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台湾の光景

台湾の食事はすべてがとても美味しかった。現地の赴任者が安くておいしい店を知っていて、そこに連れて行ってもらったからだ。といって、観光客用の店がまずいわけではなくて、とても美味しかった。

現地の年配の方は結構な確率で日本語を話す。しかし表記となると難しいらしく、あちこちに奇妙な日本語が散見された。

また、当然のことながらすべて漢字で書かれていて、なんとなく意味が解るのだが、それが微妙に面白い。

和風美人腿(もも)というのがレストランにあるのだから面白い。これはどういう意味なのだろうか。まさかとは思うが・・・。

多くは語らないが、ともかく美味かった。

街に溢れる漢字もイマジネーションを掻き立てた。

魔法のような歯医者らしい。

やっぱり可愛い髪型に切ってくれる床屋なのかなあ。あるいは髪の毛の医者かな。

儲け話があるから聞けってことかなあ。あるいは夫婦でよく話し合えとか。

台湾の卓球場「媽媽桌球俱樂部」

卓球用品店を後にした私はそのままタクシーに乗って、卓球場へ向かった。卓球をなんと発音するのかタクシーの運転手さんに聞いたが、まずその質問の意味を伝えられず四苦八苦した。いくら聞いても「ピンポン」と言ったり、「その卓球場は知らない」というそぶりだ。最後に「発音」と書いたらわかってくれて、「ツァオ・ツィオー」と教えてくれた。私が真似をするとかなり違うらしく、何度も何度も言われ、しまいには「ツィオー」のところだけ6回ぐらい言わされ、最後に「チ」だけを10回以上言わされたが、最後まで彼のお気には召さなかったようだ。それもそのはず、私には彼の「チ」と私の「チ」のどこが違うのかまったくわからなかったのだから直しようがないのだ。

そんなこんなで、目的の「媽媽桌球俱樂部」に着いた。媽媽はママと発音し、要するにホビープレーヤーを対象とした「ママさん卓球クラブ」だということが後でわかった。ウエブサイトには日本語表示もあった。http://mamapingpong.com/japanese.htm

入り口を入ると地下に降りる階段があって、目の前に楽しげな卓球クラブが現れた。中国語の文字の雰囲気も手伝って、さながら極楽に来たようであった(大げさだが)。

雑然としたカウンターは日本の卓球クラブと似たようなものだ。

鳥小屋のように金網で囲われた台もあって楽しい。明らかに素人の親子が延々と多球練習をしていたのだが、子供がラケットにさっぱりあたらないのにランダムのコースでボールを出す練習の効率の悪さに、すんでのところでアドバイスをするところだった。

店主の女性によれば、このクラブは創立40年で、もともとは彼女の母親が始めたものだという。その母親とは、元台湾代表の桃足という選手で、お父さんも卓球選手だったという。

私が「日本から仕事で来ているが卓球が大好きで、日本の卓球雑誌に記事も書いている」と吹いたら(嘘でもないんだが)、喜んでいろいろと説明してくれ、卓球までやらせてくれた。

会場にいた選手は、コーチの二人を含め私の相手にならなそうなへんてこなフォームだったが、いざ練習をしてみると、まったくノーミスである。最初の10本ぐらいすべて私のミスでラリーが終わるのだ。これはただ事ではないと思い、試合形式の横下サービスを出したところ恐ろしく短く切れたストップをされてノータッチを食らった。なんだなんだなんだ。こちらがスーツで外靴だったとはいえ、これはない。聞くと週に3日は練習しているという。たぶん試合をするとスコスコにされるのだろうな、という認めたくない予想が立ったので、礼を言って卓球を止めた。相手は英語を話し私を「素晴らしく基本ができている」と褒めてくれたが、そんなものができてもストップをノータッチじゃ話にならない。日本の卓球はどこか間違っているのだろう(私の卓球を勝手に日本に拡張してやった)。

卓球地獄だ。

ショーケースに面白い絵があったので由来を聞くと、ここで強いママさんに負けた男性が腹いせに「この女はオオカミなのに違いない」という意味を込めて描いたものだそうだ。「この人は絵の天才なの」と言っていたが、どこがだろうか。

最後に、この卓球場の広告が載った新聞をいただいて帰ってきた。楽しいひとときだった。機会があったらまた行きたいと思う。

見出しの「街頭夜猫族」ってのがなんとも楽しい。宮根さん、意味教えてください。なんとなく見当はつきますが。

台湾の「麒麟卓球用品店」

今週は仕事で一週間台湾に行ってきた。仕事だからもちろん卓球のことなど頭になかったのだが、タクシーで移動中に「卓球」の文字がなんと二度も目に飛び込んできたではないか。ひとつは卓球用品店、もうひとつは卓球場だ。完璧だ。これは「行くな」と言う方が無理である。早速場所をメモして、仕事が終わった金曜の夜に行ってきた次第だ。

まずは「麒麟卓球用品店」だ。麒麟とは日本語ではキリンだが、中国語でどう発音するのか聞くのを忘れた。

行ってみると、なんともさびれた古い感じの店で、店内の壁には藤井則和やバーグマン、ヘタするとそれ以前の写真が大きく引き伸ばされて飾られていた。79年頃のハンガリー男子やら83年東京大会やらの写真もあり、どうやら80年代で時間が止まった店なのであった。写真撮ってよいか聞くと「オーナーがいないので判断できない」との返事で、しかたなくこっそり撮った(どう考えても問題あるとは思えない)。

ご覧のように、骨董品屋というわけでもないのだろうが、自然に卓球の骨董品屋になってしまったという感じの店なのであった。

しかしラケットやラバーはちゃんと新品が売ってあって、なぜかホッとした。ド田舎に行ってセブンイレブンを見つけたような気持とでもいおうか。

ガラスケースには、もう何年も誰も買っていない感じで、キーホルダーやボールケースなどの小物が飾ってあった。念のために下の方に隠れてあるのを見せてもらったところ、突然、お宝がぞくぞくと出てきた。

89年ドルトムント大会のメダルだ。誰かのメダルかと思ったらさすがにそうではなく、単なる記念品らしい。もう無条件でゲットだ。

こちらはガラスの中に卓球台が封じ込められてある灰皿だ。タバコは吸わないので灰皿は使わないのだが、こんな粋なものを見せられたら買わないわけにはいかない。だいたい、私が買わずに誰が買うのだこんなもん。ガラスが曇っていて、いくら拭いても取れなかったのが残念だ。

極め付けがこれだ。ハンガリーの3銃士とステパンチッチ、シュルベクにセクレタンのコースターだ。こんなもん、買わずにいられる卓球マニアがいたら教えてほしい。こんなのが重ねられて袋に入って下の方に埋もれていたのだ。写真は明らかに77年バーミンガム大会のものだ。私に買ってもらうために実に37年間もこの「麒麟卓球用品店」で眠っていたのだ。

さらにニッタクの名刺入れだ。こんなのまで買ってどうすると言われそうだが、そういう問題じゃないだろ?ん?

ついでに、中国語も読めないのに、迫力ある指導書を買って締めとした。

死にそうな練習だ。

アニメ『ピンポン』

先日からテレビで始まったアニメーション『ピンポン』を見ている。

昨日録画を見た回では、卓球雑誌が出てきて、なんとその誌名が「卓球王国」と書いてあった。普通、作中に出てくるときは「卓球玉国」とか「卓球王固」とか微妙に違うものにするものだが、モロ本物と同じである。値段も本物が720円に対して作中では700円だった。『奇天烈逆も〜ション』も載っているのだろうかやはり。

一方で、ボールにこだわる特集と言いながら、そこには「直径40mm、重さ2.5g」とあり、明らかなルール違反なのであった(笑)。40mmボールは2.7gであり、2.5gは2000年までの38mm時代の重さだ。ひとこと私に相談してくれれば教えたものをなあ。相談くるわけないが。

ちなみに、作中の別の場面の台詞ではちゃんと2.7gと言っていた。細かいね俺も。

原作のマンガではこの雑誌名は『卓球通信』と実在しないものになっていて、値段が300円で『ニッタクニュース』と同じになってる。

さらに、2002年に公開された実写映画版では雑誌名ははっきりとは出てこないが、表紙の一部がわずかに見えるシーンがある。

おそらくこれは『卓球レポート』のトの部分が見えているのであり、その下の数字は6だから、いつかの年の卓球レポートの6月号だろうと推測される。映画の公開は2002年だから当然、2002年以前ということになる。そこで、その近辺の卓球レポート5年分を探してみた。

すると、映画と同じレイアウトなのは2000年だけであり、その6月号は色合いもかなり似ていることがわかった。『卓球レポート2000年6月号』に決まりだ!

だからどうだってことはないが・・・これがマニアというものだ。

今後の『美味しんぼ』理想のストーリー2

東京に帰った山岡は原因不明の鼻血を訴える。

山岡「なんかオレ、鼻血がとまらないんだ」

ゆう子「いいから鼻にティッシュでも詰めてさっさと朝飯食べてちょうだい。こちとらガキどもを幼稚園に連れて行かなくちゃいけないのよ」

山岡「でも、この鼻血はただごとじゃないって思うんだ」

ゆう子「はいはい。先週は七福神が枕元に現れるし、その前は円盤にのって金星に行ってきたんだったわよね。鼻血くらいどうってことないじゃないの。もう嫌。」

山岡「おい、どうして泣いてるんだ?」

ゆう子「なんでもないわ。とにかく早くご飯食べて!お願いだから。」

海原「ワーッハッハ、朝からこんな飯とは侘しいことよ貧乏人めが!」

山岡「なにっ!どこから入ってきた!ドロボー、ドロボーだっ!」

海原「ワーッハッハ、見かけによらずこの卵焼きは旨いじゃないか。」

山岡「ああっ、やめろ、返せ!返せよォー」

ゆう子(二人に包丁をつきつけて)「朝っぱらからいい加減にしろよなテメエら。死にたくなかったらさっさと黙って飯食って出て行きな!」

山岡「あれ、雄山、鼻血が出てるぞ」

海原「ああ、ハナクソほじりすぎた」

今後の『美味しんぼ』の理想のストーリー

東京に帰った山岡は、「被ばくしたために鼻血が出る」と言っていた人物がどういう人物なのかをネットの動画で確認をしてみた。するとそこには「東日本大震災の8日前に政府は地震と津波が来ることを知っていながら国民に隠した」と主張する姿が。

山岡「なっ?こ、これは・・・典型的な与太話じゃないか!」

ゆう子「そう!アポロは月に行っていないとか、911はアメリカの自作自演だとか、ユダヤ人虐殺はなかったとかいうのと同じレベルの話なのよ!」

海原「お前の弱いオツムでもそれくらいのことは分かるか。いいか、士郎、お前の軽率な発言が読者に誤解を与え、福島や大阪の人たちに要らぬ不快感を与えたことをどう責任をとるつもりなのだ。」

山岡「なにっ!自分だって感心して話を聞いていたくせに今さら何を言う!恥を知らないとはこのことだっ!」

海原「ワッハッハ。俺はお前を試したのだ。世の中はいろいろな情報で溢れている。それらの真偽をすべて確かめるわけにはいかないから、どれを信じるのかで自分の知性が問われるのだ。ましてそれが風評被害を引き起こす重大な主張であれば慎重に発言するのが当然。お前は自分が真実を知った優越感とそれを大衆に知らせなければならないという正義感の誘惑に目が眩み、その検証作業を怠ったのだ。そんな姿勢では本当に旨い料理など造れるわけがない。」

ゆう子「最後の料理と話がつながってないわ。話がヌメヌメとしてつかみどころがなく強引なのよ!」

山岡「くそっ。こんなことなら出した鼻血を豚肉と混ぜて本格的な腸詰ソーセージを作って一気に勝負をつけるのだった!」

雄山「ハーッハッハ。今さら遅い遅い!私など鼻血どころかケツから出た血までご飯にまぜて炊き上げお前たちに食わせてしまっておるわ!」

ゆう子「わあ、それで今朝のご飯は異常なコクがあったのね」

山岡「いいからお前は黙ってろ。くそー雄山、覚えてろ」

海原「お前こそ、自分が風評被害を作った罪を忘れるんじゃない。この後自分が何をすべきか分かるな」

その後、鼻血を混ぜた魚肉ソーセージを「ビーフ100パーセントハンバーグ」と偽って1万円で売りながら屋台を引く山岡夫妻の姿があった。

海原「むう・・・その手があったか・・・・。今回は私の負けだ士郎!」

風評被害を作る方法

マンガ『美味しんぼ』に、福島の住民が「原因不明の鼻血が出る」というセリフを言う場面が掲載され、風評被害を助長すると非難されている。作者は「事実を書いてダメなのか」と、反論をしているが、そういう事実だけを書くのはダメに決まっている。その事実を書くなら、同時に、他の県の住民には原因不明の鼻血を出す人がどれくらいるのか、そもそも放射線が原因で鼻血を出すことがあるのかといったことも書かなくてはならない。

こんなことが許されるなら「福島の隣県に住む私、伊藤条太は最近、頭髪の抜けが止まりません」とか「女川原発に近い地域に住む私は最近、下腹がどんどんと出っ張り糖尿病が懸念される状況です」と書いてよいことになる。これらはいずれも紛れもない「事実」だが、これだけを書けば読者にある間違った印象を与えることになる。それが誰の迷惑にもならないことならよいが、誰かの迷惑になることなら苦情が出るのは当たり前だ。

「事実を書くことがなぜ批判されるのか」という反論がそもそもおかしい。こういう問題の場合、事実を書くのは当然であり、それがマイナーな事実ではなくて全体を代表する事実なのかどうかだ。だから作者の正しい反論は「事実を書いた」ではなく「福島の住民の原因不明の鼻血の出る人口当たりの頻度が他県より異常に多く、福島原発からの距離に近いほどその頻度が高い」という「事実」ではなくてはならない。それがあるのならそれこそどんな圧力がかかろうとも描いてほしい。

そういった事実がない場合、このマンガの正しい収め方の妙案がある。この後の話で「福島県にはこういう、統計的な検証もなしに鼻血だと騒ぎ立てる人がいますが、こういう思い込みこそが我々の敵なのです」と締めることだ。一度反対の方向でメディアを騒がせ、最後に強烈な正しい大衆啓蒙をした作品として私は賞賛するだろう。風評被害も帳消しになって売り上げも超過回復が期待できる。

N線事件

科学の歴史の汚点のひとつにN線事件がある。

ある科学者が新しい放射線としてN線を発見したのだ。これをある条件で火花に当てると輝きが増すのだという。当時はその輝きを測定する方法がなかったので、人間が目で見て判断をしていた。それが発表されると「自分も確認した」という科学者が続出し、300もの論文が書かれたが、ある科学者がどうしても再現できず、N線の発見者のところに出向いて実験をしてもらった。そこで実験者に内緒でN線の通り道に障害物を置いたり外したりしたところ、実験者が感じる火花の輝きは、まったくの思い込みによるものであることがわかったのだという。その公表によってN線は存在しないことがわかり、人間の思い込みの危険さが記憶されることになった。しかし当の発見者だけは生涯N線の存在を信じ続けたという。

現代でも、新薬を評価するときには患者の半数に偽の薬を与え、患者にも診断をする医者にもどの患者が偽の薬が与えられたかがわからないようにする二重盲検法によって薬の効果を判断する。思い込みによる影響を排除するためだ。

科学者や医者でさえそうなのだから、オカルトがかった芸術家たちが思い込みの影響を受けないわけがない。受けるに決まっているのだ。その思い込みは300年以上という時間と高額な金をも費やすほどだ。ブランドテストによって差がないと証明された後でもなおストラデイバリウスの価値が揺らいでいないことがそれを証明している。論理的思考をする科学者ならこういう証明をされたら考えを変えるが、芸術家は論理よりは思い込みの方が勝って、信念が変わらないのだろう。また、それほどの思い込みがなくては一流になどなれないのだ。スポーツ選手も同じである。

なので、我々外野は、社会や自分自身に無害な思い込みは放っておいて、害が及ぶときだけ「それは思い込みだから違う」と指摘するしかないのだろう。

ストラディヴァリウス〜魔性の楽器 300年の物語

昨晩、NHKスペシャルでストラディヴァリウスの番組を見た。昨年11月に放送された58分の『ストラディヴァリウスの謎』に、未公開映像を追加して作った89分の豪華版だ。

これがとても面白く久しぶりに知的興奮を覚えた。何が面白いって、前回よりも科学的な計測やヴァイオリン製作者やヴァイオリニストが沢山でてきていろいろと調べたりストラディヴァリウスへの愛情を語ったのだが、前回このブログでも取り上げた「ヴァイオリン製作者と専門家がストラディヴァリウスと他のヴァイオリンのブラインドテストをしてもさっぱり当たらない」という、もっとも重要な、ストラディヴァリウスの謎の根幹にかかわる部分がすっぱりと削除されていたことだ。こんなに面白いことがあろうか。

新たに加えられていた映像にも素晴らしい話があった。「希代の天才ヴァイオリニスト」と言われるマキシム・ヴェンゲーロフという人の話だ。彼はストラディヴァリウスを使っているのだが、あるコンサートのときに愛器の音が思ったような音が出なくて苦労したという。ところが休憩時間に母親がその愛器に何かを囁きかけると、驚くべきことに後半は最高の音を出したのだという。囁きかけて楽器の状態が変わるはずはないので、彼の弾き方が変わったのか、あるいは出ている音は同じなのに彼の感じ方が変わったということである。同じ日に同じ楽器を弾いて楽器に対する評価が変わるのだから、演奏の再現性がないにせよ音の感じ方の再現性がないにせよ、いずれにしても、彼には「楽器の微妙な違い」を認識する能力がないことを明確に示している。したがって、そういう人がストラディヴァリウスの音を絶賛してもほとんど意味がないということになる。

前回の放送と合わせて考えると、ストラディヴァリウスの謎はとっくに解けている。ストラディヴァリウスと他のバイオリンに違いなどない。実態のない違いの正体を追い求めているために、いくら科学的研究をしても答えが見つからないのだ。これが謎の正体である。バミューダ三角海域やナスカの地上絵、ミステリーサークルと同じく、謎などないのに、あると思いたい人たちとあると都合がよい人たちがあることにしているだけなのだ。

それにしても、興味深いのはNHKの人たちがどういう考えで前回と今回の番組を作ったのかだ。彼らは「専門家でもブラインドテストで違いが判らない」という取材をした段階で「音の違いはないんだな」と思ったはずである。この場面を掘り下げると「音の違いがないのだからストラディヴァリウスに謎などない」という結論になってしまって番組が成り立たない。かといって削除してしまうのは良心が咎めるので、「わかる人にはわかる」ようにこの場面をあまり掘り下げずにあっさりと流し、なおかつ「わからない人」には「専門家でも音の違いがわからない」ことすら謎のひとつに印象付けるという、いわば「両面待ち」の考え方で製作をしたのではないだろうか。

そんな秀逸な判断で前回の58分版に入れたこの場面を、今回の89分版から削除したのは、この5か月の間に何事かを考え(笑)、誤った印象を流布しないという良心よりも、作品の面白さを優先する決断をした結果なのだろう。そのかわりに採用されているヴェンゲーロフのオカルト話が、わずかな良心の痕跡ということだろうか。

あるいはそもそもここに書いたような理屈がピンとこない人たちばかりで、なんとなーく気分次第で作った結果なのだろうか。それはそれで愉快な話ではあるが、さすがにNHKに入る人たちでそれはないだろう。すべてわかった上で、良心と作品の面白さの狭間で逡巡した結果だろうと思う。

そういうことを考えさせられた面白いNHKスペシャルであった。

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