは別の実績のはっきりしないカリスマ性を発揮していた。
夜の懇親会では、東京卓球連盟の代表でこられた渋谷五郎氏を囲んでの卓球談義に花が咲いた。渋谷五郎氏は1959年の全日本チャンピオンで、同じく1999年全日本チャンピオンの渋谷浩氏のお父さんである。日本の卓球史において攻撃を重視したカットマンの草分け的存在である。
渋谷氏を囲んだのは、岩手県卓球協会会長の小野豊氏、奥州市卓球協会会長の柏山徹郎氏、同副会長の宍戸時雄氏、岩手県ホープス委員長の村上孝氏である。柏山さんと村上さんは私の高校の先輩であり卓球の恩師である関係で、このような会に入れてもらったというわけである。
渋谷氏の話は、いろいろと奥が深く面白かった。私が知らなかったのは、中国のカットマンは昔は重心が低かったということだ。それが1961年の北京大会で渋谷氏が重心の高いプレーをして以来、それを参考にして中国のカットマンの重心が高くなったのだという。
北京大会では床が滑ったというのが有名だが、その点について聞いてみると、特に被害を受けたのはヨーロッパの選手たちで、遠くからストップを取りに前進してきて止まることができずに、台の下をくぐってそのまま相手の足元まで滑っていく光景がたびたび見られたという。
荻村伊智朗がたびたび語る伝説の名勝負、李富栄との一戦についても聞いてみた。最初、李富栄はバンバン滅茶苦茶にスマッシュをしてきたという。「これじゃこっちももたないけど向こうももたないだろ」と思っていると、案の定、途中からドライブを掛け始めたという。それで2-0とリードをして勝てるかなと思っていると、ツッツキ戦法に転じ、結局は2-3と逆転負けを喫したという。「ドライブ、スマッシュ、ツッツキの3段構えの作戦だった」と、この名勝負を本人の口から聞くことができる光栄に浴した。
現在の選手のプレーに対する苦言もあった。フォアハンドドライブが逆足で打つことが問題だという。これ以上フォアに来ない状況でなら問題ないが、台の中央あたりでも逆足を使うことがあるので、次のボールを更にフォアにふられると動けないのだという。今の選手は、フォアクロス半面で練習をしているときでもフォアに大きく振られてノータッチになる場面があり、動けないことを示しているという。
また、腕に力が入っているので、インパクト直前にコースを変えるといったことが今の選手はできないという。
用具の話としては、スポンジラバーの話があった。とにかく速いし音はしないしで、1980年代中ごろに、日本代表クラスの選手にスポンジで打つとほとんど誰も反応できなかったそうだ。接触時間が短いためにボールが早く相手に届くことが大きな理由だという。当時はすでにスポンジラバーなど売っていないから、ソフトラバーのシートをはがしてスポンジだけ10センチくらいになるように重ねて貼って試したという。
ちなみに村上さんによると、何年か前まで、多球練習の球出し用ラバーとして、卓球用品メーカーから非売品としてスポンジラバーが配られていたという。ボールがものすごく飛ぶのでラケットを振る力が少なくて済むためとても楽なのだという。ぜひとも手に入れて田村にぶちかましてやりたいものだ。
「史上最強の選手は誰だと思いますか」という質問に対しては「やっぱり荘則棟は別格です」と答えた。ボールのスピードが今より速かったそうだ。
吉田戦車のトークショーの後は、高校の先輩と酒でも飲もうかと電話をしたら、ちょうどその日は、小中高生の岩手県選抜と東京選抜の合同練習会をやっているのだという。その先輩は、岩手県のホープス委員長をやっているので、その練習会のスタッフなのだ。それで私も合宿を見物に行って、夜はスタッフの懇親会に参加させてもらうことになった。
懇親会の前、東京選抜チームが宿泊しているホテルのロビーで時間を潰していると、ある母娘から声をかけられた。聞けば、卓球王国で私の記事を読んでいてファンだという(「ファンだ」とは言っていなかったが「いつも読んでいます」と言っていたのでファンに決定した)。
お母さんは私が以前書いた『きらめきの季節』という映画についての原稿が面白かったと言い、話が弾んだ。なにしろ、現役時代にこの映画を映画館で卓球部員全員で見たとか見せられたとかで、その原作の小説もマンガも読んだそうだ。とんだマニアもいたものである。
お母さんによると娘さんはあまり強くないらしいのだが、東京選抜で来ているのだから、きっとバカバカしいほど強いのに違いない。将来、彼女が一流選手になったら、有無を言わさぬ知り合い風をふかしてやろうと思う(そんな言い方があるかどうか知らんが)。
マンガ家の吉田戦車のトークショーに行ってきた。
新しく発売された子育て実録マンガ『まんが親』の販売促進活動の一環らしい。
http://www.city.oshu.iwate.jp/download.rbz?cmd=50&cd=2335&tg=6&inline=1
トークショーは私の実家の近くで行われたので、ついでに実家に寄りながらの参加となった。
吉田戦車は私と高校で同級生だったが、クラスが一緒になったことはなく、有名になってから卒業アルバムで見たことはあっただけで直接見るのは今回が初めてだ。
観客は見たところ300人ぐらいいて、先着50名のサイン会の整理券も、午前10時から配るのに7時から並んでいた人がいてあっという間に売切れてしまったという。
トークショーでは吉田氏が、アナウンサーが用意した質問に答える形で進み、最後に何人かの会場の参加者からの質問にも答え、約1時間だった。印象に残ったのは「一番尊敬するマンガ家は?」という質問に対して「多すぎて上げられないが、ダントツの存在として水木しげる」と答えたことだ。「あんな飄々としてのほほんとしたマンガが描きたい」と言っていた。水木先生のサイン入りの鬼太郎の色紙は家宝だそうだ。また「マンガを描くときに気をつけていることは?」という質問に対しては「納期を守ること、できればクオリティを落とさずに」と答えた。
「好きなキャラクターは?」という質問に対しては「しいたけ」と即答。カッコいいからだそうだ。
「生まれ変わったらもう一度マンガ家になりたいか?」という質問に対しては「なりたくない」というもので、その理由は「別のことをしたいから」。そもそもマンガ家になるような人は何事にも飽きやすいような人なのであり、誰でもそう答えるのではないかと語った。その他、高校のアニメ研究会の人たちからは、一日に何ページ描くかとか(アイディアからだと2、3ページとのこと)、道具は何を使っているかとかの質問があった。小学生からは「山崎先生は何物ですか」という質問があり「何でしょうか(笑)。あれは教師です」と答えていた。
小さい頃はマンガ家になりたかったが、高校のころはプロのマンガ家のマンガがあまりにも面白くてとても自分には描けないと思い、すっかり諦めていたとのこと。ところが大学を卒業できなそうになったとき、たまたま編集者をやっていた高校の同級生に「お前マンガ描けるんだからマンガ描いたら?」と言われ、そのコネでイラストを描いたのがデビューのきっかけだったという。「吉田戦車」というペンネームもその編集者がつけたので、彼には一生頭が上がらないという。また、小さい頃は石ノ森章太郎に憧れていて、もともとはストーリーマンガを描きたかったという。
あれだけ奇妙なマンガを描く割にはというか、だからこそと言うべきか、極めて常識的な人に見えた。
むしろ非常識な人は質問者の中に見つけられる。私は真っ先に手を上げて変わりばえのしない質問をしたのだが、次に質問をしたご老人がすごかった。
なにしろのっけから「吉田戦車さんのマンガは読んだことがないんですけれども、トークショーがあるというので昨夜読んで見ました」と言うのだから、なんともいえない嫌な予感がするではないか。その予感は的中した。なんとその方は、読んだ感想を述べ始めたのだ。言っておくが質問をしたくて手を上げた人は10人以上もいて、時間は限られているのだ(10分もなかったはずだ)。私だって本当はあと2つ聞きたいことがあったのに我慢をして一つで止めたのだ。ところがこのご老人は、質問をしないで感想を語り始めたのだ。
それは時間にすれば1、2分だったかもしれないが、私の体感時間は5分ぐらいであった。そしてやっと「そこで質問をしたかったのは・・」と始めたので、やっと質問をしてくれるのかと思ったら、なんと「その答えはさきほどアナウンサーの方の質問の中ですでにお答えになっているのでその質問をするのは止めます」と言ったのだ。がひょーっ!や、止める、質問を止めることを言いに手を上げたのか?と思ったら、最後にちゃんと別の質問をして着地をしたのだった。ほっ(もう遅いが)。ちなみにその質問は「マンガの内容は事前に奥さんの了解をもらっているのか」というもので「もらっている」というのがその答えだった。
その後、中学生と小学生が何人か質問をしたところで時間切れになってしまった。本当はあと2、3人は質問できたはずだったと見た。
多様なファン層をアピールするために老若男女に質問をしてもらいたくなるのは自然な心理だが、そこにはこういう地雷があることを主催者は注意しなくてはならないということを学んだ。実に、人生には無駄なことというのはないのだなあ(そう思うことで納得したい)。
1時間のトークショーの後は、サイン会で、整理券を買った50人が色紙にサインをしてもらっていた。サインの他にリクエストに応えて好きなキャラクターを描いていたのだが、その描き方はとても丁寧で、線を引く前に何度もペン先を空振りしてから少しづつ描いており、1枚描くのに2分ぐらいかけていた。そのため、サイン会に1時間半もとっていて、結構な労力であった。
「ジョン・レノンの31回目の命日」と書いて実は愕然とした。31年も経ったって、本当かと思う。なにしろその夜のことをついこの前のようにはっきりと覚えているからだ。
1980年だから高校2年のときだ。ジョンが死んだと報道された夜、自分の部屋で5cmぐらいの正体不明の金色の毛を見つけ、その端をつまんだらその毛が勝手に真っ直ぐに上に向かって立ったのだ。その極めて異様な立ち方に「ジョン・レノンが来てるのか?」と鳥肌が立ちながら思ったものだった。バカだ。岩手県の高校生の家に来るわけないのに。
その頃は、30年経つどころか自分が30歳になることすら想像できなかった。大学1年のときに肺の手術をしたり、友人が白血病で死んだこともあって、自分は25歳まで生きられるのだろうか、働いてお金をもらうようになって車に乗って好きなものを何でも変える楽しい時までに不慮の死を遂げたりしないだろうかなどと思っていたものだ。今よりもずっと死から遠い時期ではあるが、まだ楽しいことをしていないという思いのために死が怖かったのだ。
今ならまあ、もっと早い人もいるのだから仕方がないとある程度あきらめることが出来る。立花さんなど「特にやり残したこともないので今死んでもそれほど悔しくもない」と言っていた。私が言うのもおかしいが、立花さんは特に歴史に残る偉大な仕事をしたとか、死ぬほどの道楽に明け暮れたとかいうわけではなく、単に欲がない人なのだ。
そんなわけで、あれから31年も経ったというのだから呆れる。10年経ったときには「もう10年か」と思ったものだが、20年経ったときのことは思い出せもしない。
まあしかし、インターネットでこんなブログを書くなんてことは30年前には思いも着かなかったことを考えると、やはり時は確実に経ち、いろいろとそれなりに人生を楽しんでいるのだろう。31年経ったのだ。
ジョン・レノンを目の前で殺された妻のオノ・ヨーコは、当然半狂乱になったのだが、なんとか落ち着きを取り戻した後、二人の人間に電話でジョンの死を伝えたという。
ひとりはジョンの育ての親のミミ叔母さん、そしてもうひとりはポール・マッカートニーだったという。ファンにはたまらない話だ。ちなみに、ジョンが運び込まれた病室で、タンノイのスピーカーから流れていたのはビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』だったという。
立花さんは名前を「じゅんいち」といい、奥さんは「ゆうこ」という。それで、家の中では二人で「俺たち”ジョンとヨーコ”じゃなくて”ジュンとユーコ”だね」と言っていたという。これは門外不出の超A級の恥ずかしい話であり(同意)、他人に話したのは初めてだという。これもジョンの命日ゆえであろう。
出張帰りの新幹線で、立花氏と対談を行った。
この写真を見れば私があの知の巨人・立花隆と対談したのかと思うだろうが、そうではなくて、この人は単なる職場の同僚の立花さんなのだ。
以前、私は彼に「立花隆に似てますよね」と言ったのだが、あまり反応しなかったので、何度もしつこく言ったら急に遺憾の意を表明されたことがある。「伊藤さん、それどういうつもりで言ってるんですか。立花隆に似てるって言われてそんなに嬉しい人がいると思いますか。私をどういう気持ちにさせようと思ってそんなことをしつこく言うんですか」と言われたのだ。温厚な立花さんがどこまで言ったら怒るのか試したい気持ちも私にあったことは否定しない。まあ、そういう間柄である。
私は立花隆の本が大好きなのだが、立花さんも立花隆の本はかなり読み込んでいるらしい(ホラやっぱり・・)。
いつもは新幹線で酒を飲んだりはしないのだが、今日は特別な日だ。ジョン・レノンの31回目の命日なのだ。二人でジョン・レノンを弔いながら、ロックのウンチク合戦やら職場の噂話やらをしながら帰ってきたのであった。
ちなみに、この立花さんこそは、以前紹介した「クレバー・ハンス」その人である。
卓球選手のラケットの角度の再現性がどれくらいあるか実験をしてみた。
ラケットに鏡を貼り、それにレーザーポインターを当てて、目をつむって自分の思うラケット角度を何度か出すことを繰り返し、レーザーポインターの位置がどれくらいズレるかでラケットの角度のブレを測定したのだ。
結果、およそ10メートル離れたところに投影をするとだいたい1メートルぐらいのズレが起きたので、ラケットの角度のブレは3度弱であった。
これが卓球の実力とどう関係するかわからないが、ともかく面白そうだということが分かってもらえればよい。
実験の後はいつものように試合をしたが、田村が「白いシャツは見難いから脱いでくれ」と言うので裸で試合をした。まったくバリー・ヘイター並みの厳しさだ。世界選手権じゃあるまいし(裸じゃ失格だが)。
知人から面白いウエブサイトを教えてもらった。
故・ナンシー関が、一般人が書いた絵を批評するものだ。あまりの可笑しさに何度も吹き出した。ナンシー関の文章を読んだことはなかったが、こんなに面白いとは知らなかった。
http://www.bonken.co.jp/kioku.html
講演会の最後に質疑応答があったのだが、ある聴講者が非常に面白いことを言った。
「私はゲームが大嫌いです。なぜかというと時間の無駄だからです。調査結果を見てゲームが好きな中学生が多いことに大変驚きました。ゲームは脳を破壊するんですね。中学生のボキャブラリーの少なさは間違いなくゲームのせいです。日本の将来が心配です。」
というものだった。時間の無駄だからゲームが嫌いなのではなくて嫌いだから時間の無駄だと言うべきだろう。私もゲームは嫌いだが、だからといってこんなエセ科学を披露する気にはなれない。それに講演会での質問としてもまったく不適切である。質問にすらなってないし。脳が破壊されているのはこのオヤジだろう。ゲームしてないのに(笑)。
発表者が「貴重なご意見、ありがとうございました」とその場を収めたことは言うまでもない。