「視点・論点」で放送した『進化する卓球』の原稿がNHKのウェブサイトに掲載されている。
放送を見逃した方はどうぞ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/290582.html
それにしても「進化する卓球」とは、魅力的なタイトルだ。これは私が考えたものではなく、出演依頼があったときに担当の方から提示されたものだ。つくづく第三者の目は重要だと感じる。
「視点・論点」で放送した『進化する卓球』の原稿がNHKのウェブサイトに掲載されている。
放送を見逃した方はどうぞ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/290582.html
それにしても「進化する卓球」とは、魅力的なタイトルだ。これは私が考えたものではなく、出演依頼があったときに担当の方から提示されたものだ。つくづく第三者の目は重要だと感じる。
昨日、初のテレビ出演の収録が無事に完了した。さっそく今日放送されるという強行スケジュールだか、テレビというものはこのようなものなのだろう。
収録前には初めてメイクなるものをしていただき、なにやら顔がのっぺりと均一な色になったような気がした。メイクの方が、しきりと額の生え際をこすっていたのが印象的であった。何の努力だろうか。
収録は、自分で書いた原稿を読むのだが、原稿の向こうにカメラがあって透かしてこちらを撮影するので、原稿を読むと自然にカメラ目線になるという素晴らしい仕掛けだ。
幸い、トチることもなく一回で上手くいったが、放送されたのを見ると、発音が不明瞭だし表情もかたく、面白味に欠けるなあとがっかりしている。
また機会があればこの反省を生かしたい。
一般メディアに書いた記事の評判が思いのほか良かったことを受け、息子たちからツイッターをやった方が良いと説得され、始めてみることにした。
文字数に制限があるため、書く時間をとられないし余計なことを書き過ぎることも防げるので意外と良いかもしれない。
もっとも、書きたいことが多い人は何通も連投するらしいが、「そういう人はヤバい人だから誰も読まない」とのことだ。そうならないように気をつけたい。
初めて卓球王国以外の媒体に記事を書いた。
一般の方々向けの内容で、卓球をしている人から見ると言わずもがなの内容で少し恥ずかしいが、一般の方々にわかりやすく説明することは意義があると思うので、ご覧いただきたい。
タイトルは編集部による。
フェアプレーということでは、1969年世界選手権ミュンヘン大会のとき、荻村伊智朗が朝日新聞で紹介した試合がある。
引用しよう。
「しかし敗れたとはいえ、ガイスラー(東ドイツ)の試合ぶりは見事というほかない。審判のミスによる得点に際して、つぎの点をわざと相手に与えるのは卓球競技の伝統的な美風だが、自分のスポーツ生涯の二度とないもっとも大事な場面で、ガイスラーはこの美風を発揮した。しかも、その直後の思い切りのよい攻撃。この数分間はこの大会のもっとも美しく、感激的な場面であった。国は分かれていても、このような高いスポーツ精神にあふれる同胞をもったことを、西ドイツの人々は誇らずにはいられまい。」(1969年4月29日付)
詳細を調べてみたら、これは女子シングルス決勝で、相手は日本の小和田敏子だった。1ゲーム目の18-16で小和田がリードしたところで、小和田がネット際のボールをスマッシュして入ったのだが、審判はこれをムーブドテーブル、つまり卓球台を動かしたとして、ガイスラーの得点にしたのだ。台に触れたかもしれないが、とても動かしたとは思えないほどの量で、少なくとも日本でなら絶対にミスをとられない状況だった。「ガイスラーは、この大事な場面、勝ちたい場面で、わざとサーブミス。万雷の拍手」と当時の卓球レポートは伝えている。
ガイスラーはこのフェアプレーの直後、なんとこのゲームを逆転で取っている。結果的に3-1で小和田に敗れたとはいえ、凄い選手がいたものだ。卓球ファンはガイスラーの名を忘れてはならない。
左から小和田、ガイスラー、浜田、アレキサンドル。
相手の面子をつぶさないようにと10-0からわざとサービスミスをするのはマナーとも言えないような異常な行動だと思うが、相手にわざととは悟られないようにミスをする場合はどうだろうか。
たとえば私は、部活の先輩に、異常にプライドが高くて「この人に大差で勝ったら後々面倒なことになる」と思わせる人がいた。だからその人と試合をする場合は、適当に手を抜いて点を取らせることがままあった。しかし、万が一にもそれがバレたら、相手のプライドを刺激するからそれこそ大変なことになる。だからこれは絶対に悟られないようにしなくてはならない。
すなわち、ミスをした後にことらさ激しく「なにやってるバカ!」などと自分を叱咤することで、真剣にやっている演技をするのだ。なんで俺はこんなことをしているのだろうと思うが、せざるを得ないのだ。
相手の面子を潰さないようにするには、これくらい入念にしなくてはならないと思うのだがどうだろうか。ちなみに、その先輩と試合をする後輩たちはのきなみ、心なしか自分を叱咤する声がやけに大きかったことをつけくわえておく。
さてこれは、手を抜くという点ではアンフェアプレーだが、相手の面子を潰さないという点ではフェアプレーということになる。しかしなんといっても、後輩たちにそんな気を遣わせるこの先輩の存在こそがアンフェアプレーだったといえるのではないだろうか。
自分のミスが審判に聞き入れられなかったときに自らサービスミスをするのがフェアプレーなら、これまで聞いた中で最高のアンフェアプレーが次の話だ。
現ヴィクタスで、元五輪選手の仲村錦治郎さんから聞いた話だが、彼が現役のとき、アメリカで大会に参加したという。参加人数が多いためか大らかなのか、審判は選手同士による相互審判だった。一緒に参加したMという日本選手が、勝ったはずの試合がなぜか記録では負けたことになっていたので、あわてて訂正を申し出ると、なんと試合をした相手が「俺が勝った」と言って譲らない。
その選手は、他に目撃者がいないのをいいことに、自分が勝ったと公然と嘘をついたのだ。さすがにここまでずうずうしい話は聞いたことがない。
そこで、どちらが言っていることが正しいのかを見るために、審判長の前で試しにもう一度試合をして見せることになり、M選手は21-2でコテンパンにしてやったという。さすがにこれで嘘つき青年の主張に無理があることがわかり、無事にM選手の勝ちとなった。
究極のアンフェアプレーといえよう。さすがアメリカだ。
全日本の最中、会場の近くの居酒屋で、特別濃い卓球マニアの方々と会合を持った。
左から、今大会副委員長だった日本卓球協会常務理事の沖さん、私、膨大な試合結果が頭に入っていてしばしば卓球王国に間違いを指摘する岡本さん、そして昨夏、マニアにもほどがある大著『卓球アンソロジー』を出版された田辺さんだ。
大会運営の苦労、インパクトでボールを見ることの真偽、卓球の起源など、話はバカみたいにあちこちに飛び、あっという間に4時間が過ぎ去った。
中でも印象深かったのは、田辺氏の深読み能力だ。女子シングルス決勝で伊藤美誠が10-0からサービスミスをした直後、平野美宇がネットインでボールを入れたのは、サービスミスへの返礼として、わざとネットミスをしてこのゲームを終わらせようとして間違って入った結果ではないかと言うのだ。これは思いつかなかった。
他にも映画『ミックス。』の話で、私が「主人公カップルが工事現場に来たときに、建設作業員がいきなり放水車で二人に水をかけるのはあまりにも不自然だし、ましてその場面を写真に撮っているわけがないのに、後でその写真が出てくるのはおかしい、脚本の辻褄合わせの手抜きだ」と言うと、田辺さんは「私はごく自然に思いました」と言う。
田辺さんの解釈では、新垣結衣があまりにいい女なので、水をかけてびしょ濡れにしてその場面を写真に撮るは当然で、建設作業員はそれを楽しんだのに違いないと言う。ホントかよ。そんな恐ろしい脚本だったのか。深読みと言おうかパンクと言おうか、私の想像力の未熟さを感じさせられた一件であった。
なお、隣のテーブルには、男子シングルス決勝で主審を務めた今野啓さんが偶然入ってきて別メンバーとともに陣取ってジャッジ論について唾を飛ばしており、狭い部屋が卓球一色に染まったことをつけ加えておく。
フェアプレーのことを書いていたら、以前思いついて原稿を書くのを忘れていたネタを思い出した。その名も「壮絶!フェアプレー合戦」だ。
フェアプレーで名高いサムソノフとボルが、メダル獲得の可能性が消えたあと、どうせならと密かにフェアプレー賞を狙って対峙した。
思った通り、ボルのボールがエッジかサイドか微妙な判定となったが、互いに一歩も譲らす「自分のミスだ」と主張し、ついにはサービスミスをし合うという話だ。
当然制限時間の10分を越えて促進ルールが適用されても無力だ。なにしろお互いに延々とサービスミスをするものだからジュースの繰り返しとなり、促進ルールなど屁のつっぱりにもならない。
最後に、サムソノフが奥の手を思いつく。バッドマナーでレッドカードをもらって失格になることでボルに勝ちを譲るのだ。突然、口ぎたない言葉で罵りそこら中に唾を吐きかけてレッドカードを狙うサムソノフ。サムソノフの悪だくみに気がついて負けじと短パンを脱ぎ始めるボル。
しかしとき遅く、一足先にマナーを悪くしたサムソノフが見事レッドカードを食らい失格となり、ボルの勝利となった。
フェアプレー賞どころか、両者とも6ヶ月の国際試合停止の謹慎処分を受けたことは言うまでもない。
「フェアプレーとは何か」という根源的なことを問いかけるふりをした単なるバカ話だ。そのうち雑誌に書くのでお楽しみに。
卓球界には語り継がれるべきフェアプレーがいくつもある。
私を文筆業に導いてくれた恩人でもある藤井基男さんの『元気が湧く43の話』(日本卓球株式会社刊)から紹介する。
それは1979年世界選手権ピョンヤン大会でのことだった。男子団体で準決勝進出をかけて日本とスウェーデンが激突した。力は互角だった。
勝負を分けたのは、前原正浩vsステラン・ベンクソン。第1ゲームで前原が19-17とリードした場面で、前原の強打がオーバーミスとなり、19-18となった。すると、ベンクソンは前原のボールがエッジで入ったことを審判にアピールし、スコアは20-17となり、ベンクソンは敗れ、結果、スウェーデンは3-5で日本に敗れたのだった。
後年の1998年に、藤井さんはベンクソンにそのときの話をすると「15歳のとき、大会でシェル・ヨハンソンを見て感動した。そこで私はフェアプレーがどれほど大切なものであるかを学んだ。前原と対戦したときも、学んだとおりにやった」と語った。
そのヨハンソンのフェアプレーとは次のようなものだ。
1967世界選手権ストックホルム大会で、ヨハンソンは男子シングルス1回戦でソ連のゴモスコフと対戦した。ゲームカウントが2-0でゴモスコフのリードとなり、3ゲームめも20-19でゴモスコフがマッチポイントを握った。
次のボールがエッジなのか微妙なボールとなったが、審判はヨハンソンの得点として20-20となった。ところがヨハンソンは「今のは自分の得点ではない」とアピールし、握手を求めてゴモスコフに歩み寄った。敗れたヨハンソンにはスタンドから割れんばかりの拍手が沸き起こり、ユネスコから国際フェアプレー賞が贈られた。
これが、荻村伊智朗が朝日新聞の世界選手権観戦手記に「人間能力の限界の風格を持つ」と紹介されたシェル・ヨハンソンである。この大げさな比喩も素晴らしいがたしかにこれは人間能力の限界と言えるフェアプレーだろうと思う。
指導している選手がそういう試合をしたら「せっかく得点したのにバカッ!」と怒らずに「立派だ」と褒めることができるだろうか。たぶん私はできないだろう。
同じく1967年にモントリオールで開かれた国際大会のとき、優勝争いのリーグで、高橋浩、福島萬治、エバハルト・シェラー(西ドイツ)の首位争いとなった。高橋と福島の試合が最後に残ったが、高橋はすでに優勝の見込みはない一方、福島は高橋から1ゲームとれば優勝が決まる。高橋は2-0で勝っても0-2で負けてもどのみち3位だ。おまけに高橋と福島は同じシチズンの同僚なのだ。
誰もが福島の優勝を確信したが、高橋は全力でプレーして福島を2-0で破り、シェラーの優勝が決まった。高橋のプレーに感動したのはシェラーだけではなかった。
「読み返しているうちに、なぜか涙が出てしばし止まらなくなった」と藤井さんは結んでいる。私も書いてて目頭が熱くなった。