熱いお便り

私がロッテルダム大会の速報チームhttps://world-tt.com/ps_info/ps_report.php?bn=132
に熱い写真を送りつけているのと同様に、私にも読者から熱いメールが届いた。

田村直洋という人で「条太さんの弟子の田村さんと親戚ではありません」とわざわざ断り書きをしてきた。彼の文面をそのまま紹介しよう。

「水谷の優勝を公言される条太さんには申し訳ないですが、今回こそはボルがシングルスで優勝します。王皓、馬龍を下した水谷と、張継科を下したボルとの決勝で、4-3でボルが劇的な優勝を遂げる、というシナリオです。ドイツ初のシングルス世界タイトルをもたらしたボルは、国民的英雄になるのです。
非国民などと言われそうですが、私の中でボルは特別な存在なのです。私が高校で卓球を始めたとき、若干18歳であの天才ワルドナーを倒したボル。僕の卓球は、常にボルの成長とともにありました。ボルは私の見本であり、憧れであり、神であります。そのボルの集大成とも言うべき大会がロッテルダムなのです。今回ばかりは、譲れません。」

ということである。譲るも譲らないもないと思うが、いやはやなんとも異様な迫力である(むしろアブないんだが)。彼はボルを神と崇めている証拠に、卓球レポート誌に何度もボルの似顔絵を載せているのだという。さっそく蔵書を調べてみると確かに載っていた。

私も人のことは言えないが、いろんな形の卓球ファンがいるものである(はたして卓球は練習しているのであろうか?)。

絵画指導2

指導と言っても、手取り足とり描き方を教えたのではない。考え方を示しただけだ。

私の考えでは、絵が苦手な人というのは、何かを見ながら描いたときに対象物の形を上手く再現できないことに失望し、自分で嫌になって途中から対象物を写し取ることを諦めて簡単な直線や曲線を引いてお茶を濁すか、途中で止めてしまう傾向があるのだ。

これは彼らが、絵を描く目的が対象物を再現することだけにあると思い込んでいるからだ。似顔絵描きや商用ポスターならともかく、絵の魅力は対象物の再現ではない。そもそも絵を見る人は対象物の実物を知らない場合も多いのだから、似てるとか本物みたいだとかいうのは実はどうでもいいことなのだ。対象物は単なるきっかけに過ぎない。もちろん対象物に何らかの思い入れがあればなお結構だが、その程度のものなのだ。

プロや芸術家を除けば、ある程度味のある絵を描くことは実は簡単である。それは、どんなに対象物に似なくても気にせずに対象物をよく見ながら諦めずに最後まで描き込むことだ。注意しなくてはならないのは、絶対に簡単な線や類型化した図形に逃げないことだ。たとえ何を描いているか分からないほど形が崩れても、その線が類型ではなく独自の線であれば、それは情報量の多さを示し、見るに耐えうる絵となる。人物画ならシワとかシミをしつこく描き込めばもうバッチリである。決してマンガのような類型化したパーツを描いてはいけない。

もちろん、このようにして描いた絵にも魅力的なものとそうではないものがあるだろうが、それは仕方がない。私が言っているのは、それよりずっと手前の「田村のアルマジロ」のような絵しか描けない人に対するアドバイスなのだ。

以上のようなことを講釈すると、田村も杉浦くんも「そういう考え方は初めて聞いた」と語った。私も聞いたことはないのだから当然だ。

このようなアドバイスをしてから田村に「俺の顔をよく見ながら描いてみろ」と言った。田村は10分ほど集中して絵を描き上げ「これまでの人生でこれほど真剣に絵を描いたことはない」と語った。それが下の写真だ。頭のいびつさと唇のゆがみ具合がなんともいえず味わい深く見事である。素晴らしいと言ってよい。絵が下手な人の絵には見えない。こういう絵でいいんだと本人が思えれば、絵はどんどん楽しくなるのになあと思う。

もっとも私自身は、対象物を再現する写実画が得意であり、その余裕が、歪んだ絵を面白がることにつながっているという面は否定できない。しかし、写実画を描けない人の不可避的に歪んだ絵が、たまたまではあるにせよ、魅力を発することもないとは言えないと思うのだ。

田村も杉浦くんも田村の描いた私の顔を「ただの下手な絵にしか見えない」と語ったが、この絵を面白いと思えないところこそが「絵心がない」ということの正体なのではないかと思うがどうだろうか。

絵画指導

連休中、田村と杉浦君と酒を飲んだ。彼らとは昨年末以来だ。

飲み会の席で、どういう経緯か忘れたが、絵心の話になった。私は小さい頃から絵を描くのは得意なのだが、田村と杉浦くんの両方とも絵が大の苦手だという。

そこで以前、藤原くんという同僚が描いたアルマジロを思い出した。宴会のゲームで、写真等を見ないでアルマジロを思い出して描くというゲームだったのだ。これが恐るべき面白さで、到底狙って描けるものではなかった(写真左)。

そこで、飲みながら、田村と杉浦くんにアルマジロを描かせてみたのが下の写真である。写真中央が杉浦くん、写真右が田村のアルマジロだ。杉浦くんのはミジンコみたいだが、特に絵が下手だとは思えない。田村のは確かにひどい。そこで、田村に絵の指導を行った。

バカにするなよ・・・

「スポーツデポ」の入り口には卓球台が置いてあった。

どこかの小学生の女の子が「福原愛だ」と言って台の前で「バシュッ」とか掛け声を出しながらしきりに素振りをしていた。そのフォームは卓球というよりはボクシングのようだった。この世代の女の子にとっては「愛ちゃん」ではなくて「福原愛」なんだな、と思いながら頬を緩ませた。

帰りがけに妻が「あ、卓球台おいてあるよ、写真撮らなくていいの?」と言った。もし私が撮ろうものなら「こんなのでも嬉しい?」と呆れるつもりなのだ。

こんなものは・・・もうとっくに撮っていたのだ。

気を吐くキラースピン

不覚にも息子がテニス部に入ってしまったので「スポーツデポ」にラケットとシューズを買いに行った。私が卓球のライバルだとひそかに認定しているテニスとバドミントンの用具売り場を見たが、やはり卓球より随分と売り場面積が大きかった。しかも卓球だけ表示がなかった。

テニスもバドミントンも大きなポスターが飾られていて、資本の臭いがプンプンしたが、卓球では唯一、キラースピンが比較的大きな飾り付けでがんばっていた。ユニフォームが置いてあったのはキラースピンだけだった。

卓球は用具の単価と数量の両方で負けているのだろう。悔しい。

シュールな光景

会社の近くはかなり片付いて、震災直後の面影は急速に消えつつあるが、ところどころにシュールな光景が残っている。

その一例がご覧の写真だ。教えてくれた同僚によれば、家の床下や壁の密閉性が良い場合に、水に浮いてこのように旅をするのだという。「だからこれは良い家の証拠なんだ」と同僚は言うが、いまさらそんなことを誉められても何の慰めになろうか。

グーグルマップでもちゃんと確認できたが、どこから流れてき
たのかは判別できなかった。

ロッテルダム行きを断念

今年も世界選手権の取材に同行するつもりだったのだが、さすがに余震が治まらない現状では、家を空けるのはしのびなく、泣く泣く断念した。

ウエブ速報のタイトルも『ロッテルダムの裏通り・伊藤条太のポポポポ~ン速報』と自分で決めていただけに残念だ。今野編集長からは「家でテレビを見ながら実況してよ」と言われたが、できるかっ!(北京五輪では勝手にやったけど)

悔しいので、交通費と宿泊費が儲かってよかったと思うことにする。さらに、来月号の原稿に妄想観戦記を書いて気を鎮めた。編集部の世界選手権の観戦記が載る前の号に、私の妄想観戦記が載るという寸法だ。だから何だというわけではないが・・・。

ともかく、日本代表にはがんばってほしい。私の妄想観戦記ではすでに水谷が優勝したことになっているのだ。

水谷にはぜひとも優勝してもらいたい。

「前向きでお願いします」

ときどき店の駐車場で「前向きに停めて下さい」という注意書きを見ることがある。

最初私はその理由がわからなかったので、後ろから入れて立て札に気づいたとき、わざわざ入れ直しはしなかった。

そのうち、前から入れろという理由が、排気ガスが民家や植物にかからないようにするためだということに気がつき、それからは前から入れるようにしている(本当にそれが理由かどうかは未だにわからない)。もし「民家に排気ガスがかかります」とでも書いてあれば、最初に入れ間違えたとき、もう一度入れなおしただろう(本当は入れ直しても排気ガスがかかる回数が同じなので無意味なのだが、他の車を誘導する役には立つだろう)。

実際には私だけではなくて、この立て札があってもときどき後から入れている車を見かける。理由が書いてあれば「なるほど、そうだな」と思って従う人が多くなるのにと思う。「ゴミ捨て禁止」とか「電車が来たら後にさがって」など、誰にでも理由が明らかなことなら理由は要らないが、ちょっと気が回らない人だと(自分では認めたくないが)理由が分からないようなことの場合には、理由を書いたほうがよいと思う。

「前向きで入れろ」という理由がわからないのが世の中で私ひとりだけだというなら、どうにも面目ない話だが。

ボロ車

郡山に勤務している元職場の後輩が遊びにきた。アメリカに赴任する前に会って以来なので4年ぶりだ。

津波の被害の爪あとを見にあちこちに行ったのだが、この後輩の車が25年乗っているというホンダのインテグラで、知らない人が見たら被災した車かと思うほどボロボロだった。以前、彼女を乗せようとすると「レンタカー借りて!」と言われたという。

どうすればこんなにボロボロになるんだろうか。

腎臓結石

一昨日、朝起きたら右のわき腹が痛かった。痛さは、急にランニングをしたときのわき腹の痛みかまたは消化不良のときの腹痛と区別がつかないような痛みだった。

消化不良ならそのうち下痢でも始まってトイレに行けばおさまるだろうと思っていると、下痢もしないし痛みも治まらない。ちょうどその前日、会社の同僚が腎臓結石で激痛が走って救急車で運ばれた話を聞いたばかりだったので、もしかして俺もかと思った。そのうち吐き気がしてきて朝食をすべて吐いた。熱はない。

さっそく近くの内科医院に行って1番で診てもらったが、あちこち押された後に「感染性胃腸炎か、またはどこかに石があるのか分からない。石があったとしても食事の後だと内容物が邪魔で超音波で見てもわからないので、明後日、朝食を抜いてきてください。消化剤を出しておきます」と言う。明後日というのは翌日が祝日だったからだが、それにしてもこれでは痛くて寝ることも出来ず、このまま2日間も我慢するなど無理だ。この病院に入るときでさえ、病院の前で体をくねらせて痛さを我慢し1分おきに時計を見ながら開院を待ったほどなのだ。

一度は待合室に戻ったが思いなおし、看護婦さんに「朝食はほとんど吐いたので、やはり超音波で見てもらえませんか」と頼むと、医者と相談したらしく、診てもらえることになった。

そこで初めて尿を採ったのだが、なんと完全に血尿でピンク色に濁っていた。超音波で見ると、胆嚢、すい臓など上の方には石は見られないという。ただ、腎臓の尿の流れが悪くなっているようだから腎臓結石が尿管につまっている可能性が高いので、総合病院の泌尿器科に紹介状を書くのでそちらに行くように言われた。下の方も超音波で診てくれればよさそうなものだが診てはくれなかった。内科医なので泌尿器関係は診ないのだろう。

汗をかき体をくねらせながら総合病院に行くと痛みはどんどんひどくなり、とても我慢できないので症状を伝えて最優先で診てもらうことになった。

泌尿器科に行き「腎臓結石だろうと言われて来ました」と言うと、医者は紹介状を開けもしないで下腹部を超音波で診て「腎臓がパンパンに腫れている、血尿が出ている、まず石に間違いないと思いますから、痛みをとる指圧をします」と言って私のわき腹を押した。すると途端に痛みが消えたではないか。なんと素晴らしい医者だろうか。「胃腸炎だろうから明後日来い」などという内科医とは雲泥の差だ。「救急車で運ばれてきた患者さんを指圧で治して歩いて帰ってもらうことが私の目標です」とその医者は誇らしげに語った。

医者によれば、石が詰まって痛いのは痛いだけで命に別状はないから焦る必要はない、痛いときには背骨の真横から背骨に向かって一番痛いところを数秒押して急に離すよう指圧をすれば痛みは和らぐので、それを覚えれば今後は自分で対処できるとのことだ。
それで、押すポイントに目印のシールを貼られた。

なお、この操作で石がとれるわけではなく、なぜこれで痛みが和らぐのかは分かっていないそうだ。

ともかくこれで応急的に痛みが和らげて、あとは痛み止めの座薬と尿管の痙攣をおさえる飲み薬をもらい、多めに水を飲んで石を流すように言われて帰ってきた。石が流れてくると、痛いところがだんだんと下にズレていって、最後に石が尿と一緒に出る、という医者の話どおりの過程がその日の夜には完了するに至った。

それにしても押すだけで痛みが和らぐなんて、なんて便利な対処法があるものだろうか。あんなに痛いものをこんなに簡単に解決する方法があるということを知らなかったのが残念である。体をくねらせ続けた3時間がもったいない。

ということで、読者の中で今後腎臓結石と思われる症状が出たら、すぐに押してみることをお勧めする。ポイントは、腎臓は背骨の横あたりにあり、背骨は体の背中側にあるので、かなり背中側の筋肉を背骨に向かって真横に親指で押すということだ。押して一番痛いところを押すのだが、その痛さは石による痛さとは同質とは限らない。異質であってもよいからとにかく痛いところを押せば良いのだという。

なお、私が医者に押されて「痛くなくなったでしょう?」と聞かれたとき「はい。でも、押された痛さがあまりにも痛かったので、それが除かれたために相対的に痛みが減ったように感じているだけかもしれないのでよく分かりません」と言うと「何言ってるの。痛くないなら痛くないの」と言われたことを付け加えておく。

また「腎臓結石はものすごく痛い」といわれていたほどには痛くはなかった。体をくねらせはしたが叫ぶほどではないし泣くほどでもない。我慢すれば痛くないふりをできる程度のものだった。これが最初の内科に「明後日来い」と言わしめた理由かもしれない。こんなことならもっと騒げばよかった。

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