つり餌グーッ!

伊丹十三のエッセイ集に、よくトンカツ屋の看板などに豚のコックがニコニコしながら料理をしている絵など描いてあるが、神経を疑うと書いてあった。

私はむしろ、一種のブラックユーモアとして楽しんでいる。描いた人がそのつもりがないとすれば、それはそれでその間抜けさが可笑しいので、どちらにしても可笑しいというわけだ。

仙台の町で、類似のつり餌屋の看板を見つけた。粋なミミズくんだか毛虫くんだかが、「グーッ」とサインを出している。素晴らしい。

何年か前に、お盆に実家で外で焼肉をして食べたことがあった。親戚が集まってワイワイやっていると、飼っている牛が「ンモオー」と鳴いた。それを聞いた親戚のおばさんが「牛ちゃんも鳴いてるよ、僕の番だよモーって」と言ったのがとても可笑しかった。このおばさん、いつからこんなにキレるジョークを言うようになったのだと思ったが、後から考えると、「僕の番」というのは、「僕にも餌が欲しい」ということであって、決して「僕が食われる番」ということではなかったのだ。勘違いした私だけが大笑いしたのだった。

お面

今回の里帰りでは、ほとんどの夜を仙台の妻の実家でお世話になった。義理の父親は美術に興味があり、茶の間の上のほうにはさまざまなお面が飾ってある。

その中のひとつが私に似ていると当時小学生だった姪っ子が指摘し、みんながそれに同意した。眉毛が太くて垂れていること、頬が赤いあたりがそう思われる原因だろうか。いつも他人の特徴をとらえたり描いたりしているのに、急に自分のことを言われるとあまり面白くはないものだなと思った。

卓球飲み会

夜は宴会を行った。例によって田村が「飲み放題」にこだわってみんなの批判を浴びたが、いざ行ってみると意外に美味しいことがわかった。田村は不当な批判をされたことに対していつまでも愚痴を言っていたため、「お父さんしつこい」と小学生の娘にたしなめられていた。

飲み会では、自称「師匠」がフォアドライブとバックドライブのインパクト近傍の理論を熱っぽく語った。

私はすっかり疲れてしまい、かべによりかかってついバックハンドで酒を注いで飲んでいた。

隣の女性は、私が学生時代に7年間お世話になった親戚に住んでいた、いとこで、私の知人とは旧知の仲だ。この日は、一度誘ったものの、「卓球の話ばかりで話が合わないだろうから、やっぱり来ないほうがいいんじゃないか」と言われたことがかなり悔しいらしく、「冷たい」と何度も何度も恨みがましいことを言っていた。

弟子、師匠、用具マニア

久しぶりの卓球は、以下のような面々であった。2番弟子の田村、3番弟子の小室、用具マニア杉浦君と岩井さんという面々だ。本人たちの名誉のため、いずれも仮名とし、なおかつどの顔が誰なのかわからないように配慮してある。

とくに2番弟子の田村は自分が弟子だという自覚に乏しく、「ブログに載せるのなら師匠じゃなきゃやだ」というので、そういうことにしておく。

岩井さんは、実力的にも用具的にも杉浦くんと匹敵する用具マニアであり、この10年で20本のラケットを買っている人だ。はっきりいって練習するヒマがないと思うのだがどうだろう。この日も、タマスから発売された『閃光MAX』という、ヒノキ単板のシェーク(!)を持ってきて話題をさらっていた。1ゲームごとに交代で試合をしたのだが、杉浦くんと岩井さんの試合になると、用具のウンチクに話がはずみ、試合が滞る一幕があった。さすが用具マニアである。

私はといえば、四十肩がひどく、田村にまで負け越すありさまで、「田村が師匠」というのもあながち冗談ともいえない状況であった。

卓球中毒

久しぶりに仙台で卓球仲間と練習をした。3番弟子の小室(仮名)が、なぜか色紙をもってきて私にタマキチくんの画を描いて欲しいという。色紙にはすでに平野と愛ちゃんのサインがしてある。それをタマキチくんのラケットの部分にしようというのだ。自分の部屋に飾っておくのだという。よい心がけだ。

小室は卓球中毒なので、何の話をするときでも、常に無意識に素振りを繰り返しながら話すので大変落ち着かない。右の写真も、卓球と関係のない世間話をしている様子なのだが、バックショートやら裏面ドライブやらを繰り返していた。

また、人を疑うことを知らないお人よしなのだが、グルー時代には、灯油やガソリンを塗って試合に出るという暗部をもあわせもつ「卓球中毒」である。

偉関絹子さん

卓球王国の練習会のとき、偉関さんから、私の連載『奇天烈逆も~ション』を中国の卓球雑誌「卓球世界」に翻訳して載せたいとの申し出があった。

嬉しい話だ。まずはその翻訳版を編集長に読んでもらって、可否を判断してもらうことになる。偉関さんの翻訳にかかっているわけだ!がんばれ偉関さん。

美濃加茂市

今日は仕事で岐阜県の美濃加茂市に行ってきた。
降りた「美濃河合」という駅はなんと無人駅。線路のすぐ近くは畑だ。

昼時だったので、見事にさびれた食堂に入った。こういうのが私は大好きだ。頼んだ天婦羅定食は旨かった。
発見その? 味噌汁は赤味噌だった。この辺りは赤味噌が普通だとのこと。
発見その? 天婦羅のつゆがとてもしょっぱかった。佐賀で寿司の醤油がとても甘かったのと同じで、こういう目立たないところが地域によって違うのは面白い。

美濃加茂市での仕事を無事に終え、長野の安曇野市に移動し、今そこのホテルで書いている。明日の夜には、やっと仙台に帰ることができる。1年4ヶ月ぶりの仙台だ。

負けまくった

編集部で村ちゃんと会ったあたりからどうにも調子が狂った。勝てるとふんでいた高橋さん、今野さんに負け、渡辺トモ、柳沢太朗くんにもボコられた。元全日本ダブルスチャンピオンの偉関絹子さんとは試合にならず。もちろん偉関さんは特に何もしていない。強い人との試合によくある地獄の風景だ(私に負けたことのある人の名誉のために言っておくと、昨日は時差ボケと四十肩、ラージと硬式の混在でメチャクチャだった。しかし柳沢さんとトモさんにはどっちみち勝てなかったかもしれない)。

村ちゃんは、久保くんを相手に彼一流の怪しい卓球理論を解説していた。まったくこの人が出てくると、そのオーラですべてがかき消されてしまう。大変な人だ。

編集部に来た『奇天烈逆も~ション』へのファンレターを見せてもらった。嬉しいのでここに紹介しておく。

昨日の出来事をネタに、連載の一回分をでっち上げようと考えている。

卓球界の重鎮

成田空港で藤井基男さんと少し遅い昼食を食べた。藤井さんは、かの荻村伊智朗と親友であり、現役時代は世界最高レベルのカットマンであり、混合ダブルスで世界三位になっている。引退後は卓球レポートの編集長、サウジアラビアのナショナルチームのコーチ、日本卓球協会役員などをへて、現在は卓球愛好家としてニッタクニュースで連載をしている。卓球史研究家としても名著を何冊も書いており、まさに全身卓球家である。

私が卓球王国で文章を書くようになったのはまったくこの人のおかげだ。この人が推薦してくれなかったら、原稿を送りつけたところで難しかっただろうし、私も力が入らず、それなりのものは書けなかったように思う。

藤井さんは成田に住んでいるので、この機会にと会っていただいた。「荻村伊智朗は機嫌が悪いと、選手がパンの耳を残しただけで説教をしていた」とか「日本の卓球台がルールで暗緑色と定められていたのは、国際ルールのDark Colorの濃いという意味のDarkを暗いと誤訳した結果であることが1989年まで分からなかった」などという話をしていると、あまりに楽しくて、自分の父親より年上であることを忘れてしまう。

これほど歳が離れていてもまったく違和感なく、まるで友達のように会話ができるのは、藤井さんと、元タマスの久保彰太郎さんだけだ。いつまでも元気でいてもらいたい。

卓球王国編集部との勝負

いよいよ明朝、成田に向かう。

広州に行くときに成田に寄ったのを除けば、初の帰国だ。すぐに仙台には向かわず、まずは卓球王国編集部の連中と卓球の勝負だ。今後の力関係を左右する重大な勝負である。

ただし、1ヶ月ほど前から右肩が四十肩で後に引くことができず、肩甲骨打法が不可能であることをあらかじめ断っておく。もっとも、トモさんも「最近はラージばっかりで」などと言い訳をしているので、この点でもいい勝負だ。こちらはそれに時差ボケも入るが・・・。

四十肩のきっかけは、椅子に座っていて伸びをしようと両腕を後に引いたことだった。いつもやっていることなのだが、あるとき右肩がピキッとなって、それ以来、肩の関節をある角度にするととても痛いのだ。

会社の医務室に行くと、典型的な四十肩の症状だと言われた。ジャケットに袖を通すときとか、髪をかきあげる動作がきっかけとなって痛くなるのが典型的な症状らしい。こちらではフローズン・ショルダーと言って、病名に年齢はついていないのだが、歳を聞かれて44歳だと言うと、「そういう歳だね」と言われた。そういう歳なのだ。