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息子たちの逆襲

息子たちがテレビでテニスの錦織の試合を見て「すごいすごい」と言っていたので、酔った勢いで

「こんなテンポの遅いラリー、卓球にくらべたら退屈で見てられない」

と言ったところ、高校時代にテニスをした次男が

「卓球なんて小さくてチャカチャカと忙しくて、まるで蟹のケンカ」

「カッコつけて卓球台の下がカブトムシの角みたくなってて笑った」

などと言う。

聞いていた双子の長男まで調子に乗って

「ユニフォームからまず変えないと」

と散々である。

卓球コラムニストの息子がこの体たらくとは一体どういうことだろうか。

つくづく下手なこと言うものではないなあ。

とうぎょう(東京)

しつこくてすまんが、引き続き東北弁の話だ。

黒柳徹子の半生を描いた『トットてれび』を見ていたら、典型的な間違った東北弁が出てきた。東京を「とうぎょう」と発音したのだ。この間違いはもう、映画やドラマに出てくる東北弁ではまるでそれが作法ででもあるかのように定着しているが、残念ながら「とうぎょう」とは絶対に言わない。「き」に濁音がつかないことになっているわけではない。「先」は「さぎ」と言うし「時」は「どぎ」と言う。

地名や固有名詞が訛らないわけでもない。福島は「ふぐすま」、鈴木は「すずぎ」、下の名前さえ武を「たげし」と言う。それでも東京は「とうぎょう」とは言わないのだ。

なぜかと言われても困るが、ぼんやりとした区別としては、音読みの熟語には濁音がつかないような気がする。法則化はかなり困難と思われる。

「っぺし」問題

『アヒルと鴨のコインロッカー』を見直したが、本屋の若い女性店員がこれまた標準語の合間に唐突に「おら」などと訛っているのに苦笑した。いくらなんでもこんなヤツいない。どう考えてもいない。絶対にいない。

さらにこの店員、ある人物の噂をするときに、声を潜めて「ここだけの話、クスリとかやってっぺし」と言うのだ。なんとも言えない違和感だ。「っぺし」という語尾は確かにある。しかし、この場面には微妙にそぐわない。

「っぺ」という語尾は「べ」と並び、推測を表す「だろう」の意味だ。これに話に続きがあるように思わせる昨今流行の語尾「し」をつけて「っぺし」となる。したがってこの場面を翻訳すると「ここだけの話、クスリとかやってるだろうし」となる。「ここだけの話」という重要情報が推測というのはいかにもおかしい。

仮に推測でよいとしても、この翻訳「やってるだろうし」は、どこか舌足らずな感じがしないだろうか。言うなら「やってるだろうし」ではなく「やってるんだろうし」ではないだろうか。これに対応する東北弁は「やってっぺし」ではなく「やってんだべし」となる。したがって「ここだけの話、クスリとかやってんだべし」ならば、まだなんとか成立した。残念なことだ。

なお、「っぺし」という語尾には、誘い掛けの「やろう」の意味の「やっぺし」「すっぺし」もある。関東圏でも「やっぺ」「やるべ」などとして使われているものと同源で、本来は「やるべし」「するべし」だ。これらの語尾の「し」が省略されたのが「やるべ」であり、語尾が残ったまま前半が促音化されたのが「やっぺし」「すっぺし」だ。しかしこの映画では「やってっぺし」と言っており「やっているべし」という、意味が通らないつながりになっているしそもそも文脈から、誘い掛けではありえないので、違うだろう。

こういう違いは、ネイティブの東北人でも、聞いたときに違和感を覚えることはできても、その違和感の正体を分析して表現できる人は希だし、何回も口に出していると次第に自分でもよくわからなくなるものだ。だからスタッフの中にネイティブの東北人がいれば済むというものではないのだ。これが、映画で間違った東北弁が使われ続ける本当の理由だと思われる。

そいうわけで、困ったときは私に声をかけてほしいものだ。かけられるわけないが。

アヒルと鴨のコインロッカー

テレビで『アヒルと鴨のコインロッカー』という映画を見た。

原作も読んでいたが、仙台が舞台の映画でロケも仙台ということで興味深く見た。

内容はともかく、東北弁が滅茶苦茶だった。いや、東北弁自体はメチャクチャではないのだが、用法があり得ないのだ。主人公たちは東北人ではない設定なのだが、それに話しかける地元の人たちの訛り方が尋常ではない。

バスの運転手やら店員やらアパートの住人やらが、主人公たちにあり得ないほどに容赦なく訛るのだ。しかも、当然ながら東北弁にも敬語とタメ口があるのに、すべてタメ口なので、まるで東北人は全員が無知で粗野で非礼な人たちのようだ。

そもそも今どき公共の場で、相手が標準語なのに手加減もなしに訛る若者などいるわけもない。テレビでは毎日標準語を聞いているし、あくまで東北弁は非公式なものだという意識があるから、学校の授業中でも先生も生徒も技術的な限界はあるものの、意識の上ではなんとか「よそゆき」の言葉である標準語を話そうとするのだ。そんなことはテレビでインタビューに答える東北の若者たちを見ればわかるではないか。

この映画での東北弁の違和感は、たとえていえば、横浜が舞台の学園ドラマだからといって生徒たちが授業中に先生に向かってタメ口で「ぼくんち二世帯住宅じゃん」と言うようなものなのだ。

どうせなら仙台の人にも違和感なく映画を見てもらいたいと思わないのだろうか。本当に不思議だ。

紛らわしい記事

今日のYahoo!のトップニュースに「卓球研究員 年収1450万円」とあるではないか。これは聞き捨てならんと腰を浮かし気味にしてよく見ると「卓越研究員」だった。紛らわしい。

かと思えば、我が家のハードディスクに録画されていたテレビ番組のリストの中に、見逃せないタイトルの映画が録画されていた。

当然、エリートアカデミーのある「ナショナルトレーニングセンター」の映画だろう。私にことわりもなく誰がこんな面白そうな映画を作ったのだと思いクリックしてみると「ナショナル・トレジャー」だった。まったく紛らわしいなあ。

地獄の中学バスケ部

昨夜は職場の送別会だった。

たまたま隣に座ったひ弱な感じの同僚M君が、最近5キロのマラソン大会に参加したというので意外に思っていると、なんと「中学時代に所属していたバスケ部で地獄を経験していたので5キロぐらいはなんでもない」という。「ほぉ」と思って詳細を聞いてみた。

M君が通っていたのはS県K市にある中学校だった。バスケ部の顧問は英語の教師だったが、とにかく狂っていた。まず、学校では部活は6時までと決まっているのに、なぜかバスケ部だけは夕食もとらせないまま毎日9時までだったという(M君はその後塾に通っていたので夕食は毎晩11時だったという)。

ランニングは朝練習で5キロ、放課後の部活前に5キロで(高島じゃあるまいし)、夏は体育館を締め切って水を飲ませずに練習をさせ(1995年頃の話だぞ)、誰かひとりが倒れるまで休憩をしない決まりだった。シュートを外すと大会中でもタイムアウトのときに生徒にパイプ椅子を投げつけ、骨折した生徒もいた。体罰は顧問の気分に左右された。

実力はK市で2位で県大会には行けなかった。

それほど狂った部であるにもかかわらず、同期の15人の部員はひとりも退部しなかったという。退部を申し出ようものなら床に血が飛び散るほど顧問に殴られるからだ。体調不良で休んでも殴られるので、一度も風邪をひかなかったという。

あるとき女子生徒の顔を何発も平手打ちして鼓膜が破れたのが問題視され、ついにその顧問は2年の途中で転勤になりM君の地獄は終わりを迎えた。

その後、M君は高校でテニス部に入ったが中学で経験した地獄と比較すれば楽なものだったという。

さらに大学では野鳥の会とボランティアサークルに所属し、いよいよ軟弱を極め、就職してからは合コンに明け暮れて現在に至る。

私はM君の中学時代の話を聞いてその顧問に心底腹が立ったのだが、意外にもM君は「今の自分があるのはあの地獄に耐えられたから」と肯定的だ。うむむ、時は人を変える。こういう感想があるから狂った顧問が野放しにされる隙がでてくるのだ。

卓球界にはそういう話がないことを期待する(あるの知ってるけどな)。

連載再開!

今月発売の卓球王国から『奇天烈逆も~ション』を再開することになった。

再開第一回は、再開の経緯についての小ネタを集めてみた。このブログにもちょくちょく書いたようなことだが、まあ楽しんでもらえると思っている。

高校生らしさとは何か

高校野球などで「高校生らしいきびきびとした試合態度」などと言われるが、それのどこが高校生らしいというのだろうか。たいていの高校生は、責任感がなくルーズで、隙あらば怠けようとし、考えることと言えば遊ぶこと、食うこと、異性のことばかりだ。

世の中に「高校生らしい」ものあるとすれば、そういうことのはずだ。本当に高校生らしく試合をさせたら、成人式の大騒ぎのようになってしまうだろう。

大人が高校野球に求めているのは高校生らしさなどではない。自分たちでさえできもしない「高校生にあるまじき理想の姿」を求めているのだ。

だから何だというわけでもないが。

誤解の心配

「ミライ☆モンスター」というテレビ番組で張本智和の特集をやっていた。

張本の凄さを見せるため、例のように台の隅に置いた的にサービスを当てるデモンストレーションをやっていたが、これまた例のように成功した1回しか映さないので、凄いのかどうかが全くわからない映像になっていた。1回だけなら素人でもすぐに当たるしそこだけ放送すればいいからだ。それで驚いて見せるスタジオの人たちもご苦労なことだ。

ということは作る方もわかっているのに1回しか映さなかったということは、2回連続は当たらなかったのだろう。もっとも、それができようができまいが、卓球の実力とはあまり関係がないのだからそもそもどうでもよいことなのだ。それがこのデモンストレーションの限界だ。

そのあと、スタジオでアイドルが的あてに挑戦したのだが、2バウンドめで当たりそうになったところで「2バウンドは反則」とテロップが出た。反則もなにも、そもそも的あてゲームをしているわけでも何でもなく、単に的あての難しさを実感するために試しているだけなのだから、2バウンド目で当たっても意味がないことは言われるまでもない。にもかかわらずいきなり「反則」と書かれたら、これを卓球のルールと誤解する少年少女が出てくるだろう。

実際、アメリカに赴任していたとき、職場のアメリカ人たちがそう思いこんでいたのだ。

私は中学生たちの技術の吸収力は信じているが、理解力はまったく信用していない。先日、教え子の一人が合同練習会に行って、スコアの書き方を習ってきた。11-3、7-11、11-9、11-2と書く代わりに(3、-7、9、2)と書く例の方法だ。ところがこの生徒は、この数字を相手との点差だと誤解し、いちいち引き算をして四苦八苦しながらスコアを書いて帰ってきたのだ。一緒に参加した他校の選手たちからそう教えられたという。

このテレビを見て「2バウンドが反則」だと思って明日から心を入れ替えて台から出るサービスを連発する少年少女たちがいることは間違いないのだ。

コンビニでの人間模様

長男が最近まで近所のセブンイレブンでアルバイトをしていた。

私と同様、人間観察が好きな長男は、客の職業による振る舞いの違いが面白いという。

特に対称的なのがトラックの運転手とスーツ姿のビジネスマンだ。

トラックの運転手はほぼ100%店員に対してタメ口であり、ビジネスマンは敬語だという。

そして、トラックの運転手たちは一応に人が良く、「おつり入れといて」と募金箱に寄付をする場合があるが、ビジネスマンはまず寄付をしないという。

確かに私も、常に敬語を使い釣銭を寄付したことなど一度もない。

単純な優劣ではない何かを感じる。

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