年別アーカイブ: 2011

名作

三谷幸喜の新作『ステキな金縛り』を見てきた。

映画の中の登場人物が好きな映画として、フランク・キャプラの名作『スミス都へ行く』のDVDが出てきた。私はたまたま最近このDVDを買ったばかりだったので「さすが三谷幸喜」と嬉しくなってしまった。

昔の映画の方が面白いとは少しも思わないが、歴史に残っている映画を見る方が面白い確率が高いのは確かだ。

伊丹十三が著書の中で、キューブリックの『バリー・リンドン』を評して「簡潔にして深く、しかも映画的冒険の塊である。こんな映画があるのに更に映画を作る必要があるのだろうかと思う」と書いている。

これらの映画のDVDが今や中古屋に行くとヘタすると200円ぐらいで売られている。見ない手はない。

高校の先生

息子達から家で毎日のように学校の先生についての笑い話を聞かされる。

先日は、全校集会で美術の先生が「津波はアートだ」と言って物議を醸したそうな。さすがに他の先生も黙っているわけにはいかず「先生、それはちょっと違いと思いますが・・」と止めに入ったそうだが、引かなかったという。当然のように父兄の間で問題になり、後日、謝罪スピーチを行う羽目になった。

また、音楽の先生は、合唱の時間に生徒が真面目に歌わないのにブチ切れてしまい、「もういい!」と言いながら用意したカセットテープの電源コードをものすごい勢いで巻き取ろうとして手が自分の顔に当たって眼鏡を吹っ飛ばしたという。なんとも気の毒なような可笑しいような、ご苦労さんな話である。

スポーツ狂のご婦人

毎週やっている町内の卓球クラブに、スポーツ狂のご婦人が小学生のお子さんを連れてやってくる。

先週、珍しく本人が来ず子供だけが来て「お母さんは今日はテレビでバレーボールを見るので忙しいので来れないそうです」と言った。意味は分かるが、テレビを見るので「忙しい」というところがなんとも可笑しかった。いったいどんなに「忙しく」テレビを見るのだろうか。こんなことを言って嫌味に取られるのも困るので、ひとしきり笑った後は、しつこくは言わなかった。無論、忙しいというのは言葉のあやで、ただ都合が悪いと言いたいだけであることは分かっている。分かっているけど、そういう言葉尻を捉えて笑うのが私は大好きなのだ。

クラブが終わる頃、ご婦人が子供を迎えにやってきた。バレーボールでは無事に日本が勝ったそうで上機嫌だった。話を聞いてみると、その人は日本が得点するたびにテレビの前でご主人とハイタッチをしていたという。面倒くさがるご主人に「これだけはやらせて」とお願いをしながらのハイタッチだったそうだ。してみると、この人は本当にテレビの前で忙しくしていたわけで、子供の説明そのままだったわけだ。

これはこれで可笑しく、あらためて笑い直したことは言うまでもない。

問題意識

高校生の息子たちが、英語検定の試験を受けてきた。

帰ってきてから言うには、面接で「最近はコンビニが台頭してきていて地域のスーパーマーケットが押されていることをどう思うか」と聞かれ、何も答えることができなかったという。

それを聞いた妻が「英語検定では英語力だけではなくて、そういう普段からの問題意識も問われるんだね」と言った。

すると息子「だって俺、そんなの問題だと思ったことねえし」と言ったのを聞いて吹き出してしまった。なんと身も蓋もない話。そうだよな、こいつらにそんなこと問題だと思えって方が無理だよな、と思うと可笑しくて仕方がなかった。

人間の時間測定能力

最近、仕事でストップウォッチを使って1分か2分ぐらいの測定を一日中している。あまりに単調でヒマなので、ストップウォッチを見ないで心の中で秒を数えて、ちょうど1分を当てられるかどうか試してみた。最初は5~10秒ほど長くかかっていたのだが、心持ちテンポを上げて数えたところ、10回ぐらいやるうちに2秒ぐらいしか誤差が出ないようにまでなった。最初はそんなことはとても無理だと思ったのだが、手で腿を叩きながら拍子をとると、感覚がつかめてくるのだ。

その部屋にはポンプがあって、機械音が微妙に1秒より短く、0.8秒くらいのテンポで「シュコッ、シュコッ」と鳴っている。その音を無視せず意識しながらでも、それに影響を受けずにちゃんと正確に60秒をカウントできるのだ。人間にはこんな能力があるのだなと我ながら感心した次第だ。

時間を測定することで思い出すのは、中学校のとき、何かの集会が体育館であり、「目をつむって1分経ったと思ったら手を上げなさい」という遊びだか研修だかがあったことだ。「これは面白そうだ」と思ったが、それには条件があってなんと「心の中で数えてはダメだ」というのだ。あくまで何も数えないでただ1分経ったと思ったら手を上げろという。「それのどこが面白いのか。どうしてそんな無意味な条件をつけるのだろう」と今でも納得がいかない。

この話とセットになって思い出すのが、トランプの神経衰弱について「次の人がめくる前にカードを全部シャッフルするのが正当だ。家ではみんなそうやっている」と言ってゆずらなかった友人のことだ。私は「なぜ神経衰弱と言うか知らないのか」と説明したが「シャッフルしないんならすぐに分かって面白くないだろ」と全然ゆずらないのであった。今もその友人と家族はそういう神経衰弱をやっているのだろう(1回終わるのにいったい何分かかるのだろうか)。

話がそれたが、そんなことを思い起こしながら何10回も60秒を数えたのだった。

この作業をしながら思ったことは、この1分、1秒は、まぎれもなく自分の人生の一部であり、今それを消費しているのだという実感だ。秒を刻むストップウォッチの表示を見ていると嫌でもそんなことを考えてしまう。これは良いことなのか悪いことなのかよく分からないが、考えすぎるとダメなことだけは確かだろう。あまり考えないようにしようと思う。

仮面サイダー

出張先でこんな自販機を見つけた。こんなのアリだろうか。

「出たな!ラムネ味!」だそうだ。出たもなにも誰に言ってるのか。

始動!レーティングシステム!

いよいよ、日本卓球協会のレーティングシステムが始動した!
http://jtta-rating.jp/

レーティング計算用の大会を新設するのではなく、既存の大会の試合結果を使ってレーティングを計算するシステムだ。

選手登録の人数が多いほど、レーティングを計算される可能性が高くなるので、みんな、レーティング選手登録をしよう!

アメリカの卓球界でレーティングの面白さを味わった私は、いつか日本卓球界にレーティングが導入される日が来ないかと夢見ていたのだ。今まさにその夢が叶った。これはもしかすると、明治35年に日本に卓球が導入されて以来、もっとも大きな改革になるかもしれない。うまくいけば、卓球がもっともっと面白くなって、卓球人口が飛躍的に増える可能性を秘めているのだ。

なお、ここまで書いておいてなんだが、私はレーティング選手登録はしない。なぜなら試合に出ないからだ。試合に出ない人がレーティング選手登録をしてもしょうがないのだ。レーティングはあくまで実力を表すものであり、名誉段位などとは違う。どこまでも現役選手のためのものなのだ。私はあくまで熱狂的な卓球ファンとして、レーティング選手登録を勧めているのだ。

というわけで、「試合に出る人」は、レーティング選手登録をしよう!

メンタリズム?

「徹子の部屋」で、ダイゴという人のマジック(手品)を見た。

演目よりも気になったのは、彼が黒柳徹子に「マジックなんですか?」と聞かれるたびに「いえ、違います。メンタリズムです」と答えていたことだ。

そのメンタリズムというのがよくわからないもので、科学的合理的に訓練すれば誰でも出来るようになるとか、そんなことを言っていた。慶応大学の現役の大学院生で、物理を学んでいるというプロフィールも、この演出のもっともらしさをかもし出していた。しかし、科学的合理的にできる、そういうことを一般にマジックと言うのであって、実際、演目はまごうことなきマジックだった。

しかし、タネがあるマジックをマジックではないと言って演じることが果たして許されるのだろうか。もちろんそうする理由は分かっている。マジックよりはマジックではないもの、つまり超能力の方がずっと価値があるからだ。もちろんマジシャンだって「タネもしかけもありません」と言うことがあるが、それはあくまで建前の台詞であり、観客は本当にタネがないとは思っていない。わからないけどタネがあるんだろう、という了解のものとに安心して見ているのだ(いったいどんな巧妙なタネなんだろう、と思う人と、どうせタネがあるんだろ下らない、と、思い方は人それぞれだろうが)。

しかしダイゴは「マジックではない」と言いきっているのだから、視聴者の中には、ダイゴを超能力者だと思う人がいるだろう。

こうして霊感商法にひっかかったりする精神的下地が出来上がるわけだ。それとも、そういう人たちはダイゴを見ようが見まいが、どっちみち霊感商法に自ら邁進する人たちだから実害はないのだろうか。

そういうことを考えさせられた番組だった。

ハンスご難

ハンスは、私が「黄レンジャー」と名付けたことからも想像がつくように、かなりの食いしん坊である。その彼が学生時代に経験した話が面白い。

アルバイトで中学生の家庭教師をやっていたのだが、そこで毎回ご馳走される夕飯がことごとく不味いのだという。何を作っても必ず何か一味が足りないのだという。といって、塩分が足りないとか化学調味料を使っていないとかいうのではない。どうにもうまく言えないのだが、何を作っても味というものが足りないのだという。

お母さんが料理が嫌いだというならそれもわかるが、本人は料理が好きで、ときには妙にはりきって珍しい物を作ったりもし、そういうときには特に不味いのだという。ところが子供も父親も、家族全員がその料理を美味い美味いと言って食べるらしい。常に人より多くを食するハンスだったが、そこではほとんどお代わりをしたことがなかったという(「自然にふるまう」ためにわざとお代わりをしたこともあった)。ときどき「ごめなさいね、今日は時間がなくて店屋物になります」なんて言われると心の中でバンザイ三唱をしていたそうだ。

その家は、子供もご両親もとにかくみんな良い人たちで明るく楽しい家庭で、自分にもとても良くしてくれたのでそんなことを言うのは心苦しいそうだが、そういう不思議な家庭があったそうだ。