やっぱりレーティングに登録してみることにした。試合出るかもしれないし。
人間の時間測定能力
最近、仕事でストップウォッチを使って1分か2分ぐらいの測定を一日中している。あまりに単調でヒマなので、ストップウォッチを見ないで心の中で秒を数えて、ちょうど1分を当てられるかどうか試してみた。最初は5~10秒ほど長くかかっていたのだが、心持ちテンポを上げて数えたところ、10回ぐらいやるうちに2秒ぐらいしか誤差が出ないようにまでなった。最初はそんなことはとても無理だと思ったのだが、手で腿を叩きながら拍子をとると、感覚がつかめてくるのだ。
その部屋にはポンプがあって、機械音が微妙に1秒より短く、0.8秒くらいのテンポで「シュコッ、シュコッ」と鳴っている。その音を無視せず意識しながらでも、それに影響を受けずにちゃんと正確に60秒をカウントできるのだ。人間にはこんな能力があるのだなと我ながら感心した次第だ。
時間を測定することで思い出すのは、中学校のとき、何かの集会が体育館であり、「目をつむって1分経ったと思ったら手を上げなさい」という遊びだか研修だかがあったことだ。「これは面白そうだ」と思ったが、それには条件があってなんと「心の中で数えてはダメだ」というのだ。あくまで何も数えないでただ1分経ったと思ったら手を上げろという。「それのどこが面白いのか。どうしてそんな無意味な条件をつけるのだろう」と今でも納得がいかない。
この話とセットになって思い出すのが、トランプの神経衰弱について「次の人がめくる前にカードを全部シャッフルするのが正当だ。家ではみんなそうやっている」と言ってゆずらなかった友人のことだ。私は「なぜ神経衰弱と言うか知らないのか」と説明したが「シャッフルしないんならすぐに分かって面白くないだろ」と全然ゆずらないのであった。今もその友人と家族はそういう神経衰弱をやっているのだろう(1回終わるのにいったい何分かかるのだろうか)。
話がそれたが、そんなことを思い起こしながら何10回も60秒を数えたのだった。
この作業をしながら思ったことは、この1分、1秒は、まぎれもなく自分の人生の一部であり、今それを消費しているのだという実感だ。秒を刻むストップウォッチの表示を見ていると嫌でもそんなことを考えてしまう。これは良いことなのか悪いことなのかよく分からないが、考えすぎるとダメなことだけは確かだろう。あまり考えないようにしようと思う。
仮面サイダー
始動!レーティングシステム!
いよいよ、日本卓球協会のレーティングシステムが始動した!
http://jtta-rating.jp/
レーティング計算用の大会を新設するのではなく、既存の大会の試合結果を使ってレーティングを計算するシステムだ。
選手登録の人数が多いほど、レーティングを計算される可能性が高くなるので、みんな、レーティング選手登録をしよう!
アメリカの卓球界でレーティングの面白さを味わった私は、いつか日本卓球界にレーティングが導入される日が来ないかと夢見ていたのだ。今まさにその夢が叶った。これはもしかすると、明治35年に日本に卓球が導入されて以来、もっとも大きな改革になるかもしれない。うまくいけば、卓球がもっともっと面白くなって、卓球人口が飛躍的に増える可能性を秘めているのだ。
なお、ここまで書いておいてなんだが、私はレーティング選手登録はしない。なぜなら試合に出ないからだ。試合に出ない人がレーティング選手登録をしてもしょうがないのだ。レーティングはあくまで実力を表すものであり、名誉段位などとは違う。どこまでも現役選手のためのものなのだ。私はあくまで熱狂的な卓球ファンとして、レーティング選手登録を勧めているのだ。
というわけで、「試合に出る人」は、レーティング選手登録をしよう!
メンタリズム?
「徹子の部屋」で、ダイゴという人のマジック(手品)を見た。
演目よりも気になったのは、彼が黒柳徹子に「マジックなんですか?」と聞かれるたびに「いえ、違います。メンタリズムです」と答えていたことだ。
そのメンタリズムというのがよくわからないもので、科学的合理的に訓練すれば誰でも出来るようになるとか、そんなことを言っていた。慶応大学の現役の大学院生で、物理を学んでいるというプロフィールも、この演出のもっともらしさをかもし出していた。しかし、科学的合理的にできる、そういうことを一般にマジックと言うのであって、実際、演目はまごうことなきマジックだった。
しかし、タネがあるマジックをマジックではないと言って演じることが果たして許されるのだろうか。もちろんそうする理由は分かっている。マジックよりはマジックではないもの、つまり超能力の方がずっと価値があるからだ。もちろんマジシャンだって「タネもしかけもありません」と言うことがあるが、それはあくまで建前の台詞であり、観客は本当にタネがないとは思っていない。わからないけどタネがあるんだろう、という了解のものとに安心して見ているのだ(いったいどんな巧妙なタネなんだろう、と思う人と、どうせタネがあるんだろ下らない、と、思い方は人それぞれだろうが)。
しかしダイゴは「マジックではない」と言いきっているのだから、視聴者の中には、ダイゴを超能力者だと思う人がいるだろう。
こうして霊感商法にひっかかったりする精神的下地が出来上がるわけだ。それとも、そういう人たちはダイゴを見ようが見まいが、どっちみち霊感商法に自ら邁進する人たちだから実害はないのだろうか。
そういうことを考えさせられた番組だった。
ハンスご難
ハンスは、私が「黄レンジャー」と名付けたことからも想像がつくように、かなりの食いしん坊である。その彼が学生時代に経験した話が面白い。
アルバイトで中学生の家庭教師をやっていたのだが、そこで毎回ご馳走される夕飯がことごとく不味いのだという。何を作っても必ず何か一味が足りないのだという。といって、塩分が足りないとか化学調味料を使っていないとかいうのではない。どうにもうまく言えないのだが、何を作っても味というものが足りないのだという。
お母さんが料理が嫌いだというならそれもわかるが、本人は料理が好きで、ときには妙にはりきって珍しい物を作ったりもし、そういうときには特に不味いのだという。ところが子供も父親も、家族全員がその料理を美味い美味いと言って食べるらしい。常に人より多くを食するハンスだったが、そこではほとんどお代わりをしたことがなかったという(「自然にふるまう」ためにわざとお代わりをしたこともあった)。ときどき「ごめなさいね、今日は時間がなくて店屋物になります」なんて言われると心の中でバンザイ三唱をしていたそうだ。
その家は、子供もご両親もとにかくみんな良い人たちで明るく楽しい家庭で、自分にもとても良くしてくれたのでそんなことを言うのは心苦しいそうだが、そういう不思議な家庭があったそうだ。
クレバー・ハンス
最近、職場で自分でニックネームを名乗る遊びひそかに流行している。
やれ自分はオフロスキー(オーロスキーではない)だとかアンジェリカだとか言うわけだが、そのなかでハンスと名乗るヤツがいる。その前に私は彼に「黄レンジャー」と命名したのだが、それが気に入らないらしく自分でハンスと名乗りだしたのだ。何かの映画の登場人物らしいが、私は彼の主張を尊重しつつ、ちょっとひねって「クレバー・ハンス」と呼ぶことにした。
本人は、その利口さを讃えられたと思ってご満悦だが、実はこれは馬の名前なのだ。
100年ほど前のドイツで、その後の超心理学や疑似科学史に大きな影響を与えた「クレバー・ハンス事件」というのがあった。当時、計算が出来る馬がいるというので有名になり、どうしてもトリックが見つからなかったのだ。ハンスは、出された問題に対してひづめで床を叩く回数で答えていたのだが、実はこの馬は、答えを知っている観客や質問者が無意識に発するボディランゲージを読み取り、床を叩くのを止める頃合いを察知していたのだ。そうすることで餌をもらえるので、自然にそのようなスキルが身についたというのがこの事件の真相である。
そんなわけで、本人は馬だとも知らずに「クレバー・ハンス」と名乗っているというわけである。
ちなみに私はグレゴリー・ペックにちなんで「ペック船長」だ。船もないのに。そのうち洒落で宴会用に船長の帽子でも買ってみようと思っている。
フェアトレードコーヒー
複数の読者の方からフェアトレード・コーヒーとは不正に安く買い叩いていないコーヒーのことだと教えていただいた。よくみんな知っているものだ。
つまりこれは味を説明しているわけではなくて、調達の方法を説明している商品名であり、いわば「再生紙を使用しています」とか「地球にやさしい原料を使用しています」といった類の付帯情報というわけだ。
そして、不正に安く買っていないために値段が高いことの説明になっているのだろう。
となると最低のケースは、不正に安く買い叩いておきながら客には「フェアトレードコーヒー」として高く売る場合だな。これはひどい。
フォアストレートコーヒー
文化祭での大活躍
知人の田村が、娘の高校の文化祭に行ってみたという。
その高校は共学なのだが、つい最近まで女子高だったところなので、未だにほとんど女子高のようなものだという。
すると、「卓球に挑戦」というコーナーがあり、勝つと商品をもらえるのだという。当然田村は意気込んで挑戦をしたが、相手があまり上手ではなく、かといって手を抜くのも上手くできないので、ついつい本気を出してほとんどスコンクにするほどのスコアで勝ったという。もちろん周囲では「強ええ」という歓声が上がったらしいのだが、試合が終わってから聞いてみるとなんとその出し物をしていたのは卓球部員ではなくテニス部員だったという。「どうりでヘタだと思った」と言うのだが、試合が終わるまで相手が素人であることに気がつかないというのもいかがなものだろうか。
娘の高校の文化祭に行ってテニス部の女子を卓球でスコンクにした後味の悪さに自己嫌悪している田村であった。ラケットを持つと制御がきかなくなるのだ。