「科学的」な卓球指導書

昨日、本屋に行ったら見たことがない卓球の指導書が2冊も売っていたのでさっそく買った。私は卓球の指導書は基本的にすべて買って研究することにしているのだ。

買った本の1冊には、本の題名に「科学」という言葉が使われていて、いかにも科学的に分析したかのような本である。

読んでみると、これまでのどの本にも増して非科学的な本であった。

なにしろ、いきなりサービスのところで「回転をかけるためにはラケットの上でボールを長く当てる」である。ボールをラバーの上でそんなに長く転がすことができないことぐらい、ラバーにつくボールの跡を見れば誰でもわかるのに。まったく不思議である。

フォアハンドのスイングでは、あいかわらず遠心力を使って打つと書いてある。面白いのは「スイングスピードを速くするためには、ひじを伸ばしてスイングの半径を大きくすることがポイントになります。スイング半径が大きいと、それに比例して遠心力(ラケットが体から遠ざかろうとする力)も大きくなり、」とここまでは完全に正しいことを書いておきながら「スイングスピードが速くなります。」と続くのだ。惜しい!

体から遠ざかろうとする力はスイングスピードに影響しようがない。なぜならそれはスイング方向に垂直の方向の力だからだ。スイング半径が大きければラケットの速度も増すが、同時に遠心力も増す。だからといって遠心力をスイングに使えはしない。上の説明は、例えて言えば「財布にお金が増えればその分だけ財布が重くなるので、その重さを利用して高いものを買うことが出来る」と言っているようなものだ。もっと卓球に近い例えをあげるなら「強く打つと大きな打球音が出る。この打球音を利用してボールに威力を出す」ってなもんだろうか。
こういう間違いは昔から言われているので、私はてっきり遠心力の意味を知らないから間違うのかと思っていたのだが、この本の説明を見ると、遠心力を完全に理解していながら、なおかつ間違っているのだから、まったく不思議である。

そもそも、回転半径を大きくすればラケット速度が速くなるのは誰でも直感的に納得できることなので、わざわざ遠心力なんて持ち出す必要はないのだ。

最後はフットワークである。やはり動き終わって止まってから打つのが基本だと書かれている。実戦でのフットワークはほぼ100%目的地に動きながら打球するのだから、このような練習は1000本ラリーと同じく、まさに練習のための練習でしかない時間の無駄である。

ちなみに、ある中国からの帰化選手に聞いたところでは「小さい頃から続ける練習はしたことがなく、50本ぐらいなら遊びでやったことはある」という話である。実戦でありえない役に立たないものだから彼らにとってこれはピンポン球野球と同じくおふざけでやる類のものなのだ。だから日本人が続ける練習を真面目にやっているのを見ると「なになに?なにやってんのこれ?」と「可笑しい」のだという。しかもこれは、80年代に活躍した選手の話なのだ。
30年、いや、40年前の中国の練習の常識から見て可笑しいような練習を我々は何十年も、いや、今でもやっているのである。

もっとこういう視点を広めないと中国に追いつくことなど到底無理である。いや、逆の見方をすれば、これほど考えのレベルに差があるのにここまでやれているのだから、実戦的な考えに修正すれば意外とあっという間に追いつくのかもしれない。それも楽しみである。

蟹の謎

ゲストブックへの投稿によって弁当の謎が解けた。

生前、あさりに虫のように小さい蟹が共生していることがあるため、蟹アレルギーの人は注意するようにとのことだったのだ。全然ギャグでもなんでもなかったのだ。ネットでも同様の質問と回答が寄せられていた。

妻に話すと「うちの子供がそれであさりが嫌いになったことを知らなかった?」と言われた。どうも我が家では有名な話だったらしい。面目ない。

決着、世界ランキング

1968年の女子世界ランキング12位の清水の正体が分かった。

私の蔵書、卓球レポート1969年3月号に世界ランキングが載っていて、そこにはっきりと
「清水照美(無)」と書いていた。(無)とは前回のランクが無いということだ。

なぜ国際大会に出ないで世界ランキングを持っているのかは分からないが、ともかくshimizuが清水照美であることははっきりした。

喜んでー

気を利かせすぎといえば、最近、居酒屋などで注文をすると「はい、喜んでー」と叫ばれることがあって非常に不愉快である。

店に客が来て注文をしたら経営者なら嬉しいのは当たり前だ。しかし雇われている店員はそうではない。同じ時給なら客が少なくてヒマな方がいいに決まっている。経営者だかマネージャーだかが店員たちに口々にそう叫ばせることによって(当然やらされているにきまっている)、「本当は喜んでいない」という事実をかえって明白にしてしまうのだ。なぜそう感じるのかといえば、この挨拶が「ありがとうございました」「またお越しください」など普通の形式的な挨拶を超えた過度な表現になっているからだ。なんでもやりすぎれば逆効果になる。

「ハイ、喜んでー」と言われるたびに「そんなに仕事、嫌なのかよ」と思ってしまう。第一、うるさい。

この話を職場の昼礼で話したら、誰の賛同も得られなかった。

まあ、そんなもんだ。

トイレットペーパーの謎

泊まったホテルのトイレに不思議なことが書いてあった。

「トイレットペーパーの使い切りにご協力ください」と書いてあるのだ。このホテルはベッドメイクを省略するとか歯ブラシは持参してくださいとか、環境に配慮したことが部屋中に書いてるのに、なぜかトイレットペーパーだけは「使い切れ」と言うのだ。原文が英語でその誤訳ではないかと思って下の英語を見るとPlease finish up a role of toilet paper in order to prevent wasting resources.つまり「資源の無駄を防ぐためトイレットペーパーを使い切ってください」と書いてある。どうしてトイレットペーパーを使い切ることが資源の無駄使いを防ぐことになるのだろうか。使わないとどうせ捨てられるので、それよりは無理にでも尻を多めに拭いたほうが無駄にならないという理屈だろうか。それだって無駄なことに変わりはないし、必要以上に使わないに越したことはない。

この不思議な気分を保つため、あえてホテルのフロントには聞かないで帰ってきたのだが、とうとう我慢できずにネットで調べてみて笑った。私と同じ疑問を持った人が質問していて、それに対する回答によると「客が入れ替わるたびにトイレットペーパーを新品に交換するのはやめますよ」という意味だと言うのだ。つまり、客それぞれに使い切ることをお願いしているのではなくて、ホテルの側から見て、客が使い切ってから交換しますよということなのだ。だから「使い切ってくれ」ではなくて「使い切ることに協力してほしい」となっているのだ。なるほど、そう言われればそうとれるが、一体どれくらいの人がこの意味を分かるだろうか。むしろ反対に「次の客が来る前に責任をもってすべて使い切ってくれ」と読めるではないか。

さらに英文では「どうぞ使い切ってください(Please finish up)」とはっきりと書いてある。ここには「毎回新品に交換していないので、半分くらいに減ったトイレットペーパーがあっても許してくださいね」というニュアンスはどこにもない。文章の読み手に向かって明確に「使い切れ」と働きかけているのだから使い切るしかないではないか。

おそらく英訳した人は完全に私と同じ誤解をした上でこの英語を書き、それを読んでいるはずの店員たちも誰一人それが正反対の誤訳になっていることに気がついていないのだろう。

首をかしげながら英文を書いた人と、「環境保護」のため、トイレットペーパを物凄い勢いで使い切ろうとしている外人客の姿を想像すると可笑しい。

「トイレットペーパーを毎回は交換しません」と明確に書けばいいものを、なんとか感じが悪くならないよう婉曲に書いた結果がこれである。過度の配慮は逆の結果を生むのだ。

弁当

あるセミナーに出席をしたら弁当が出たのだが、この弁当がやたらと天然ものにこだわっていて可笑しかった。保存料や合成着色料を使っていないことを強調していた。

自然のものが安全で人工的なものが危険だというのは何の根拠もない妄想である。
自然界にも毒はあるし人工的で安全なものもあるにきまっている。70年代のある時期からこういう考え方が流行しだしただけのことだ。「いいから腐らないように保存料入れろよ」と言いたい。

もっとも、何でも大量に摂取すれば体に悪い。山本弘の本によれば、16世紀の医師パラケルススは「あらゆる物質は毒である。その用量の違いだけが、毒と薬の違いをもたらす」という名言を残しているそうだ。水も塩も砂糖も量が多くなれば有害になる。醤油だって一度にコップ一杯飲めば死ぬ危険性があるしコーヒーも75杯、紅茶も125杯飲めばカフェイン中毒で死ぬ。クレヨンも幼児が150g食べれば致死量だそうだ。水ですら過度に採れば水中毒で死ぬのだ。過度に摂取すれば何でも毒なのであり、問題はその量なのだ。だから量を明確にしないで「焦げを食べると癌になる」などというのは何の意味もない。よくよく調べるとそれが「毎日10トンを何年間も食べれば」という話だったりするのだ(だいたい、何にせよ、それだけ食えば胃が破裂して死ぬ)。

そして自然食信者は、量について考察することなく「保存料」と「合成着色料」を目の敵にする。適度な量ならこれらは何の問題もないのだ。多く採ったときに問題が起こるのも気になるというなら、もはや安全なものはない。なにしろ水や酸素でさえも採り過ぎれば毒なんだから。
とにかく食品の安全性についいては、明確に医学界で認められたもの以外は信用しない方が良い。こういうくだらない信仰に神経を使うのは本当に時間の無駄、人生の無駄である。

それにこの弁当、「注意あさりと蟹が共生しています」とも書かれているが、ギャグなのだろうか。共生どころかどちらも死んでいるし、それの何を「注意」するのだろう。バカバカしい秀逸なギャグだと思っておこう。

清水照美選手を発見!

昨日は東京に出張したのだが、ついでに卓球王国編集部詣でをしてきた。

すると、卓球王国随一の卓球マニア、柳澤太朗くんが、古い雑誌を持ってきて見せてくれた。1968年の卓球レポートだ。そこには、「大活躍の清水照美選手」という見出しがあった。

世界選手権にもアジア大会にも清水という人は出ていないが、この人しか考えられないだろう。もしかするとITTFの記録が間違っているのかもしれないので、他の資料も確認してみよう。

ええーい、決定版だ!

さすがに女子の世界ランキングは完璧にまとめたと思っていたら、また卓球マニアさんからご指摘があった。
以下にそのまま転載させていただく。

>1972年の「坂本」は「阪本」(阪本礼子,四天王寺高から専大)
>1978年の「漆野」は「漆尾」ですね.熊本出身の漆尾珠江(現,高木珠江),右ペンのドライブマン.
>1991年と1994年の山下は「山下富美代」(後に海津富美代).前陣粒高ショートマン(というか,切り下ろすカット性ショート)
>1992年の山下は「山下さとみ」,左のシェーク(だったと思う)で日産自動車で活躍.
>
>あと,1968の「清水」は誰だかわからないです.元ネタを見ても「Shimizu」としか書いていないし… 元ネタ,ところどころスペルミスなどありますが…
>
>とりあえず,気づきましたところだけ.

ひっ。す、凄すぎ・・・

さっそくこれらをすべて直し、兄弟選手も名前を入れて再度アップし直したのが下の図だ。なお、女子1968年12位のshimizuという人は世界選手権にも出ていなくてまったく記録がなかった。誰かの間違いだと思われるが証拠がないので「清水」として載せておく。

女子世界ランクと荻村テープ ~至福の日曜日~

今日は、午前中は荻村伊智朗の1988年の講演会のテープをイヤホンで聞きながら女子の世界ランクの歴史をまとめた(こういうのはやってしまわないと気がすまない)。そして午後からは卓球。まさに至福の日曜日だった。

女子の世界ランクをまとめてみて興味深かったのは、元中国人である小山を除くと、福原の前に日本選手がトップ10に入っていたのは1984年の新保が最後であり、奇しくも男子のそれと同じ年であった。それから2007年の福原まで、実に23年間も日本選手はトップ10に入っていなかったのだ。

80年代以降の日本の卓球は何かがはっきりと間違っていたはずだが、それが何なのか明確にしたいものだ。

卓球マニアたち

世界ランクの歴史を披露したところ、さっそく以下のようなご指摘をいただいた。

「田坂」は「田阪」の誤り
「大宅」は「大家」の誤り
「五島」は「五藤」の誤り
藤井則和に色がついていない

いずれも、平素から札付きの卓球マニアの方々である(1人は卓球王国の編集部員)。さすがである。

さっそく直し、さらにひとつのファイルにして100位まで入れたのでご覧いただきたい。