先ほど(13日14時頃)、
伊藤条太さんから編集部にお電話がありました(公衆電話から)。
ご家族も皆無事のようです。
以上お知らせでした。
卓球王国編集部
先ほど(13日14時頃)、
伊藤条太さんから編集部にお電話がありました(公衆電話から)。
ご家族も皆無事のようです。
以上お知らせでした。
卓球王国編集部
アメリカではウオッシュレットがあまり普及してないが、日本に来てウオッシュレットを使ったアメリカ人の多くがその便利さに驚嘆の声を上げる。中にはどうしても欲しくて、わざわざ取り寄せて設置する人もいると聞く。
数年前に死んだ祖母も「便利なもんだ」と喜んでいたのを思い出す。
私が初めてウオッシュレットなるものを知ったのは、たしか80年代末だったと思う。東京に遊びに行ったときに新宿駅の近くの公衆トイレにあったのだ。適当に入ったらなんとそこは有料トイレで、多少損した気分になっていたら、そういう装置がついているトイレだったので使ってみたのだ。初めての体験だったので、何かとてもくすぐったくて落ち着かなかったことを覚えている。我が家には今もウオッシュレットはないが、会社や公衆トイレなど慣れているのでそのときの感覚はもう思い出せない。
ウオッシュレットといえば失敗談がある。息子がまだ5歳くらいの頃、実家に行ったときに、息子をトイレに連れて行ってウンチをさせた後、ウオッシュレットを使って驚かせてやれと思い、スイッチを押したのだ。すると、息子の尻があまりに細くて小さいため、勢いよく噴出されたお湯は息子の尻をかすめて上空に跳ね上がり、私の顔にかかったのだ。考えれば容易に予想できたアクシデントだが、こういう、失敗しても致命的ではない程度に危険なことは、あえてやってみたくなるのであった。
おかげで息子の尻に湯を当てて驚かすつもりが、自分が「うわっぷ」と驚くハメになったのだった。
中学男子なら屁などを得意になってするものだが、今日の次男の技には感心させられた。
屁を何発もしながら「うっ、あっ」などと銃弾を浴びたときのように腹を押さえたりのけぞったりしながら倒れるのだ。自分の屁の音を銃声に見立てているところが気が利いている。これが日本特有の「見立ての文化」である。
しかも実際には弾丸が打ち込まれるのとは逆に放出しているところが可笑しい。
このような遊びを初めて見たので、息子ながらとても感心した。
2,3日前にネットでこのような見出しの記事が出ていた。「就活失敗による大学生の自殺2倍に」「自殺13年連続3万人超」「就職失敗が急増」というサイトもあった。
あいかわらずのインチキぶりである。これを見ると、なにかとんでもなく状況が悪くなっていると誰でも思うだろう。そう思わせるためにそういう部分だけを選んで見出しにしているからなのだ。
記事をよく読むと、確かに「就職失敗」が原因の自殺は2倍になっている。
平成10年は46人で、平成9年の23人の2倍になったというのだ。大学生以外を含めた「就職失敗」が原因の自殺者は354人から70人(20%)増の424人である。
一方、「借金関係」の項目を見ると、2640人で前年の3261人の19%減になっていて、621人も減っている。「就職失敗」と「借金関係」を含んだ「経済・生活」全体としては前年の8377人から939人(11%)減って7438人となっている。
それでは自殺数全体としてはどうかというと、31,690人で、前年から1155人(3.5%)少ないのである。
つまり、自殺数は全体でも原因別でも多くの項目で前年より減っているのに「就職失敗が原因で自殺した大学生」、それもわずか23人が46人に増えたことだけをとりあげて「倍増」と見出しに使っているのだ。
マスコミは常にこのようにネガティブなことを取り上げて騒ぐ。それは不安や恐怖の方が人々の注目を得られ、「売れる」からだろう。何の根拠もなく青少年の犯罪が凶悪化しているというデタラメを書くのもそのためだ。
景気というものは文字通り人々の気持ちを反映するものだが、不況の原因を作っているのはマスコミにもあるのではないだろうか。戦争中の大本営発表のようにウソまでは書かないにしても、せめて事実を歪めるような印象操作はやめてほしい。むしろ逆に良い状況をとりあげた印象操作をした方が景気は良くなることはまちがいない。ためしにどこかの新聞がそういうことをやってくれないだろうか。
私なら今回の見出しは「自殺者数、1155人減」と書くだろう。23人しか変動していない項目をとりあげて「倍増」と書くなどという芸当はとてもできない。
今日はどうしてもラーメンを食べたかったので、家には夕食を断ってひとりで会社帰りにラーメン屋に寄って食べてきた。
例によって、やたらと手作りだの無添加だのに気が違ったようにこだわっているよくあるタイプの店だ。
無添加といえば、小さい頃から疑問に思っていたことがある。それは、いったい何が添加されていないのを無添加というのかということだ。食品である以上、砂糖や塩が入っているのはよくあることだが、それらが入っていても「無添加」として堂々と売っている。後で知ったところによると、添加物というのは防腐剤とか合成着色料とかのある特定の目的の物が入っているかどうかだけを言うのだという。だから体に悪くてもそれらに分類されるものでなければ入っていても「無添加」なのだ。なんだか釈然としない。
無添加とか添加とか体に良い悪いとは何の関係もない。ただそれを知らない無知蒙昧の一般大衆に訴求するために宣伝しているに過ぎない。
ラーメン屋に話を戻す。店員が注文をとりに来たので、味噌ラーメンを頼んだ。「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と不愉快な過去形で聞かれるのが嫌なので「味噌ラーメンお願いします。以上です。」と、ことさらにはっきりと言ったのだが、この店員は、注文をメモし終わると「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と言いやがった。よろしいに決まっているではないか。いったい何を聞いているのだろうか。
幸いにもラーメンは美味しかった。食べ終わってレジに伝票を持って行き、余計な会話をしなくてよいように、伝票に1000円札を重ねて「お願いします」とレジに出すと、「1000円からでよろしかったでしょうか」と聞かれた。よろしいに決まってるではないか。こっちはそう聞かれたくないから誤解の余地がないように伝票といっしょに札を出しているのだ。注文をとった店員と同じヤツである。まったくなんという強者だろうか。
今日は2連敗だ。
土日の休みが終わって今日からまた仕事だ。毎週ながら楽しい気分ではない。
息子たちはアメリカから帰ってきて以来、学校に行くのが楽しいと言っていたので、「もしかして月曜の朝とか楽しいのか?」と聞くと驚いたことに「楽しい」と言う。
まさかと思い「じゃ、金曜の夜は嫌なのか」と聞くと「一週間のうちで一番嫌」なんだそうだ。信じられない。さすがに授業中は楽しくはないそうだが、休み時間に友達とふざけるだけで楽しいのだという。
アメリカに行く前はそうではなかったそうだから、これもアメリカに行った利点だと思う。もっともアメリカに行っている間は「ずっと刑務所に入れられていたようなもんだ」と言っているので、本人たちにしてみればトータルで考えれば得でもなんでもないということになるのだろう。なにしろ向こうでは物を食べられなくなって何キロも痩せるほどだったのだから。
町内の有志ふたりで立ち上げた卓球クラブだが、その後、最初に来た人から芋づる式に人が増え、ついに昨日は大変な人で収集がつかなくなってしまった。
卓球台は4台しかないのだが、すでに入会をした2家族(それぞれ2人の小学生)の他に、新たにそのクラスメートの母娘が来た。さらに私の会社の同僚夫妻が3人の子供を連れて訪れ、そこに3番弟子の小室があろうことか奥さんと子供二人を連れてきて、こんなときにかぎって近くの中学生が5人も来て、そこに久しぶりの青年が顔を出し、体育館はまるで運動会のようになった。
大人11人に子供が15人である。この敷居の低さが卓球の長所なのだなとあらためて思った。「子供が運動が苦手なので何かさせたいと思って・・・」というお母さんがいたが、これも卓球の特徴だろう。「そういうヤツばかり集まるから卓球のイメージが悪くなるんだ」と怒る人がいそうだが、それは怒るべきところではない。より多くの人が気軽にやってみようと思うのがメリットでなくて何だろう。
スポーツにはそれぞれに異なる特徴がある。卓球の長所は疑いなくこの大衆性である。
有名な経営学者ピーター・ドラッカーの言葉に「何ごとかをなし遂げるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。」というのがある。私は彼の本を読んだことはなく、何かでこの一文を見ただけなのだが、とても感動した。以来、ときどきこの言葉を反芻している。言われてみれば当たり前のことなのだが、なんと簡潔にして力強い言葉なのだろう。そしておそらくそれは真実なのだ。
卓球にドラッカーの上の言葉を当てはめれば、卓球をよりメジャーにするためには、敷居の低さという大衆性をもっともっと伸ばすしかないということになる。卓球が競技特性の違うサッカーやゴルフや野球などの真似事をしたり、それらより劣っているところを改善しようとだけしてもダメなのだ。
ごったがえす体育館でそのようなことを実感した週末であった。