靴下の半脱ぎ

私は学生時代から、家に帰るとよく写真のように靴下を半分だけ脱いでしばらく過ごしていたものだった。こうすると、足首のところが締め付けから開放されると同時に、土踏まずのところが適度に刺激されて気持ちが良いため、自然と身についた動作なのだ。

こんなことを自分がしているとは他人に話したこともないし(そもそも話すまでもないことだ)、はっきりと自覚していたかどうかすら怪しい。だから、東京の友人の家に遊びに行ったとき、友人がまったく同じことをしていたのを見たときはとても嬉しくなったものだった。もちろん妻からはとても不思議なことに見えたようでかなり驚かれ、その利点を長々と説明するはめになった。

あまりに些細なことなので声高に言う人はいないが、おそらく同好の人は他にも大勢いるものと思われる。

だからどうだってわけじゃないですが。済みません、それだけです。

可愛い息子たち

今朝、寝ていると、長男の部屋から楽しそうな話し声が聞こえた。起きてトイレに行った後、その部屋に寄って「さっき何話してたの?」と聞くと「○○(次男)が鼻ちょうちんできたって見せに来た」と言った。さぞかし見事な鼻ちょうちんだったのだろう。

男子中学生らしい可愛い息子たちである。

明けましておめでとうございます

遅くなりましたが、みなさん、明けましておめでとうございます。

以前から不満に感じているのが、正月のテレビ番組が面白くないことだ。年末はそれなりに面白いのだが、正月となるとなんだか面白くないと感じることが多い。

正月でもまったく普段と同じ番組をやればいいのになあ、と小さい頃から思っていたものだ。これは正月以外でも同じで、普段と違うことをされるのが嫌なのだ。たとえばドラえもんなどのアニメーションが、2時間のスペシャル版になるとやけに壮大になって恐竜の国を旅したりするのがとても嫌だった。普段の30分ものを4本やった方がずっといいのにと思ったものだ。普段のペースを守りたくなってしまうのだ。

そもそも私は昔から、急にことあらたまって普段と別のことをするのが嫌だった。その点では保守的なのかもしれない。たとえば、小学校の修学旅行のとき、修学旅行だからといっていかにも旅行らしくリュックサックを使うのが嫌で、わざと一人だけランドセルで行き、荷物が入らず苦労した。高校に入学したときは、いかにも高校生らしくするのが嫌で、わざと中学校で使っていた中学校名入りのナップザックを背負って通ったことがあるくらいだ。当然、いかにも大人になったようにタバコを吸ったり酒を飲んだりといったことも嫌だった。

話がかなりそれたが、とにかく正月だからといってテレビでまで着物を着てゆったり話をしていたりしていないで、いつものやつをやってくれよ、と思うのだった。まさか、正月らしい番組にすることが民放連で決められているわけでもあるまい。

といっているわりには、今書いている卓球王国今月号の原稿は、正月らしく新春対談である。これはネタづくりがしやすいからだが、してみると、テレビ局もネタがなくて正月には正月版にするのかもしれない。そういうことなら仕方がない。

『なるほど卓球サイエンス』

年末年始と、卓球技術についてあれこれ考えていたので、指導ビデオとか過去の卓球雑誌を見ていて、10年ほど前に卓球王国に1年間連載されていた、吉田和人さんの『なるほど卓球サイエンス』が目についた。

吉田さんは、以前から卓球技術を科学的に研究している方で、私は2001年大阪大会のスポーツ科学会議のパーティーで一度お話をさせていただいたことがある間柄である(つまり、たいした間柄ではない)。

あらためてこの連載を見ると、科学的に正確なことをわかりやすく表現し、従来の卓球試論の迷信をやんわりと指摘するなど、秀逸なものであった。下の写真は、切るツッツキと切らないツッツキをトップ選手にやってもらったところ、本人はフォームは同じでボールを当てる位置を変えてラバーとの接触時間を変えて切ったり切らなかったりしていると思っているのに、実際にはラケットの動きがはっきり違ったという測定結果だ(中央の図)。また、ボールとラバーとの接触時間は千分の1秒ほどなので、ラバーの上をボールを長く転がすのは無理だと説明している。

また「遠心力を使ってボールを打て」とよく言われるが、遠心力は常にスイング方向の垂直方向に働くものなので、これを使ってボールを打つことは不可能であり、正しくは「遠心力を感じられるような振りで打て」ということだろうとしている。

私としたことが、この秀逸な連載のことをすっかり忘れていたのは不覚であった。苦労して書いた本人は忘れるわけもないが、読む方は忘れるものだ。

吉田さんは現在、静岡大学に教授として勤務するかたわら(http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~ehkyosi/)、「NPO法人卓球交流会」の顧問として、卓球普及に尽力されている。
http://homepage3.nifty.com/takkyu-information/

『トンデモ超能力入門』

古本屋で超能力の本を買って読んだ。私は以前は超能力の実在を信じている、いわゆるビリーバーであったが、その後、いろいろな本を読んで、今ではその存在に極めて懐疑的である。しかし、もともとはオカルトは大好きなので、存在して欲しいのはやまやまだが、入ってくる情報から判断すると、残念ながら現時点ではあるとは言い難いと思っている。

この本は、超能力懐疑派である皆神龍太郎氏と、超心理学研究者の石川幹人氏による対談形式の本である。懐疑派と研究者の対談であるが、この両者は超能力の実在について推測が反対であるが、いずれにしても科学的に真実を突き止めたいという目標は同じなので、別に喧嘩をしているわけではない。ただ、懐疑派の皆神氏が、研究者の石川氏に素朴な疑問を投げかけ、石川氏はそれに答えながら超心理学の歴史や現状について説明をしている。

石川氏によると、日本で科学的に超能力を研究している研究者は今のところ3人で、世界中あわせても100人ちょっとだという(もちろんまともではない研究者なら山のようにいるだろう)。

気になるのは、これまでの「まとも」な研究者が確認した超能力現象はあるのかないのか、という疑問だが、石川氏によればそれは「ある」が、その効果は、透視や予知といった、情報知覚のテストでごくわずかに見られる程度で、念力は「ない」という。

情報知覚のテストでは、偶然なら25%的中するテストで、33%に的中率が上がる、といったごくごく地味な効果が膨大なテストで見られるというものであり、それですら再現性には議論があり、まして何かに利用できるようなレベルのものは確認されていないという。

対談で皆神氏が言っていたことでなるほどと思ったのは、100年以上もの超能力の科学的研究がされてきて、いまだに上のようなごく地味なものしか確認されていないわけだから、仮にそれが実在するとしても、その威力はこのレベルが上限であって、よくインチキ超能力者がやるようにスプーンを曲げたり、行方不明の人を捜し当てたりといった超能力はまずないだろうということだ。ただし石川氏は、多人数の能力を合わせることでその地味な能力を実用化することも視野に入れて研究を続けている。

地味とはいえ、石川氏の実験で興味をそそったのは、被験者がヘビとかクモなどの不愉快な画像を見せられる3秒くらい前に体に変化が起こり「悪い予感」を感知しているとか、911のテロ事件のあった日だけ、コンピューターの乱数がある自己相関を示したという例だ。もちろんそのメカニズムはまったくわかっていないから現時点ではまるで雲をつかむような話である。

超能力の研究というものが、どれほど気の遠くなるような地味なものであるか(それほど多くのテストを繰り返さないと偶然以上の効果が観測されない)、著者のウエブサイトを覗いてみるのもよいだろう。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/

午後の卓球談義

卓球を終えた後、近くのファミリーレストランで4時間もあれこれ話した。

私の顔に白い線が入っているのを指摘されたが、なんとそれは汗が乾いた跡であり「気持ち悪い」と評判だったので記念に写真を撮ってもらった。

話題になったのは、インターハイに出るような人たちのフォアドライブの安定性とスピードを見ると、本当に楽に簡単に振っているように見え、どうして我々はそうできないのかという悔しさであった。陸上競技とか格闘技といったアスレチックな競技ならできないのも諦めがつくが、どうみても我々より力が弱い小学生でさえ我々より速くラケットを振れるのは納得がいかない。何か我々が見落としている、あるいは知らされていないコツがあるのではないか、という話になった。

杉浦君は朝、急に奥さんに「卓球に行ってくる」と言って出てきたので、かなり気まずい思いをしたので、ついでに米の精米をすることで体裁をつくろう作戦だったようだが、4時間もの無駄な時間を一体どう説明する気だろうか。しかもレストランを出たときにはまだ精米していないどころか、「精米所どこにあるか知ってるか?」と聞くレベルであった。

年末卓球

年末でヒマなので、午前中から卓球をした。

普段練習をしているコミュニティーセンターが閉まっているので、別の個人経営の卓球場『東部卓球センター』というところに行った。

ここは、鈴木晴巳さんという私と同年代の方が、数年前に会社を辞めて作った卓球場だが、鈴木さんはもともと卓球場を作るために長年働いていたという大変エライ人である。

ご覧のように、もともと倉庫だったところを安く買い、余計なところにお金をかけずに夢の卓球場を作ったという。

私はここで卓球をしたのは初めてだが、この日は今年最後の練習ということで、中学生たちが来ていた。その中にわざわざ隣の岩手県から泊りがけで来ていた中学生とご両親がいたのだが、話してみるとお母さんは偶然にも私の高校の卓球部の後輩であった。つくづく卓球界は狭い。抱えている雑誌は私がサインをした卓球王国だ。「サインなんて恥ずかしくてできませんよ」と言いながらもスラスラとしてしまったのが恥ずかしい。

フォークの使い方

学生時代、洋風レストランにあまり行ったことのなかった私が、ミルキーウエイというファミリーレストランで食事をした。すると、行き慣れている友人がフォークの背にご飯や野菜を乗せたりして食べているのを見て驚いたことがある。フォークの背だから、当然外側に凸になっていて、ものを乗せるのにこれほど不都合なものはない。しかしその友人はその不都合な形をした部分に器用に食べ物を乗せて口に運んでいた。マナーだかなんだか知らないが、こんな不便なことは到底受け入れるわけにはいかないので、私は彼とは反対の面を使って食べたものである。

その後、アメリカ赴任になって、レストランでステーキを食べるようになって、私の考えが浅かったことが分かった。フォークとナイフでステーキを食べるときには、左手でフォーク、右手にナイフを持つのだが、ステーキを切るのに力が要るので、どちらもシェークハンドのように持たねばならない。そのまま持ち変えずに他のものを食べると、当然、フォークは背を上にしたまま使うことになる。だから、背を使った方が持ち変える手間が省けるだけのことだったのだ。もしこれをペンホルダーのように持ち変えれば、問題なく食べ物を凹の側に乗せることができるわけで、実際、アメリカ人も普通にそうしていた。

要するにこんなことはどうでもよく、好きなようにすればよいだけだったのだ。ヨーロッパではどうか知らないが、ここは日本なのでそんなことを気にかける必要はない。

食事のマナー

先日、ネットで「お寿司を食べるときの正しいマナー」というものが紹介されていた。クイズ形式になっていて、①ネタをはがして醤油につけてからご飯の上に戻して食べる ②寿司を箸でつまみながら下方に左手を添えて口に運ぶ ③寿司を箸でつまみながら下方に左手でもった小皿を添えて口に運ぶ

正解は③だそうで、醤油が垂れるのを防ぐためだそうだ。こういうことを知らないと恥をかくそうだが、こんなクイズの問題になるような「マナー」を守らないからといって一体どこで恥をかくというのだろうか。まったく不思議な話もあるものだ。マナーにはすべてそれらしい理由があって、実用的なものもあれば、見た目の美しさという基準もある。小皿を持って寿司の下に位置させる動作は美しいとはとても思えないのだがいかがなものだろうか。

また、私が違和感を覚えるのが、爪楊枝を使うときに両手で口元を隠す動作だ。口を閉じられないほど歯が出ていて、そうしないとモロに食べ物カスをほじくっているのが見えてしまう人ならいざ知らず、普通の人でもそうするのがマナーだと思っている一派がいるようだ。しかし、さりげなく爪楊枝が唇の間に挿入されている様子を見て不快に思う人がどれだけいるだろうか。少なくとも私は、爪楊枝ごときに大げさに両手で作業をされるとなんとも居心地が悪くなってしまうが、これは各自の習慣からくる違いのなのでいかんともしがたい。

一方、私が気になる食事のマナーはただひとつ、クチャクチャと音を立てて食べることだ。近くでこれをやられるととても我慢ができず、席を立つしかない。なんでこんなに音を立てて食べるのかと、腹立ちまぎれにその口元を見ると、そもそも唇を閉じないまま食べ物を噛むために音がするのであるから、当然、咀嚼中の食べ物が見えることになり、余計にまた腹が立ってくる。

音に対する不愉快は、習慣とか形式とは関係がなく生理的なものであり絶対的なものだと自分の不快感を正当化していたのだが、考えてみると、犬とか猫、あるいは幼児が音を立てて食べるのを見て不快に思ったことはないし、物凄い出っ歯で絶対に口を閉じられない人とか、病気で鼻が詰まっていて息をするために口を開けなくてはならない人を想像すると腹は立たないので、やはりこれも後天的な不快感なのだろう。音を立てて食べるのが「美味しい」という意味で礼儀になっている国もあると聞くし。だから私は自ら席を立つしかないのであった。どうしても席を立てない場合は、犬とか猫とか幼児あるいは病気の人を思い浮かべて気を鎮めようとするのだが、うまくいったためしがない。

友人に、カレーライスを食べるときにカレーとご飯をあらかじめスプーンでカチャカチャとすべて均一にかき混ぜてから食べる男がいる。ビビンパなどそのようにして食べる料理もあるので、これを否定することは極めて難しいが、私が妻ならとても耐えられない所作である。

食事のマナーとは、不愉快に思うのも思われるのも、なんともやっかいなものである。

本屋の光景

昨日、近所の本屋に行ってきた。

その昔、卓球王国が創刊されたとき、発売日に手に汗握りながら(比喩ではなくて本当に汗をかいて)創刊号が置いてあるか、その後は売れ行きはどうかを見に通った同じ本屋だ。

卓球王国の2月号が一番目立つところに平積みされていて感無量だった。しかし、多すぎないか。これってもしかして、売れてないってことじゃ・・・いやいや、売れなければそもそもこんなに入荷するはずがないじゃないか、いや、単に返本し放題だから適当に入荷してるのかも、などとひとりジタバタしたのであった。

近くに「料理王国」「ワイン王国」なんて雑誌があったりして紛らわしい。

他にどんな雑誌があるかと思ったら「月刊カラオケファン」なんて雑誌がある。カラオケに関していったいどんな雑誌が成り立つというのだろうか。「イチオシソフト比較」とか「新発売のハード特集」なんてやるんだろうか。初心者のためのコーナーとかルール説明(あるのかそんなの)、メンタルを克服しよう、もちろん読者の投稿で「カラオケで家族の会話が多くなりました」とかあるんだろうなやっぱり・・。