年別アーカイブ: 2011

ボランティア

昨日、今日と、町内会のボランティアとして水没した地域の瓦礫除去作業に参加した。

一輪車かリヤカーがあればはかどるのだが、数に限りがあり、ほとんどの人が手で持って集会所までの2、300メートルも運ぶという気の遠くなるような作業だったが、それでも参加者が多いので、朝から夕方までの作業でかなりきれいになった。

途中、瓦礫を集める場所のことで揉め事が起きた。ゴミを集めることになった空き地の近くに住むおばさんが、自分の家の近くにゴミを置かれるのが嫌だというのだ。別にその人の敷地に置こうとしているわけではない。近くの空き地に置いているだけなのだが、この非常時にそれにすら文句を言うのだ。

その文句が面白い。「みんな自分のところだけはきれいにしたがるんですよ」と他人を批判しているのだが、まさに自分に当てはまっていることを言っているのだ。あげくのはてに、床上浸水した家の駐車場が空いているからそこに置けばいいというのだ。よりによって、家には住めず今でも近くの小学校の体育館で寝泊りをしている人の家の駐車場をゴミ置き場にしろと言うのだから、なんとも見上げた根性である。

仙台市のゴミ撤去部隊が作業をするのに、ある程度まとまった場所に集めて置かなくてはならないので集めているのだと説明をしても、とにかく自分の家の近くは困るの一点張りである。さすがのボランティア隊長も「私、ブン殴って良いですかね」と陰で言っていた。

左の写真が、文句を言われたゴミの山。右の写真が、あわやゴミ置き場にされそうになった水没した家。窓ガラスの表面に水の跡が残っている。

産地の明記

最近では、いろんな食品で「無添加」が大流行だが、それと同じくらい流行しているのが産地の表記だ。「山形県○○村産の大根」などと書かれても、それが良いのか悪いのかさっぱりわからないのだが、わざわざ書くくらいだから良いのだろうと客が勝手に思うのを利用した巧みな技だ。

これを逆手にとって、「無菌状態で純度100%の原料を使って精製されたソルビン酸カリウム合成保存料を使用」とやったらどうだろうか。逆効果か。

それはそうとして、今日入った寿司屋では、店員の名札に「仙台市出身 高橋○○」と書いてあった。なるほどこう書かれると「八木山あたりかな、東仙台あたりかな」などと興味が沸いてくる。そういえば、忘年会をやった店では山形出身と名札をつけた店員がいたのを思い出した。

どうも店員の産地まで書くのが流行りつつあるようだ。

「がんばろう東北」

今日は、息子たちの高校の制服の採寸のため、仙台市内の中心部に行った。
先週とは見違えるほど多くのレストランや喫茶店が開いていて、もはややっていない店の方が少ない感じがした。

あるソバ屋は、まわりの店がやっていてその店だけがやってないのに、「臨時休業中 がんばろう東北」と書いてあった。

「いや、がんばらなくてはならないのはお宅ですが」って思ってしまった。

放射性物質の影響

福島原発の事故に伴い、あちこちで暫定規制値を超える放射性物質が測定され、出荷自粛だの摂取を控えるだのの騒ぎになっている。

専門家によれば、暫定規制値はかなり厳しい値であり、現状で計測されている値はほとんど気にする必要がない値だということで、いかに安全かということをテレビで説明していた。

私としては、もうひとつ説明が必要だと思う。「少量なら安全だ」と言われても、少しでもリスクがあるなら避けたいと思うのが人情だろう。それはひとつの誤解に基づいている。物質には人体に無害の物と有害の物があるという誤解だ。実際には、過剰に摂取すればどんな物質でも有害であり、底抜けに無害な物などこの世にはないのだ。砂糖だって塩だってアルコールだって水だって採りすぎれば弱い放射線を浴びるよりずっと恐ろしい事態になる。だからといって「少しでもリスクを減らすため」にこれらを自粛する人はいない。そんなことをしたら摂取できるものはひとつもなくなるからだ。

そういう説明を具体的な例(塩を通常の何倍採ったら死ぬか等)を挙げて説明するともっと納得してもらえるのではないだろうか。

水を求めて並んだり食べ物を捨てることの方がずっと確実な無駄である。

日本好き

三男の小学校の卒業式があり、通信簿と工作を持って帰ってきた。

工作はオルゴール付きの小物入れだが、なんとそのデザインは日本の国旗。

よっぽどアメリカ生活が嫌だったらしい。わが三男は、左翼の人たちが大騒ぎしそうな「軍国少年」というところだろうか。

折りしも震災で日本人の品格が世界に認められつつある昨今、私にとっても非常にタイムリーな工作だったといえる。それにしてもデザイン性のかけらもないが。

さらばマーチ

会社の駐車場に停めてあった愛車マーチが見つかった。ちょっと離れたところにレッカー移動されたらしく、他の車たちと一緒にぎっしりと並べられていた。車のナンバーは覚えていなかったが、トランクに見覚えのあるコードとボックスティッシュがあったのでわかった。後の席には田村の自転車を積んだときに汚れないように敷いた新聞紙が残っていた(田村は「これで自転車でシートを汚したのを気にしなくて良くなりました」と喜んだ)。

助手席の物入れから車検証を見つけて自分の車であることを確認した。

何台かの車にチラシが貼ってあるのでよく見ると、運んで廃車手続きをしてくれておまけに買ってくれるのだという。早速電話をかけて買取価格を聞くと5,000円~10,000円だということだ。只でもいいくらいなのでお願いすることにした。

さも人助けのためのようなことを書いてるが、ちゃんと儲かるのだろう。ガソリンもしっかり抜くんだろうな。書いてあったウエブサイトのURLにアクセスすると「作成中」となっているし、仙台の小さな会社だというので、おそらく震災後に急にビジネスを思いついたのだろう。たいしたものだ。

29万円で買って、発進時に下の方からカタカタと音のするクソ愛車マーチだったので、まあ良しとしよう。

何でもないような夜

毎週土曜の夜、卓球の帰りに心地よい疲労感でお菓子や飲み物を買いに寄っていたセブンイレブンを見てきた。この店で買い物をしているときの悩み事といえば、どれを買ったら美味くてカロリーが少ないかぐらいのものだった。

何でもないようなことが/幸せだったと思う/何でもない夜のこと/二度とは戻れない夜

という誰かの歌をしつこくこのコンビニで聞かされていて、そのたびに「ああ、何か不幸があると後でそう思うんだろうな、今の何でもない状況を楽しもう」と思ったものだった。

今、そういう日常が非常に懐かしい。

思い出の消失

我が家より海側には思い出深いところがある。

息子たちがお世話になった幼稚園があるのだ。学校からわずか1.5キロの道を、途中のガソリンスタンドで休んだりあれこれ道草を食ってなぜか1時間半もかけて毎日通っていた幼稚園だ。妻と共稼ぎだったので、すっかり暗くなるまでお世話になった思い出深いところだ。

行ってみると、建物の形は残っていたが、水やら流木やらをもろに浴びて、もはや使い物にならない状態であった。地震から津波までは40分ほどあったので、被害にあった人はいないことを願う。

地震の跡

昨夜から自宅に移った。埋立地のためか、心なしか揺れ方が激しいような気がして夜は余震が起こるたびに不安だ。

わずか500mほど離れた住宅地の海に近い方は完全に床上浸水をしていたことが、壁についた跡でわかった。

毎週土曜に卓球をしていたコミュニティーセンターに行ってみると、そこもやはり1メートルぐらいの水かさだったようだ。ただ、玄関が閉まっていたため、内部の水深は20cmほどであり、和室には水が上がってはいなかった。

以前のようにここで卓球をできる日はいつのことだろうか。しかし全壊した釜石や石巻とは違い、時間さえかければその日は確実にやってくるのだから、幸運だったと思うしかない。

紛らわしい家

仙台の沿岸沿いの惨状は目を覆うばかりだが、津波が来なかった内陸地は、建物としての被害はまったくといっていいほど見られず、何事もなかったかのようである。

ところが、そういう地域にもときどき、津波が来たかのような家があってドキッとするのだが、津波とも地震とも関係ないいわゆる「ゴミ屋敷」や廃屋だったりして実に紛らわしい。