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戦艦アラバマ

先週はモービルという町に、博物館として展示されている本物の「戦艦アラバマ」を見てきた。私は戦艦には興味がなく、まったく知らない船だったが、第二次世界大戦で日本と戦った船だと知り、とても複雑な気持ちになった。

甲板に備え付けられた大きな銃を見ていると、これが「人を殺すために作られた船」であることを実感させられる。そして、その殺された人たちは我々の先祖たちなのだ。館内に展示された敵国兵士である日本軍兵士の人形と、神風特別攻撃隊の説明書きを見ると胸が締めつけられる。日本人と戦ったアメリカ人の気持ちもわかるし、逆もわかる。彼らはお互いにそれぞれの義務を果たしただけなのだ。

それにしても痛ましい。

戦艦アラバマの航行図を見ていたら、仏壇の写真でしか見たことのない、マニラで戦死した曽祖父の弟のことを思い出した。彼は岩手医専(岩手医大の前身)を卒業し、所帯を持って医者をやっていたが、あるときついに召集された。いよいよ出征の日、母親に会いに実家に来たが、「この戦争は絶対に負ける。生きては帰ってこれない」と言って母親の首に手をかけてぶら下がって泣いたという。一度玄関を出て、また戻ってもう一度母親にすがって泣いてから出て行き、家が見えなくなるまで何度も何度も振り返りながら行進して行ったそうだ。そしてマニラに軍医として配属され、そこで戦死した。どのように戦死したかは知らない。

この話は、一昨年、94歳で死んだ祖父から聞いた。死ぬ1年ぐらい前に、戦争のことを聞いておこうと根掘り葉掘り初めて聞いたものだ。祖父は、先の曽祖父の弟のことを上のように形容したが、自分自身については、なんと「軍隊は楽しかった」と語った。どこが楽しいのかと聞くと、ビシビシと指導されて規律正しい団体生活をするのが楽しかったと言うのだ。死ぬかもしれないとも何とも思わなかったと言うのだから呑気な話だ。鉄砲の安全装置をかけ忘れて上官にぶん殴られたことが思い出だと言い、軍隊時代の身分証明書のような札とそれが入った濃緑色の袋を大切そうに部屋の上の方に飾っていた。

戦争の話を聞いたとき、祖父も祖母も「こんな話をよく聞いてくれるな」と喜んでいた。もっと聞けばよかったと今では思うが、あれだけでも聞いて良かったとも思う。メモを取らなかったのが残念だが、まさか実家に遊びに行ってメモをとるわけにもいかなかったのだ。

シンクロ

友達からもらったDVDで、ちょっと前のテレビドラマ『ウォーターボーイズ2005夏』というのを見た。男子高校生がシンクロナイズド・スイミングをするドラマだ。

劇中、頭の悪い高校生が、看板に「シンクロ」と書こうとして「ツンクロ」と書いてみんなからバカにされる場面があった。それを見ながら私は心の中で「シ」を「ツ」に間違えている上に、小さい「ュ」が抜けてるじゃないか、と思った。

それでは「シュンクロ」だ。会社で作っている製品の不良の呼び名である。・・・絶句。

コーヒー牛乳を長崎宏子に

西公園プールで監視員をしているとき、中学校の水泳大会が開かれたことが何度かあった。ある大会のとき、私が休憩で事務室に入っていくと、けが人のためのベッドに水着の女性がバスタオルを肩にかけて座っている。

気にせず持参したコーヒー牛乳を飲もうとすると、所長が「なんだい条太、長崎さんにもあげだらいっちゃ」と仙台弁で言った。長崎さんもなにも、わたしはそんな人、聞いたこともない。しかも唐突に飲み物をあげろとはどういうことだ。しかし、なにかただならぬ雰囲気を感じたので、私は深追いせずに「はあ・・どうぞ」とだけ言って恐る恐る紙パックのコーヒー牛乳をコップに注いで差し出したのだった。後でその人は、まだ中3なのにオリンピックに出るかというほど有名な水泳選手で、中学校の大会に出に来て、足を怪我をして休んでいたのだと知った。そう思って後から気をつけてテレビを見ると、かなり有名であることが分かり、なんだか損をしたような気がした。

私のコーヒー牛乳を彼女が飲んだかどうかは覚えていない。ただ、まったく無言で少しも笑わず、愛想がなかったことだけははっきりと覚えている(知らないオヤジたちが好奇の眼差しでよってたかってコーヒー牛乳など飲ませようというのだから当たり前だ)。

テレビ出演

プールの監視員のアルバイトをしているとき、テレビに出たことがある。

西公園プールでは、毎年8月のもっとも暑い時期になると、「夜間プール」と称して、社会人にだけ夜9時ぐらいまでプールを開放する。このときに、地元のテレビ局が「今年も夜間プールが始まりました」などと季節の風物といった趣で、ニュースで取り上げるのだ。

撮影に来たのはNHKだったと思う。客のふりをしてインタビューをされる、いわばサクラが監視員の中から選ばれるのだが、それが私になったのだ。生放送だったのだが、困ったのは、本番の30分も前からずっと休まずに泳ぎ続けさせられたことだ。ちょっとでも休むと「続けてください」と言われる。いつ映ってもよいようにだとはいえ、とても疲れた(後に自分でビデオ撮影をするようになると、彼らの気持ちがよくわかった)。

いよいよ出番になると、マイクを持ってプールに入っている女性アナウンサーめがけて、「自然に」泳いでいって、声をかけられてインタビューに答えるのだ。私は事前の台本どおり「日中にプールに行けない我々社会人にとっては、夜間プールはありがたいですね」などと真っ黒な顔で答えたのだった。

偶然テレビを見た友人からは、「なんか水中カメラに向かって泳いでくるわざとらしい奴がいるな、と思ってたら条太で驚いた」と言われた。どうみても社会人には見えなかったそうだ。そりゃそうだ。

このプールの監視員の連中、なにかといえば水着を着ていない人をプールに突き落とす「もてなし」をしていて、女性アナウンサーも毎年、プールに投げ込んでいた。

私が赴任しているこちらでも、会社のホワイトハウスで集まりがあると、裏庭のプールに落とし合うのが恒例となっている。どこでも同じようなことをするんだなと思った。

プールの監視員

大学1年から3年まで、夏場には仙台市営の「西公園プール」というところで監視員のアルバイトをしていた。監視員のもっとも重要な役割は、おぼれた人を助けることだ。初めは、溺れる人などそういないだろうと思っていたのだが、溺れる子供は毎日当たり前のようにいるという。自分におぼれている人の見分けがつくだろうかと思ったが、先輩が「大丈夫、慣れるとすぐにわかるから」と言い、実際そのとおりだった。

プールで溺れる場合、よく映画やドラマでみるようにバチャバチャ暴れたりしない。初めは溺れると思っていなくて、トントンと飛び跳ねながらだんだんと深い方に動いていって(プールの底は斜めになっているため)、だんだんと疲れてきて、顔を水面に出すタイミングが不規則に長くなったらまず間違いなく溺れているので、監視員の出番だ。

周りは子供たちがいっぱいでも、みんな自分が遊ぶのに忙しいし、おぼれている人の見分けなどつかないから、誰も気がつかない。仮に声をだしてもみんな絶叫しながら遊んでいるので聞こえない。自分のすぐ後で友達が溺れていても気がつかないのだ。

中には監視員をからかって溺れたふりをする子供もいるが、彼らは本物を知らないので溺れた真似も全然似ておらず、だまされることはない。

そんなわけで、溺れている人を見つけられるようになったときは「俺もプロになったな」と思ったものだ。一夏に何人を救助したかわからない。プールと言うところは、監視員がいなかったら何人溺れ死ぬか分からないところなのだ。

このアルバイトで、世の中の人間というものの幅の広さを知った。ある成人男性が、子供を抱っこしてプールに向かって小便をさせていたのだ。気がついたときにはもう遅いし、こういう方と話ができる自信はなく、無視させていただいたのだった。

ナス?

卓球用のカバンから出したユニフォームがやけに臭いと思ったら、カバンの底から異様な物が出てきた。一瞬、ナスだと思ったが、なんとこれがバナナ。3月にアニストン・オープンに出たときのものだ。カバンの中にシューズやラケットとともに入っていたので、その重さでぴったりと潰れて黒くなっていた。恐ろしや。

パソコンの画面でこの写真を見ていると、三男が近くにあった分度器を画面にあて、「こうやって測るの?」と言った(そうやって測るものではない)。

この分度器がなんと、パソコンの画面に表示していた黒バナナと偶然にもぴったりだったのだ。それにしても、黒バナナの丸みがこれほどまでに正確な円であることと、画面での大きさが分度器にぴったりだったことが驚きだ。なんたる偶然だろうか。

錯覚

先週、コロンバスというところにベトナム料理を食べに行ってきた。以前はドーサンにもベトナム料理屋があったのだが、今はないので、アメリカに来て初めてのベトナム料理であり、大変おいしかった。

昼食にベトナム料理を食べた後、その近くのアーバンという町に行き、大きなプールに入ってきた。とても大きな滑り台があり、正面から見るとどう見ても、ほぼ垂直に落下するように見えたのだが、横に回って見ると意外になだからかだった。写真に分度器をあてて測ってみると、急な方でも48度しかなかったのにはあきれた。人間の目はかくも怪しいものなのか。

場内にはゆっくりと流れるプールもあるのだが、泳いだ客が、貸し出し用の浮き輪をどんどんプールに置いたまま上がっていくので、写真のように浮き輪だらけになる。かと思うと、幼児をさんざんプールで遊ばせた後、帰り際にオムツをはかせている人もいる。つまり、そういう幼児を海と同じつもりでプールに入れているのだ。もう慣れるしかない。

もう里帰り

早いもので、もう赴任してから1年半近くが経ち、6月の後半2週間、里帰りをすることになった。

里帰り中は、卓球王国編集部に寄って練習会に参加し、編集部の面々と卓球の勝負をしたい。とくに広州で一緒に仕事をした渡辺トモくんとは、会話をしていた限りではどちらが強いかまったく予断を許さない状況なので楽しみだ。広州で、二人で話すときに共通の知り合いを引き合いに出して自分たちの強さの比較をしようとしたのだが、いずれの知り合いも自分よりはるかに強い人ばかりだったため、比較の用をなさなかった(「弱いので有名な人」なんてめったにいるわけがない。こういうとき、レーティングがあると便利だ)。

ただ、トモくんがやるボル、平野の物まねを見るとかなりデキるということだけは推測される。あれほど選手の特徴を捕らえている人がメチャクチャなフォームということはないだろう。

次に興味深いのがバックハンド狂の高橋さんだ。フォームを見る限りでは一応「入りそう」だが、実戦と素振りは違う。それにフェアプレーを理想としているようだが実戦ではひどいバッドマナーらしい(自分で言っていた)。

編集長の今野さんは、なにしろ荻村伊智朗に直接指導を受けた人なのだから、頭頂にその着陸跡ぐらいはまだ残っているかもしれない(UFOか?)。

中国リポートの柳沢太朗さんは大丈夫な気がする。あれほどの博識な人は練習しているヒマはなかったに違いないし、知性が度を越した情熱のブレーキになり、激しい練習はできなかったはずだからだ。

久保はまあ大丈夫だろう。

結果は帰国後に報告するとしよう。

自分とは何か

「自分とは何か」といっても、よくある「自分探し」の話ではない。

『シックス・デイ』というクローン人間に関する映画をDVDで見た。中学生のとき藤子不二夫のSF短編『俺と俺と俺』を読んで以来、非常に興味を持っていた「自分とは何か」を考えさせられるテーマだ。

自分とは肉体、頭脳、記憶、意識のどれだろうか。多分、肉体だという人はいないだろう。おそらく、記憶と意識をもった脳こそが自分だと誰でも思うだろう。それでは、上記の映画やマンガにあるように、なんらかの方法で脳を記憶ごと複製できたとしたら、それは自分だろうか、それとも自分とは別のものだろうか。たぶん、「それは自分ではなく複製にすぎない」と言うだろう。しかし、なにしろその複製は、自分と同じ記憶を持っているので、複製本人としてはまさに「自分」のつもりなのだ。肉体が本物と違ったところがあったとしても、「肉体そのものは自分を決める重要なものではない」ことは先に認めているわけだから、それは判断基準にならない。だからその複製は敢然として自分であることを主張するだろう。

実はこの二人はまったく対等だというのが私の考えだ。

次に出てくる疑問。では、本物を殺して複製を聞かし続けても、それは自分が生き続けたと考えてよいか。これも、感覚的には抵抗があるが、実はそれで良いというのが私の結論だ。

なぜなら、我々は毎日それをやっているからだ。それは寝ることだ。寝ることによって、私たちの意識はそこで一度途切れる。翌日目が覚めたときに昨日の自分と同じだと感じるのは「記憶」があるためにすぎず、その絶対的な証拠ではない。

仮に科学が発達して、ある人が寝ている間に複製を作ったとしても本物との間に優劣をつけることはできない。つまり、自分が自分である保障はどこにもないのだ。毎朝目覚めているのは、自分の記憶を引き継いだ他人であると考えてもよい。それでは昨日の自分はどうなるのか、死んだと考えていいのか。その通り。眠るということは、意識がとぎれるという意味で、死んだのと同じことであり、だから我々は毎日死んでいるのだ。

なんと自分というもののあやふやなことよ。自分探しもへったくれもない。

と同時に最近思うことは、毎晩死んでは記憶を引き継いで目覚めることを、これを「生きている」と考えてよいなら、自分が本当に死んでも、友人やら子孫やら誰かが自分のことを覚えていてくれる人がこの世に残っていれば、実はそれもある意味で「生きている」と言えなくもないということだ。「○○さんは私たちの心の中に生きている」というセリフが、比喩ではなくて本質的な意味で事実と考えることもできるわけだ。

この話、何度か人に話したことがあるのだが、どうにも、うまく表現できたためしがない。

教師、指導、選手・・

昨日に引き続き、卓球王国7月号で紹介した、アメリカで売っているラケットの紹介をしよう。バタフライのラバー付きラケットなのだが、その製品名がすごい。

KYOSHI(教師)、SENSYU(選手)、SIDO(指導)、KODO(行動?講堂?)などというのがいったい製品名たりうるのだろうか。

もっとも、ヘタな英語を使えば状況はさらに壊滅的になるのだろうから(『キャバレーロンドン』、『居酒屋リバプール』のように。9/4参照)、このほうがマシなのかもしれない。どうして日本語としても製品名らしい名前にしないのかを考えてみた。これは、日本語を覚えようとして日本語学校に通っているアメリカ人が習いそうな日本語を使っているのではないか。あるいは、命名者自身が日本語学校に通っていて、覚えたばかりだとか。もうひとつの可能性は、まず製品名としてふさわしい概念を英語で考えて、それから辞書で日本語を見つけたということか。それにしても「教師」とか「指導」、「行動(講堂?)」などという製品群の名前の由来を説明することは難しい。