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雑誌発売日の謎

小学生のころから疑問に思っていたことがある。

それは、どうして月刊誌は2月に3月号を発売するのだろうかということだ。これはどの雑誌も同じで、発売日と雑誌の表示が必ずズレている。そのズレは雑誌によっても違って、卓球レポートは2/20に発売するのは3月号だが、卓球王国は2/21に4月号を発売する。

こういうことをするメリットはなんだろうかと考えた結果、ある結論に達した。それは一冊でも多く売るための作戦だというものだ。2/20に2月号を発売したとすると、2月中に売切れればいいが、3月に入っても2月号が書店に並ぶことになる。そうなると、実際は最新号なのに古い号だという印象が出てしまって売れ残るリスクが大きくなる。もし2/20に3月号を出していれば、3/19に書店で3月号を見た消費者は、もう一日待てば最新号が手に入るとは気づかず、買ってくれるかもしれない。まして3/19に4月号がおいてあれば、まさかそれが2/20に発売されたものとは思わず、「これは入荷したばかりなんだな」となる。たくさん売れ残っていたりすると、いよいよ入荷したてのホヤホヤに見えて、まさか翌日返品される予定には見えないだろう。さすがに5月号や、思い切って来年号を置いたりするのは逆効果だ。

以上、雑誌の発売日と発売号がズレているのは「新しく見せかけて売るための作戦」というのが私の結論だ。同じような疑問は誰でも考えるものらしく、検索してみると、ちゃんと解説されていた。
http://homepage2.nifty.com/osiete/seito100.htm
ちょっとがっかりだ。

ところで、こんなことを雑誌のウエブサイトで書いていいのだろうか。

荻村伊智朗語録

4月発売号の原稿を書くために、昔の卓球雑誌を見ていたら、荻村伊智朗がニッタクニュースに書いた記事を見つけて見入ってしまった。

1983年東京大会直前に、当時世界2位の中国の蔡振華について荻村が書いた記事だ。以下に引用する。

「まずサービスはとてもよく切れている。対戦した井上(青卓会)が『荻村さんや田中さんの浮き上がって滑るカットサービスと同じです』と言っていた。ということはスイングの速さだけでなく、どのように第一バウンドさせてゆくか、という点でもあるレベルに達していると、私は見る。」
「打球点との出合いは、したがって体を静止させた状態での出合いではない。私や、田中や、木村興治らも得意とした跳躍軌道上の出合いなのである。」

自慢話というかホラ話というか、なんともはや強烈である。雑誌で記事を読むだけでもヒヤヒヤするのに、こんなことを真顔で面と向かって言われたらどうなるのだろうか。もちろん、荻村はじっとこっちの目を見据えて言うに決まっている。こんな人が日本卓球界のトップだったのだから、関係者はさぞかしスリリングな思いをしたことだろう。

『生物と無生物のあいだ』

福岡伸一という人の『生物と無生物のあいだ』という本を会社でみつけたので読んでみた。

その中に、長年知りたかったことが書いてあってとても興味深かった。

万物は原子からできていることは誰でも知っている。では、たとえば食物に含まれているある特定の炭素原子一個に着目した場合、それが体内に入ってどこでどのような動きをするのだろうか。あるものは細胞の一部となって体内にとどまるだろうし、あるものは呼気や排泄物となって対外に排出されるだろう。

理屈はそうに決まっているのだが、あまりにミクロなスケールのことなので、実感がわかなかった。こんなこと確かめようもないわけで、ただぼんやりと不思議がっていたのだった。これに実感を与える実験をすでにルドルフ・シェーンハイマーという人が1930年代にやっていたと知ってすっきりした。

シェーンハイマーは、ネズミの餌に、自然界にはほとんど存在しない通常の窒素原子よりちょっとだけ重い重窒素の入ったものを与え、何日かしてからネズミを解剖し、体内のどこにどれくらいそれが含まれているかを調べたという。シェーンハイマーの予想は、ほとんどの重窒素は体内に排出され、体内に取り込まれるのはほんの一部だというものだったが、結果はまったく違って、わずか3日後には重窒素はネズミの体の隅々の細胞にまで、与えた量の56%もいきわたっていたという。つまり、食物に含まれる原子は、驚くべき速さで体内に取り込まれて細胞になり、古い細胞とどんどん置き換えられているということがわかったのだ。

作者の福岡伸一は、生物とは動的平衡状態、つまり、原子が個体を次々と通り過ぎていく、その流れそのもののことだと書いている。

ダーウィン生誕200年

テイに念のため、信仰について聞いたところ「とても強く信仰している」と即答だった。「どうして俺が神を信じていると思う?」というから私は「キリスト教の家に生まれたからだろう。もし日本に生まれたら無神論になっていただろうし、イスラムに生まれたらイスラム教になっていたさ」と答えた。テイは「それはそうだ」とやけに素直だ。「お前が言いたかったことを続けてくれ」と言うと「祈れば何でも望みが叶うんだ」と言った。

テレビを見ていたら、ダーウィンの生誕200年ということで、進化論についてのアンケート結果を発表していた。それによると、アメリカで進化論を信じているのは38%、信じていないのは27%、残りはどちらでもいいそうだ。しかしここアラバマ州ではかなりの割合で進化論を否定している。

我が家の子供が通っている学校はクリスチャンスクールだが、理科の時間に「進化論は悪魔が信者をだまそうとして考えられたものだ」と教えているそうだ。なんとも凄いことだ。

わだかまり

テイと作業をしながらいろいろな話をした。テイはカレッジにいたときにバスケットをしており、コーチをしたこともあるほどの技量の持ち主だという。

私はかねてから黒人と話すときに人種差別を過剰に意識してしまって、文字の色を表すのにブラックと言うのでさえ口ごもってしまうようなところがあり、どうにもモヤモヤしたものがあった。もちろんこれは彼らの前でブラックと言うことが悪いような気がするためだが、そう思う方が失礼であることは言うまでもない。黒人を尊重し、黒人のプライドを認めるためには、黒いものは黒いと堂々と言えなくてはならないし、ときには黒人という言葉も普通に会話できなくてはならない。

どうせこちらはイエローなんだから、そのあたりのことを思い切って話してわだかまりを解消してみようと思い立った。

テイがバスケットの話をしたので、「偏見かもしれないが、黒人は全員がバスケットが上手なような気がする。バスケットできない人っているのか?」と言うとテイは「それは偏見じゃなくてステレオタイプっていうんだよ」と笑った。黒人の28%はバスケットボールはできないし、22%はリズム感が悪くて踊れないという。「そのパーセントはどこから来た?」というと「勘だ」と笑った。

それで、日本人は白人から見ればイエローモンキーだと話すと、それは聞いたことがないという。どうも日本人が思うほどイエローモンキーという言葉はポピュラーではないようだ。さらにテイは声をひそめて「モンキーは俺たちだ。白人は俺たちのことを陰でモンキーっていっているんだ」と言った。なるほど、確かにサルの皮膚は黒い。してみると、イエローモンキーという東洋人への侮蔑には、黒人をモンキーと表現する前提があったのかもしれない。テイは続ける。「モンキーならまだいい。本当はアライグマ(raccoon)と言われているんだ」と言った。私が「今やそのアライグマが大統領になってしまったわけだな」というと「それだよ!いい落ちだ!」と笑った。

打ち解けすぎて「今度友人たちに紹介する」と言われた。ちょっと踏み込みすぎたか。

『冬のソナタ』

今週は眠い。

ふとしたことから、また冬のソナタのDVDを1話から毎晩見ているからだ。さすがに早送りしながらだが、やはり面白い。考え抜かれた脚本と演出、俳優の魅力、映像、音楽とどれも素晴らしい。これらのどれかひとつでも欠けていたらこれほどのものにはならなかっただろう。

04年ころに、同僚の女性から勧められてテレビで見たのが最初だった。こういうものは愚劣に決まっているから、どれくらいくだらないか確かめてやろうと思って見始めたことまでは覚えているが、その回が終わるころには完全に虜になっていて、毎週見ないではいられなくなってしまっていた。あとでDVDで確認すると、そのとき見たのは第5話「罠」の後半15分だけであり、わずか15分でノックアウトされたのだった。しかし、もし1話から見ていたら途中でやめていただろう。1話はあまりにも恥ずかしくてちょっと見ていられない。もし1話で挫折した人がいたら我慢して見てほしい。たまたま5話から見て本当によかった。

当初、『冬のソナタ』をベルイマンの名作『秋のソナタ』と言い間違えて同僚に笑われていたが、今では逆のいい間違いをするようになった。サントラCDも買い集めた。

普通、冬ソナは女性の方が好きな人が多いと思うが、妻はまったく興味を示さない。子供たちも画面を見て「ペヨンジュンだ、ペヨンジュンだ」と大笑いするばかりだ。その中で私はヘッドフォンをして腕組みをして見ている。

孤独だ。

人形俳句写真『電話』 俳句なし

義姉からまた人形俳句写真が送られてきた。どんなペースで作ってるんだろう。5月にはどこかの図書館に写真を何日か展示するらしい。

今回のは俳句なしだ。特別な事情があって俳句をつけたくないのだという。

可愛い伊藤様

卓球王国に書いている原稿を、中国の卓球雑誌「ピンポン世界」に翻訳してのせてもらう話を進めるため、偉関絹子さんという人とメールをやりとりしている。

絹子さんは、もと中国ナショナルチームの超一流選手で、引退してから日本にきて、帰化した人だ。
http://blog.mrsc.jp/takkyu/cat341/

絹子さんは成人してから帰化したにもかかわらず、何不自由なく日本で暮している。広州大会のときにメモ帳を見たことがあるが、平仮名、片仮名、漢字をまったく日本人と同じように使い分けていた。ここまでくるのは大変な努力だったはずだ。しかも私の連載の面白さも完全に理解していて、彼女が中国に紹介したいと言ってくれたのだ。

ただ、ところどころ普通ではない表現があり、それが唐突で楽しい。広州の世界選手権のときも、繁華街に出かけようとしたら「財布、スラないよう気をつけて」と、ネイティブではありえないいい間違いをされたし、最近のメールでは、本文の最初のところに「可愛い伊藤様」と書いてあった。

き、いや、可愛いと言われていやではないが、なんか変だ。似たような言葉で「親愛なる」というのがあるが、これは日本語ではなくて英語のDearの直訳であって、普通の日本人は使わない。じゃ、可愛いのかわりにどう書けばよかったのか考えてみると、実はそういう頭につける敬称は日本語にはないのではないだろうか。後ろにつける「さま」「さん」「ちゃん」あるいは肩書きでその人との距離や関係を表すようになっているからだ。

ただ、この可愛いもいろんな状況で使われるので、なぜ絹子さんが私に可愛いとつけるのが変なのかを説明するのは容易ではない。

以下のケースが一般的な使用方法だろう。

・幼児の愛らしさに対して使う
・マンガなどのキャラクターに対して使う
・動物の愛らしさに対して使う
・子供や孫など年下の肉親や親族に対して使う
・女性の美しさに対して使う
・女性(まれに男性)が、年下の男性の美しさに対して使う
・女性が、服やアクセサリーなど装飾品に対して使う。
・女性が、奇妙で面白い物や人に対して使う  あっ

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

ノーベル物理学賞をとったリチャード・ファインマンというアメリカ人がいる。すでに亡くなったが、私はその人が書いたエッセイ集『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という本がとてつもなく好きで、学生時代から何十回読んだか分からない。その中のもっとも好きな、徴兵検査を受けたときのエピソードを紹介する。
-以下、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』大貫昌子訳(1986年岩波書店)から転記-

実を言うと僕はこういうでたらめな話が大嫌いなのだ。精神科医なんてものは皆インチキだと思っているから、連中の顔など見たくもない。いよいよ僕の番がきたとき、僕はこういうムードで医者の前に座った。
僕がデスクの前に座ると、医者は書類に目を通しながらやけに快活な声で「やあ、ディック」と言った。「君はどこで働いてるのかね?」
「ディックなんぞと呼びつけにしやがって、いったい自分を何様だと思っているんだ!」と腹の中で思いながら僕は冷やかに「スケネクテディ」と答えた。
「どういうところで働いているのかね、ディック?」と医者はあいかわらずニコニコしている。
「ジェネラル・エレクトリック。」
「君は自分のやっている仕事に満足しているかね、ディック?」と例の作り笑いのまま医者がたずねる。
「まあまあですね」と僕は全然そっけない。
これまでの三つは軽い質問だったが、四つ目は急に変わってきた。
「人が君のことを噂していると思うかね?」と彼は声をおとしておごそかに言った。
僕はたちまち元気になって「むろんですよ。僕が帰省するたびおふくろが言うんですよ、いつも友達に僕のことを話しているってね。」ところが医者は僕の言うことなど聞いていやしない。何やら書類に書き込んでいる。
書きおわるとまた低いおごそかな声で「人が君をじろじろ見ていると思うかね?」
僕がもう少しで「いいえ」と言おうとしていたら、「たとえばそっちのベンチで待っている連中が、君のことを今じろじろ見ていると思うかね?」と重ねてたずねた。
さっき番を待っている間、僕は12人くらいの男たちがベンチに腰かけて、三人の精神科医の検査の順番を待っているのに気がついていた。むろんこの連中は手持ぶさたでほかに何も見るものなどない。だから僕は三人の医者の数でこの12人を割って四人ずつをふんだが、少し内輪に見積って「そうですな。まああの中の二人は僕たちを見ていますね」と答えた。
すると医者は「じゃあふりむいて見てごらん」と言ったが、自分ではそっちを見ようともしない。
ふりむいてみると、果たせるかな二人の男がこっちを見ている。そこで僕はそっちを指さして「ほら、あの男と向うのあの男がこっちを見ていますよ」と言ってやった。むろんこんな具合にふりむいて指をさしたりすれば、他の連中もみんなこっちを見ることになる。そこで僕は、「ははあ、こっちの男も、向うの二人もだ。おやおやずいぶんたくさんの数になった」と言った。それでも医者はまだ何やらごちゃごちゃ書類に書きこむのに忙しく、確かめてみようともしない。
それから今度は「頭の中で声が聞こえるようなことあるかね?」ときた。
「あるとしてもまれですね」と、僕が今まで二回ほどそういう経験をしたことを話そうとしていたら、今度は「独り言を言うことがあるかね?」と重ねて聞かれた。
「ええ、まあときどきですがね。ひげをそっているときとか、考え事をしているときとか・・・」医者はここでまた何やらしきりと書きこんでいる。
「君は奥さんを亡くしたとあるが、その奥さんと話をすることがあるかね?」
僕はむっとしたが、ぐっとこらえて、
「山へ行ったりして彼女のことを考えているときには、ときどきね。」またもや医者のペンが走る。「で、家族の中に精神病院などに入っている者がいるかね?」
「ええ、僕の叔母が一人脳病院にいます。」
「君、何で脳病院などと言うんだね?」と医者はくやしそうに言った。「精神病院となぜ言わんのだ?」
「どっちだって同じじゃないんですか?」

-中略-

僕は精神科医の書きこんだところを読みはじめたが、大変なことが書いてある。最初の医者は、
「人が自分のことを話していると思っている。
人がじろじろ見ると思っている。
催眠時幻聴。
独り言を言う。
亡妻と話す。
母方の叔母、精神病院に入院中。
非常に異常な凝視(これは僕が「これが医学というわけで?」ときいたときの目付に違いない。)」

-転載終わり-

こういうわけで、ファインマンは精神状態欄がD(不合格)となり「4-F(健康上兵役延期)」の判定をされてしまう。もちろんファインマンはこれを話のタネに仲間と大笑いをしていたが、わざと兵役逃れをしたと思われるのは困ると考えて、あとで徴兵局に対して「自分は国家の将来をになう科学専攻の学生を教えているので徴兵されるべきではないと考えている。しかし、徴兵検査の結果の精神的欠陥ありというのは重大な誤りであり、自分は兵役逃れのためにこの判定結果を利用しようと考えているわけではないので、この誤りを指摘する。」という手紙を送った。

これに対する徴兵局からの返事は「4-F。健康上兵役延期。」だったという。

大貫昌子の訳が本当に素晴らしい。

この本を書き写してみて、あらためて自分の文章がこの本の影響を強く受けていることに気がついた。影響を受けていると言えば聞こえがいいが、なんだか下手なマネをしているだけのような気がして少し恥ずかしい。

メンタルヘルス

うつ病を装って金をせしめた奴が捕まったようだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090208-00000068-san-soci

会社の健康診断のとき、精神的な病気、つまりメンタルヘルスを調べるための問診をされるのだが、その質問がいつも気にいらない。「いつもより上手く物事を進めることができた」などという漠然とした質問に対して当てはまるかどうかを5段階ぐらいで答えさせられるのだ。だいたい、「いつも」というのがいつのことなのかわからない。何だって物事には変動があるのだから、「いつも」をどの時期にとるかによって答えはいくらでも変わる。英語かなにかを直訳してこんなおかしな文章になっているのだろうか。こんなバカげた質問に10以上も答えさせられるのだからたまらない。

こんな無意味なことを人に聞いていったいどんな症状をさぐろうというのだろう。あんまり腹が立つもんだから「これは、空気の読めない好ましからざる社員をあぶりだすためにわざとバカ気た質問をしているのだ」と自分に言い聞かせて揉め事を起こさないようにしている。

その他にも「自分は価値のない人間だ」とか「憂鬱で死にたくなる」などという項目もある。そんな質問の答えを見たら素人でも診断できると思うんだが、そうではないのだろうか。何を聞きたいのかよく分からないバカ気た質問の答えと組み合わせると、なにか浮かび上がってくるのだろうか。

まあ、こんなことに腹を立ててクドクドと力説したりするとそれこそ頭のオカシイ奴だと思われて「ほら、そういう奴を見つけるための検査なんだよ」としたり顔で言われそうなので、あんまり言わないことにしている。

それにしても腹が立つ(言ってる)。