月別アーカイブ: 7月 2008

もっとチキンを食べて

先日と似たようなブラックユーモアの話だ。

木曜に市内の祭りに行くと、そこに『チック・フィルA』というファーストフードの店が出店していて、面白い看板があった。

「もっとチキンを食べて」「牛肉はありません」と書いた看板を牛たちが持っている看板だ。この店の売りは鶏肉なので、それを強調しようという看板なのだが、なんだか酷いようなジョークである。リアルな牛の写真、書かれた字のおどろおどろしさ、とうてい食欲がわくものではないが、アメリカ人にはこれでいいのだろう。

ここらにはハンバーガーのファーストフードの店は結構たくさんある。マクドナルド、バーガーキング、チェッカーズ、ソニック、デイリークイーン、ウエンディズ、アービスなどとある。その中で面白かったのだが、ハーディーズという店だ。この店、とにかく客が少ない。いつだったかの土曜の午後、客が二人しかいなくて早く食べられそうだったので入ると、ハンバーガーが出てくるまでにずいぶんと待たされた。ファーストフードにあるまじき長さだったと思う。それで、店内を見渡すと、「シリアス・イーターのためのシリアス・バーガー」などと書いてある。つまり、味にうるさい人のための本物のハンバーガーだとでもいうのだろう。

なるほど、旨いとは思ったが私はどれも旨いのであんまり他の店との差がわからない。それよりも、シリアス・イーターという英語の表現の方が面白かった。卓球仲間のウォレンが、「俺はシリアス・プレーヤーだ」と言っていたので、このシリアスとは、本格的とでもいうニュアンスなのだろう。

握りっ屁

昼食のときにマイクが、「面白い映像があるので見ろ」と送ってくれた。

話しているのが英語ではないので、どこかヨーロッパの映像だと思うが、彼らも握りっ屁をやるのを知り、楽しくなった。

握りっ屁で一番に思い出すのは、高校の同級生で、三年間隣の席だった小原だ(クラス替えどころか席替えすらなかったので、卓球部以外の友達は、この男と斜め後ろの男しかいない)。小原はときどき握りっ屁をやっていたが、あるとき、前の席に座っていた男の背中に尻を当てて屁をした。その卓越したアイディアに感心したものだったが、かけられた男が被害妄想ぎみで「背中に屁をかけられた」とたかが屁に異常な騒ぎ方をしていたのが可笑しかった。

ペンサコーラ

先週の土日、ペンサコーラというところに泊まってきた。車で2時間半ぐらいのところで、目的は戦闘機による航空ショーと海水浴だ。

アメリカでは、ホテル代は1部屋いくらなので、家族5人でベッド二つに寝るつもりなら、日本とは比較にならなくらい安い。それもあって、大体の日本人赴任者の娯楽は旅行ということになる。

ペンサコーラは行楽地なので、ホテルはどこも高くてしかもすでに満室のところばかりだったのだが、その中に、インド料理にプール、インターネット付きで一泊80ドルという安いホテルが空いていたので、そこを予約して泊まってきた。

泊まってみると、さすがに安いだけあった。とにかく建物が古くて、フロントでいきなり雨漏りである。それで、案内された203号室に行くと、なんとタオルが床に置き捨てられていて、どうみても掃除をしていない。妻がすごい勢いでフロントに「部屋かえてちょうだい」と電話をした。

次に案内された249号室に行くと、さすがに掃除はされていたが、ワイヤレスのインターネットが通じない。パソコンを持ったまま廊下に出てフロントの方に歩いていくと、途中から電波が届くようになった。そんなのありかよ。それで、またフロントに行って事情を話すと、106号室に行って電波届くか自分で確かめてくれと言われた。それで、電波がくることが分かり、めでたく106号室に移ったのだが、夕方になるとまた電波が届かない。フロントに聞くと「雨が強くなっているからだ。30分待ってくれ」といわれたが、ついに翌朝まで直ることはなく、フロント近くのソファーで電波をとったのだった。他にも何人かがパソコンを持ってソファーにいたのには苦笑するしかなかった。

航空ショーは恐ろしかった。なんたって戦闘機だ。観客たちは「ヒョー」などと歓声を上げていたが、私は戦闘機の本来の目的が人を殺すことであることと、こんなものを作ってしまった人類の科学と、命掛けのパイロットの志を思い、恐ろしいような感動したような泣きたい気持ちになってしまった。しかし一番衝撃を受けたのは、実はバリバリという物凄い爆音だったような気がする。

『停電の夜に』

義姉の人形俳句写真(今回のは俳句じゃないが、キャッチコピーとしてこう呼びたい)の第二弾。

ジュンパ・ラヒリという人の小説『停電の夜に』をモチーフとしたという。停電になった夜に、夫婦が互いのささやかな秘密を打ち明け合ううちに、次第に何かのバランスが崩れてしまうという、想像するだに恐ろしい話である。

私は小説をほとんど読まないので(正確には読もうとしたが、村上春樹を断念し、三島由紀夫や夏目漱石からトライしているところだ)、ジュンパラも恋パラもないわけだが、こういう話なら読めそうだ。

トマトトースト

先日、ある出来事がきっかけとなって好きになってしまう食べ物のことを書いたが、最近、またそれに近いことがあった。

隣の席のマイクが、トーストにスライスしたトマトを乗せて食べていたのだ。トーストにトマトだけとはずいぶんシンプルだが、彼によると、これはこの地方に古くからあるスタンダードな食べ方で、美味しいのだという。コツは、トーストにバターを塗って、マスタードと胡椒とタバスコをたっぷりとかけるのだという。

味はどうにも想像できないが、見ていると確かに旨そうな気がしてきた。それで、家族が里帰りをしている間に、これを夕飯にしてみた。切れない包丁でトマトの汁をピューピューと飛ばしながらスライスし、マイクの言うとおりマスタードと胡椒とタバスコをかけて食べてみた。

結果・・合わない。全然美味しくない。さすがの私もダメである。自らの限界を思い知る出来事であった。

くまだまさし

ある人から、「条太さんにそっくりな芸能人を見つけた」と言われた。私がこれまで似ているといわれた芸能人といえば、オウム真理教の上祐(芸能人じゃないか)、サッカーのなんとかいう選手、悪くてもウルフルズのボーカルの人であり(いずれも髪の毛があったときの話だ)、そういうのを思い浮かべたら、今回はお笑い芸人だという。

お笑いでも最近ではイケメンもいるはずだから、期待して「モテそうな奴か」と聞くと「いや・・ちょっと・・とにかく見てください」と言ってURLを送って来た。

「くまだまさし」という、おゲレツ・スタンダップコメディーの人らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=UmrbjHHsDQU

まったくふざけた話である。今度簀巻きにしてやらないとな。

人形俳句写真の世界

『人形俳句写真』という世界があるのをご存知だろうか。といっても誰も知らないに決まっている。なんたってそれは私の義姉がひとりでやっているものだからだ。

義姉は主婦だが、どこで覚えたのか、何かに感動をしては異様にリアルな人形を作ってそれに俳句をつけて写真を撮るのが趣味なのだ。

その俳句に意味が分からないものが多かったので(自作ではなく知人の引用らしい)、それを起点にしばらくメールで表現論議を戦わせ、いろいろと勉強になった。ときどき紹介したいと思う。

アロハ・シャツ

トニーという同僚がいる。

彼はいつもアロハシャツを着て仕事をしている。今日も着てきたので、私は先日何かで読んだウンチク「アロハシャツのもとは日本の着物だ」という説を披露した。ところがトニー、アロハシャツについて語る語る、歴史や経緯など長々と語ってくれた(早口でほとんどわからなかった)。

するとマイクが隣から「トニーがアロハシャツをいくつ持っているか知ってるのか」と言う。聞いてみるとなんと170枚持っているとのことだ。これまでに買った枚数は500枚以上だが、保管場所に困って多くは人にあげてしまい、今は170枚しかないのだという。彼はとにかく店でめずらしいアロハシャツを見ると必ず買うらしい。もちろん奥さんは「同じ物があるでしょう!」と怒るらしいが意に介さない。また、奥さんが誕生日に普通のシャツを買ってくれたりするが、トニーはそれを絶対に着ないので奥さんに嘆かれているという。

教会にもアロハシャツで行くのかと聞くと、ちゃんとアロハ用ネクタイというのがあって(形は普通でアロハ模様らしい)、それを着けるので問題ないそうだ。本当かよ。ときには下着もアロハだという。

彼がアロハシャツに懲りだしたのにはきっかけがある。会社に入ったときにあまりに忙しいひどい仕事だったので、怒りがちだったのだが、あるときアロハシャツを着たらとてもリラックスし、温和でいられることがわかったのだという。それ以来、アロハの魅力の虜になり、その収集が趣味となってしまったらしい。

それにしてはトニー、今も結構すぐに怒るように見えるのは、気のせいだろうか。

英語コンプレックス

我々には英語コンプレックスがある。出版物やCDなどをみると、NORIYUKI OBARAなどと人名がアルファベットで書いている。別に、外国人に読ませるためではないし、民衆に英語教育をしようというのでもない。ただ英語表記がカッコいいと思っているからだ(それ以外に理由があるというなら教えて欲しい)。

私は長く「日本人としてそういうことではいけない」と思い、電子メールの署名でも漢字の後に「Jota Ito」などとたわけたことは書かずに「いとうじょうた」と平仮名で書いていたのだが、いざ自分が遊びでCDを作る段になると、嬉々としてはなはだしい英語を使ってしまったのは我ながら情けない。

このCDは、吉田伸也という男と3枚だけ作ったものだ。当時は自分でCDに録音することはできなかったので、わざわざ業者に依頼をして作ってもらった。吉田は私の音楽方面の1番弟子であり(2番弟子はいない)、「音楽はテクニックではない」ということを知らしめ、ビートルズの魅力を教えてやった関係で弟子と認定している。ただ、ギターは私とは比較にならないほど上手いので、バンド名は『吉田学校』とした。もちろん昭和の政治家・吉田茂の吉田学校が元だが、意味はない。

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