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困った教え子たち

久しぶりに卓球の練習をした。チャックとウォレンとやったのだが、練習にもっときてコーチしてくれと言われた。それは嬉しいのだが、その言い分が少しおかしい。

「お前が来ないから、俺たちは足を小まめに動かすこともしないし、膝で体を回転させるといったこともちゃんとしないんだ」と言う。コイツら、自分でどうやればいいか分かってるくせに、私が行かないからそれを実行できないと私に文句を言っているのだ。なんたる根性だろう。

「俺たちは小さい頃からまともなコーチを受けたことがほとんどないので、お前のような知識がある人からコーチされることに飢えているんだ」という。そこまで言われれば悪い気はしない。以前、アドバイスをして全然従わなかったことは忘れ、もう一度アドバイスしてみることにした。

さっそく、バックカットの足の位置を正してやった。ウォレンはバックカットで常に左足が前なので、いつもからだの内側でカットして、守備範囲がとても狭いのだ。すると、ウォレン、「そんなに足を動かしたらもつれて引っかかったりする」とさっそく反論してきた。お前、教えて欲しいんじゃなかったのかよ。「日本では中学生だってこんなことは当たり前のようにやっている」と言うと「そりゃ中学生ならできるさ。俺は40だぞ」ときた。ダメだこりゃ。

次にチャックだ。とてもいいドライブをもっているんだが、一本打つとすぐにバックのツブ高面で止める癖があるので、打てるときは打ち続けろと教えた。するとチャック、「俺は今までこのブツ高ブロックで得点してきたので、守備型だと思っている。週に1回しか練習もできないので、ドライブで攻め続ける技術を身につけることはできない。俺たちの相手はそんなに安定性がないから、この方法で十分勝てる」と言う。

私に何を求めているのだろうか。チャックの練習のとき、私のバックにボールを集めてもらってチャックのコートに散らす練習をしたのだが、チャック、何度言ってもこちらのオールコートに打ち込んでくる。さすがに何発も私が返せなくて練習効率が下がるので、「バックに打ってくれ」と言っても無言でオールコートに打ち込んでくるのだ。見ていたウォレンが「バックに集めろよ」と言うと「いいだろ、コートに入れてるんだから」と言う。

なんというか、日本ではこういう人は見たことがない。文化・教育の違いというのは本当に面白い。

オーディオの話 続き

昨日、オーディオの話を書いたら、さっそく二人の友人からメールがあった。心の琴線に触れたものと思われる。男は大なり小なりオーディオに興味があるものだなと思った。

女性でオーディオマニアというのは一度も見たことがない。車やバイクなら「買って乗る」という観点で好きな人は知っているが、「やっぱりCDはアナログレコードにかなわないね」とか「カセットデッキはナカミチじゃなきゃダメ」とか「端子が金メッキだと音がいい」などと口走る女性は一人も知らない。スピーカーを自作するなどもっての他だ。

さて、私の知る限り、もっとも強烈なオーディオマニアは、卓球でも用具マニアとして紹介している杉浦くんだ。そのスピーカーの自作の数は、ラケットの比ではない。ドーサンの隣町、デルヴィルの古道具屋で、自作スピーカー用のボックスが山ほど置いてある店を見つけたが、杉浦くんが見たら狂喜するんだろうなと思った。

彼のオーディオ好きに関連しては、いろいろと逸話があるのだが、もっとも強烈なものを紹介しておく。あるとき杉浦くんが「カセットデッキが故障しているのだが、店員がなかなかそれを認めない」という。それは困ったことだと思い、どんな故障かを聞くと「18kHz以上の音域で左右の音の位相がズレるんだよ」という。・・店員が認めないのも当然だ。音の位相の違いなんて人間にはわからないはずなのだが、どうやってわかるのかと聞くと、ステレオをモノラルにして聞くと左右の音が干渉して音質が変わるので、位相がズレていることがわかるのだという。つまり、普通に聞いていたのではわからないことをわざわざ分かるようにして聞いて、しかもイコライザーで18kHz以上という音域を特定して「故障」を発見しているのだ。

こういうことがオーディオマニアの世界では当たり前なのか、それとも杉浦くんのオリジナルなのかはわからない。これを故障だとねじ込まれた無防備な店員はさぞ困ったことだろう。

私のオーディオ顛末記

男は概してメカ類が好きなものだが、私はそれほどでもなく、バイクや車に興味を持ったことはない。しかしビートルズを聞いていた関係で、オーディオだけは中学生の頃から興味を抱いてきた。

しかし高価なものを買う機会はなく、ずっとラジカセだけで音楽を聴いていたが、大学3年のときに奨学金をもらえることになったときに、ローンでオーディオセットを買うことにした。それで仙台市内のある専門店に行ったのだが、なかなか濃い経験をした。私は友人が持っているようなものが欲しくて、KENWOODのデッキだの、ダイヤトーンのスピーカーだのを買おうとして、一本7万円ぐらいのスピーカーをいろいろと聞き比べていた。

するとそれらの中に、いかにも異様な外見のスピーカーが混じっている。他のものは音が出るところに金属の網がはってあってメタリックな感じなのに、そのスピーカーだけスポンジみたいな表面でそっけない。大きさも小さく、まるで鳥の巣箱のようだ。ところが値段は他のものよりも高いのだ。不思議に思った私は店員に「これは何ですか。どうしてこんなに高いんですか」と聞いた。するとその若い店員は「聞いてみたい?」と言う。

それで鳴らしてもらって驚いた。バイオリンの曲だったのだが、音の滑らかさがまるっきり他のスピーカーと違うのだ。これと比べると、他のスピーカーの音はまるで笹笛のように割れた音にしか聞こえない。「なにコレ?」と驚くと、その店員は「ほう、耳は確かなようですねえ」と言う。客に対する応対としては失礼な発言だが、これはかなり自尊心をくすぐられる。素人ならすっかりその気になるところだ。もちろん私は素人なのですっかりその気になった。

「じゃ、他のも聞いてみる?」と言われて連れて行かれたのが二階のフロアだ。これが一階とは異なり、すべて外国製の見たこともないオーディオ機器ばかり置いてあるVIP専用フロアと言う感じで、ひとりの客もいない。化け物のような形のスピーカーも置いてある。そこで親玉の店長がうやうやしく出てきて、いろいろオーディオ論をぶった。売る前にまず私を洗脳しようというのだ。「JBLがジャズ向きだというお客さんがいますが、私はそう思わないんですよね」「何向きなんですか?」「あれは飾りですねえ」「タンノイがクラシック向きだと言う人もいますが、私はそう思わないんですよね」「何向きなんですか?」「あれも飾りですねえ」といった調子で、この人、抜群に話が面白い。

その店長のお薦めのエレクトロボイスというメーカーの『オパール』というスピーカーを試聴すると確かに怖ろしく良い。結局、カセットデッキとアンプとスピーカーだけを買いに行ったはずが、薦められるままに真空管アンプとかレコードプレーヤーとかいろいろと買ってしまったのだった。

さすがにレコードプレーヤーが24万円もしたのは後悔して、翌日返しに行った。ところが、アームやらカートリッジやら別売りの部品をすでに組み立てたので返品はできないという。そうこうしているうちに、前日の私と同じように二階におびき寄せられた学生風の男が、やはり私と同じように店長の演説を聞きはじめた。「彼にも同じプレーヤーを薦めるので、彼が買うことになったらそっちに回すからいいよ」と店員が私に耳打ちをした。30分ぐらいすると、その学生は見事に私と同じプレーヤーを買うことになり、私は無事、返品をしてもっとずっと安い中古品を買うことができた。後で会社に入ると、その店から『オパール』を買った人に何人も出会ったのには驚いた。店ぐるみの底知れない接客術である。

この『オパール』というスピーカー、確かにバイオリンとか静かで美しい曲には息を呑むほどいい音を出すのだが、私がよく聴く、ビートルズやハードロック、パンクにはまったく合わないことが買ってからわかった。しばらく失敗を認めたくなくて、そのスピーカーに合うCD(シャーデー、ジョージャクソン、スティングなど)を買うということまでしたが、これこそ本末転倒だ。

ビートルズやパンクといった音楽は、私の場合、ラジカセやカーステレオの方が良かったのだ。最近では、そもそも音質自体、重要ではないと思ってきている。妻はもっとも好きなのはジミ・ヘンドリックスで、ニョロニョロになったテープのラジカセでも全然気にならないと昔から言っていて私はバカにしていたのだが、今になって同じ考えになってしまったのが少し悔しい。

それで、アメリカに来るときにヤフーオークションでオーディオ機器をすべて売った。先の恐るべき接客術のオーディオ専門店で買ったSMEのアームだのトーレンスのなんとかやスーパーウーファーが高く売れて、レコードやギターなど合わせると全部で26万円にもなった(下の写真が売る前の最後の記念写真だ)。私には高級オーディオが必要ないことがわかるのに20年かかったわけだ。

アメリカの家

休日に子供たちと建築中の家を見に行く趣味は今も続いている。趣味と言うほどでもないが、他に散歩をするところもないので、次々と建てられる新しい家にターゲットを移しながら見て回っている(我々が毎週のように内部を散策していた家が、そのうち中に入れなくなって、売れて誰かが住むようになるのを見るのは感慨深い)。そういえば、日本に7年住んでいた宣教師のデイブも、日本にいたときには近所の建築中の家を見に行っていたという。やることは同じなんだな。

建築中の家を見て気づいたのだが、太い柱というものがない。全部、同じくらいの太さの平べったい板ばかりだ。さらによく見ると、なんと、どの板も70cmぐらいの長さのものが接続されてできていて、一体ものの板は20本に1本もない。鉛直な板と板の接続は右の写真のように、金具もなくてただ差し込んでせいぜい接着剤を入れただけのようだ。さすがに水平な板には薄い金属片がついているが、これもかなり心もとない。

この辺りでは地震がまったくないので、揺れに対する強度が必要ないのだろう(トルネードがきたらどっちみち吹き飛ばされる。なにしろ地面に生えている木さえ引き抜かれるってんだから)。日本の頑固な大工さんが見たら「こんなのは絶対ダメだ。家じゃねえ」などと言いそうだなと思いながら見ていた。

他にも構造的な違いが沢山あるんだろうが、私が気づいたのはそれぐらいだった。

あと、ここいらの家で気づいたことといえば、どの家にも雨樋というものがないことだ。雨は結構降るのだが、軒下でダーッと滝のように流れても別段、気にしないようだ。雨樋は、売っていないわけではないので付ければ付けられるが、多くの家は付けていない。ところ変われば考えも変わるのだ。

さすが卓球王国、中国

ウエブ検索をしていたら、あるサイトで素晴らしい写真を見つけた。その方もウエブでたまたま見つけたらしく、この写真の由来はわからない。もしかするとCGとか特撮の可能性もあるし、何かのCMとか映画の1シーンかもしれない。とにかくまったく情報がないのだが、それにしても素晴らしい写真だ。貧しさを思い起こさせる白黒の画面、工作心をくすぐるミニチュアの卓球台、子供の躍動感。

なんと楽しい気分にさせられる写真だろう(ただしこの子供、どういう経緯でこんな姿勢になっているのかが分からない。多分、入らないだろうこれじゃ)。

ジャパン!

仙台にいたとき、近所に中華料理店があった。8畳ほどの小さい店で、無口な中年の男性がひとりで料理をしていて、中国人の女性がレジと接客をしている。確かめたわけではないが、多分夫婦だと思う。この女性がとにかく愛想が悪く、しかも日本語がとてもぶっきらぼうで、不愉快を通りこして可笑しかった。

店に入るとガラガラなのに「ここ、座る!」と怒ったように座るところを指示される。なにしろこの女性、絶対に笑わないのだ。笑顔を一度も見たことがない。可笑しくもないのに笑っているファミレスの店員や宗教の人を見るのも辛いが、これもつらい。

食べ終わってレジに行くと「650!」などと言う。「円」くらい言えないものか。どっかのサービス過剰な居酒屋みたいに「喜んでー!」などと言う必要はないが、「650!」はないな。でも可笑しくてよい。

いつだったか店内に上着を忘れたら、出がけに追いかけてきて「ジャパン!」と言われた。・・・ジャンパーのことらしい。こんなに面白い言い間違いは、考えてそう思いつくものではない。素晴らしい。

この店、店員はひどいのだが料理の腕は確からしく、どの料理もとても美味しくて根強いファンがいたのだが、アメリカにくる直前に閉店してしまった。残念なことだ。

一番弟子の戸田の世界選手権広州大会評を貼っておく。http://jpnuttl.org/public/sub18.html興味のある人は見てください。タイトルの『奇想天外 ボディハイドスト~リ~』はもちろん私の『奇天烈 逆も~ション』のパロディだ。

犬と猫

広州から帰りがけ、今野編集長から「帰国したらすぐに原稿送ってください」と言われた。世界選手権の観戦記を2ページ書くことになっているのだが、てっきり4月発売号に載せるんだとばかり思っていたら、3月発売号で、締め切りは「できるだけ早く」だという。ひぇー。今から3月15日ぐらいまでに誌面を完成させる気なのだ。

実況ブログに書いたものを適当にまとめて送ったが「つまらない」と却下。厳しい。直してやっとOKとなった。今回は連載始まって以来、初めてのカラーなので、誌面を見るのが楽しみだ。

編集の野中さんからめずらしくイラストの指示があったのだが、それが面白い。「犬が卓球を見てよだれを垂らしていて、顔だけ条太さんにしてください」とのこと。これだけ聞くと異常だが、ちゃんと理由があるので、誌面をお楽しみに。下に、ボツになった「顔が犬バージョン」を載せておく。こんなヘタな絵でいいのかと思うだろうが、私の場合はこれでいいのだ。

犬と言えば思い出すのが、イラン人の犬嫌いだ。イランに旅行したとき知ったのだが、イランでは犬は不浄の動物と考えられていて、みんなが犬を嫌いなのだ。ガイドのアリさんという人、とても優しくて面白くていい人なのだが、私がわざと犬の話をすると、とたんに別人のような意地悪な顔になって「犬・・ねえ、ケッ」というようなことを言ったのが面白かった。そんなに嫌いなのかよ犬。

犬嫌いの次は猫嫌いだ。私の義母は「ね」と聞いただけで「ぎゃっ」と飛び上がるほどの大の猫嫌いだ。彼女はかつて小学校で教諭をしていたのだが、最大の問題は、家庭訪問だったという。それで、家庭訪問の時期が近づくと教室で生徒達に「犬を買っている人、手をあげてー」などとカムフラージュしながら徐々に猫を飼っている家を突き止めて、血眼でチェック。そしてその子には、「先生は猫の毛にアレルギーがあるので、家庭訪問のときは出てこないように隠しておいてね」と一見やさしく、しかししつこく何日もかけて絶対に忘れないように念を押すのだという。そうやってほとんどの場合は、事なきを得ていたのだが、ある家に家庭訪問に行ったときに事件は起きた。押入れに猫を隠していたのを忘れて、家人が開けてしまい、喜んだ猫がものすごい勢いで飛び出してきて義母に飛びかかったという。そのときの義母の驚愕を想像すると、申し訳ないが可笑しくてたまらない。

顔を近づける人の話

以前、職場にYさんという上司がいたのだが、この人、誰が見ても異常な特徴があった。人と話すときに異常に顔を近づけるのだ。耳が遠いわけではない。ただのクセなのだ。しかも唾がビュンビュン飛ぶ。その人と歩きながら話すと、逃げる相手をYさんが追うので、二人で曲がって歩くことになる。それが廊下なら壁に追いつめられるだけで済むのだが、街の舗道を歩いているときなど、舗道の端ぎりぎりまで追い詰められて、あわや車道に落ちそうになるほどだ。さすがにこれらのことを本人がどう考えているのかは話したことがないのでわからない。

私はYさんと隣の席だったのだが、初めて彼と話したとき、顔を異様に近づけるので、てっきり内緒話をするのかと思ったが、そうではなかった。あるとき、Yさんがいないときに課員でそのことについて話し合ったことがある。彼は、距離が近ければ近いほどいいのか、それとも他人よりも短いだけで、彼なりに最適距離があるのか、という問題だ。なにしろ、誰も彼が満足するまで近づいたことがないのでわからないのだ。そこで、彼と面対称の動き、つまり間に鏡があるごとく、彼が近づいたらその分だけ近づいてみようということになった。それで実際に試してみた。彼が近づいたとき、待ってましたとばかり顔を突き出してやると、彼は極めて不快そうに顔を引いた。つまり、彼にも最適距離があったのだ。何か動物の習性をひとつ解明したような満足感を覚えたものだった。

似たような性向の奴が学生時代の後輩にも一人いた。不思議なのは、中ぐらいの人がいないことだ。異常に顔を近づける人はいるのに、ほどほどに近づける人というのがいない。もしこれが遺伝子によるものだとするなら、それが生き残ったメカニズムはどのようなものだろうか。顔をぎっちりと近づけて話し合うことによって仲間の体調が分かるメリットがあったとか、あるいは単に近眼だったのだろうか。4,5人の原始人たちがYさんのように全員で顔を近づけて話している姿を想像していると、なんだか気持ちが悪くて楽しい。

日本代表チームと記念写真

広州の世界選手権で、日本代表の女子チームと写真を撮ってもらった。

家で9歳の息子に自慢してみせると「この中で一番強いのは誰?」と聞く。私にも覚えがあるが、こいつは、いつもそういう無意味な質問をするのだ。聞いてどうするわけでもないが、聞きたいのだ。それで、一番活躍した平野早矢香選手(私の右隣)を指差した。すると、息子、「一番弱い人は?」と聞く。ちょっと判断できないので「わからない」と答えると「えー、お父さんじゃないの?」だとこのガキ。そういう意味かよ。わかってるなら聞くな。

アホたち

会社から帰って夕食を食べていると、双子の息子たちが「とっても面白いことを考えたから見て」という。そういうことはだいたい面白くないのだが、一応見てやった。

すると、手を動かさないで頭を掻く方法だと言って、二人で手を固定して頭を左右に振った。あまりのバカバカしさに大笑いし、写真に収めてやった。大丈夫なんだろうかこいつら。