年別アーカイブ: 2010

『再び女たちよ!』伊丹十三

私は伊丹十三の文章が好きだ。彼の映画も好きだが、文章はもっと味わい深いものがある。

最近買った古本『再び女たちよ!』から、「猫の名前のつけ方」について論じた部分を紹介しよう。

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いかにも、たしかに猫に名前をつけることは大変に難しい。
ただし、世の中には、この難しさを、知っている人と知らない人と二種類あるらしく、知らないほうの人々は、ただただ可愛らしく、甘ったるい名前をつけて、事足れりとなしているように見受けられる。つまり、「ロロ」であるとか「チョン」「ペペ」「ピータン」その他の、女学生時代から一向に知能の成熟しない女(そうでない女がいるかどうかということは、この際ぜんぜん別問題として)そういう女に名付けられたとしか見えない名前の一群である。
私の友人に、八匹の猫を飼っていて、その八匹の猫の名前が全部「玉」という男がいる。
つまり彼は、猫の名前は「玉」でなければならなぬ、と信じているわけで、私は、これはこれでいいと思うのです。少なくとも毅然たる態度であると思うのです。
ともかく大の男が一戸を構えた、その神聖なる城塞の中じゃないか。チーチとかミカとかいう国籍不明のめめしい名前を男は断固排除していいと思う。全部タマ、結構じゃないですか。いっそすがすがしいと、私は思うのです。
(中略)
では、日本語でどういう名前をつけるかというに、第一に、まずそれは堂々たる名前でなくてはならぬ。威風あたりを払うの概がなくてはならぬ。
と、同時に―これが難しいところなのだが、それは全くばかばかしい、なんとも愚かしい、実に間の抜けた、出鱈目きわまる印象を与えるようでなくてはならぬ、のですね。
つまり、なんといったらいいのかな、私にとって、猫とはそういうものなのですね。私は、猫のあの凛としたところと、あの救い難い無知みたいなところ、両方、実に好きなのですね。だから、これをなんとか名前で表現したいと思うのです。名前の上にそれを反映したいと思うのです。
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もちろん私は猫の名前などどうでも良い。ただ伊丹十三のこの言葉の使い方がとっても好きなのだ。

名もなき卓球場

つい先週、近所の住宅街に名もない卓球場があることを発見した(比喩ではなくて実際に名前がないのだ)。

その卓球場は通りに面して建っていて、壁にデカデカと「卓球場」と書いてあるだが、通ったことがない通りだったので知らなかったのだ。

さっそく行ってみると、それは普通の民家の裏に別宅として建てられた卓球場で、ちゃんと営業をしていた。内部には洒落た感じのカウンターなどあり、趣き深い卓球場であった。ただ、現在は卓球場としてよりも社交ダンスの練習場としての方が多く使われていて、平日の夜は水曜以外は毎日ダンス教室の予定が入っているそうだ。

卓球場もダンス教室も、この家の奥さんの趣味が高じて始めたのだという。今は卓球よりもダンスに情熱を傾けているらしい。

卓球場は25年も前に始めているが、名前もないし宣伝もしないので近所の人しか知らないらしい。どおりで私も知らなかったわけだ。

使用料金は1台で1時間500円だそうで、近所の奥さんやら子供などが遊びに来たり、中総体の前に中学生が来たりするという。

こういう、好きなことを貫いている人を見ると、なんだか嬉しくなってしまう。それが他ならぬ卓球なのだからよけいである。

帰り際に「ダンスを始めないか」と誘われたが、丁重にお断りした。私は踊りほど嫌いな娯楽はないのだ。

あるママさんの話

ママさんといってもママさん卓球の話ではない。

先週末、ある飲み会の二次会で小さな飲み屋に行ったのだが、そのとき、たまたまカウンターで隣に座った年配の女性と話すことになり、そこでなかなか考えさせられる話を聞いたのだ。

彼女は54歳であり、あるスナックのママさんであり、この店のマスターとは30年来の知り合いだという。結婚をしたことはないが、かつてとても好きな男性が二人いて、二人とも死んでしまったという。ひとりは29歳のときに交通事故で死に、もう一人は今年、60歳を前にして病気で死んだという。その人も飲み屋のマスターであり、前々から体の調子が悪かったが、病院には行かず、病院に行ったときには内臓中に癌が転移していて手遅れだったという。健康診断には行ってなかったのかと聞くと、そのママさんが言うには「この商売している私たちがそんなもの行くわけないでしょ」という。もちろんママさん本人も行かないという。

どうして行かないかと聞くと、そのママさん、病気で死ぬのも運命だから治してまで長生きする気はないという。それに、死んだら待っててくれる人たちがいるんだから死ぬことは全然嫌じゃないというのだ。私は「あの世」がある可能性はゼロだと思うが、この人の、あまりに確信に満ちた安らかな語り口を前にすると、そういうことにして生きるのもいいものだなと初めて思った。それにひきかえ、長生きしたいと思っている自分が何か卑屈な存在のように感じられた。

かと思うと「死んだ人より生きている人の方がずっと怖いよ」などと、現実的なことを言うので「ほう、なるほど、さすが経営者だけあって現実も分かってるんだな」と思って続きを聞くと、なんとその意味は、生きている人の霊、つまり生霊(いきりょう)の方が怖いという話で、あまりのバカバカしさに我慢しきれず「ブハッ」と吹き出してしまった。

その生霊の話がふるっていた。そのママさんの店の常連で霊が見えまくりの女性がいて、あるとき、その女性の目の前でバチッと火花が散ったのだという。何事かと思って聞くと、ある男性がその女性のことを好きなので、それに嫉妬した奥さんの生霊がやってきて彼女の前で火花を散らしたのだそうだ。もはや検証とかいう以前の話である。

さらにママさん自身に霊感はないが、テレビ画面に幽霊が出るのは何度も見ており、その理由は「霊魂は電磁波だからテレビに映るため」と断言する。電磁波なら簡単に測定できるではないか。科学の外にあるからこそのオカルトを論じるのに科学の言葉を使う矛盾など、ものともしないのだ、こういう人たちは。

こういう、頭の痛くなるような目も当てられないオカルト話の上にしか「やすらかな死」は成り立たないのだろうか。

最後にこの店のマスターが「50過ぎればいつ死ぬかわかんないんだから我々みんな死刑囚のようなもんだよ」と言ったのが含蓄があって感銘を受けた。

酔いの回った頭で、感銘を受けたり吹き出したりうんざりしたりと、忙しい夜だった。

予知能力の証明

インターネットが普及して、私がかねてから注目していたあることが明らかになった。

それは、予知能力がある人などいないことだ。インターネットが普及する前なら、どこかに予知能力がある人がいても、それを事前に発言したことを証明する方法は極めて限られていた。予知内容をマスコミに送っても相手にされるとは限らないし、マスコミもグルになって「確かに事件の前に予知を受け取った」と口裏合わせをする可能性も考えられる。

しかし、今は誰でもインターネットを使えば自分のブログだろうか他サイトへの書き込みだろうが気軽に予知ができて、しかもいつ書きこんだかもほぼ疑いなく証明できるのだ。

もし自分に本当に予知能力があったら、それを証明するのは簡単なことだ。どこかに書き込めばいいのだ。誰にもじゃまされることはないし、何の問題もない。よく自称・超能力者が「本当に予知できるのならどうしてギャンブルで大儲けしないのか」と聞かれると「私利私欲のためには能力は働かないのです」とごまかすが、そんなもん、儲けたお金を全額どこかに寄付するとか宣言してやればいいだけのことだ。

それでも今のところ、そのような予知で予言を的中させた人は現れていない。すべて事後に「予知していた」と証明不可能な申し出をするだけだ。

これがとりもなおさず、この世に予知能力者などいないということを明確に証明しているのだ。

卓球テレビ放送のコレクション

私が撮りためた卓球に関するテレビ放送のリストを自慢させてもらおう。

「スポーツ大陸」とか「知ってるつもり?荻村伊智朗」とか愛ちゃん特番などの、1時間近い番組はそれぞれ別のDVDに録画してあり、あくまでこれはバラエティやニュースで瞬間的に卓球が出てきたときの映像コレクションだ。ここまでしている人は他にいないのではないだろうか。96年アトランタ五輪の開会式でワルドナーがスウェーデンの旗手として歩いている2分間の映像や、四元が「トリビアの泉」に出た映像もある。まいったか!

しかし仙台はテレビ東京が映らないのでそれはないし、アメリカに行っていたこの3年半は、大きな番組を人に頼んで撮ってもらった以外はほとんど録画できなかった。悔しい。

卓球の的当て

卓球選手がバラエティ番組などに出ると、ときどき、そのコントロールの正確さを表すデモンストレーションとして、相手コートに置いた的に打球を当てるというのがある。

いつもこれで不思議に思うのが、一球だけしかやらないことだ。一球しか映さないのなら、そんなもん、当たるまで何回も撮影すればいいだけなのだから、本当にコントロールがいいかどうかわからないではないか。当てる直前にカメラは切り替わっているので編集も疑われる。もちろん、出演者たちはさも一発で当てたように驚けばいい。

NHKの「アインシュタインの眼」に松下浩二が出たときは、岸川が送ったボールをスマッシュして一発でペットボトルに当てたが、その後、台に置いたピンポン球に対しては、2回外して3回目に当てた。これくらいリアルだと見る気になるのだが、どんなものだろうか。

ちなみに、下の写真は、社内のクラブ紹介用に作ったビデオだが、3番弟子の小室がバックサイドの台の外からコーナーのボールにブチ当てるという、超難易度の高い技の映像だ。当たるまで何回もやらせたことは言うまでもない。やっと当てたはいいが、あまりの嬉しさに笑ってしまった小室にNGを出し「バカ笑うな。さも毎日当ててるような顔をしろ」と厳しく指導したのが思い出される。

超能力捜査官

やっと地上波デジタル放送が見られるようになった。
昨日、9時からの番組で、ナンシーなんとかというインチキ超能力者の番組をやっていた。1982年にある事件の遺体の位置をズバリ当てたそうだが、それから現在までの約30年は何をやっていたのだろう。

いったいどういう人かと思って「ナンシー」で検索したら、以前「テレビのチカラ」に出ていた別のナンシーとジョージ・マクモニーグルについての面白いサイトが見つかった。

「FBI超能力捜査官はアホだ」
http://www.sakusha.net/moromoro/makumoniguru2.htm

明らかにフィクションのドラマに「実在の団体とは関係ありません」などと言わずもがなのことを書くくせに、こんなインチキ番組を何のことわりもなくドキュメンタリー風に放送するとはどういうことだろう。視聴者をだまして視聴率を取ろうという悪意ある意図は明白である。こういう番組のせいでオカルトを信じる人が多くなり、ひいては霊感商法にひっかかったり、間違った信念を持つに至る人がどれだけいることか。

それにしても、身内が殺された人の、藁にもすがる気持ちをいいことにヤラセ番組を作るのが遺族に対する愚弄でなくてなんだろうか。これこそ明白な犯罪行為であろう。こんな蛮行を許しておいて良いのだろうか。いい加減、こういう番組は厳しく取り締まって禁止にしてもらいたいものだ。

長嶋茂雄と江加良

私は、1990年代前半から、テレビのバラエティなどで卓球が取り上げられた映像を細々と撮りためている。そのためにテレビの番組欄は常にチェックしていたし、卓球の文字がなくても可能性がある場合には常にテープに録画しておいて、幸運にも卓球がでてきたら後で別のテープにその部分だけダビングするのだ。

そのようにして撮りためた8枚のDVDの中身を昨日、整理した。
なかなか珍しいものもあって、松下浩二が木ベラで小学生チャンピオンと試合したのなども見つかった。当時は知らないので気がつかなかったが、今みてみると、その小学生チャンピオンとは当時小学5年生の三田村宗明であった。

もっとも貴重なのは、世界丸見えテレビ特捜部で一瞬出てきた、長嶋茂雄と江加良のラリーだ。こんな映像を持っているのは世界広しといえども私ぐらいのものだろう。また、何かの番組で、ソウル五輪決勝の劉南奎と金琦擇のラリーが数秒映ったのもあった。当時、NHKで放送された高いカメラ位置のとは違って、フロアから撮影された超ド迫力映像だ。

誉めてもらいたい。

映画『善人の条件』

『善人の条件』という映画がある。ジェームス三木という有名な脚本家が監督に挑戦した映画なのだが、これはある点で特異な映画である。

写真をご覧いただければそれが分かると思うが、この濃すぎる面々を見て欲しい。
津川雅彦に丹波哲郎、これだけでも「うわ」という濃さなのに、これに小林稔侍、橋爪功が絡むのだからたまらない。写真には写っていないが、イッセー尾形も入っている。
つまりこの映画は、ジェームス三木が、その人脈を使って、普通ではあり得ないような贅沢なキャストで作られた映画なのである。だいたい、小林稔侍と橋爪功という超クセ者を同時に画面に映すなど、自殺行為に等しい。通常、こういう役者は1作品に一人なのだ。この他に柄本明、西岡徳馬、竹中直人を加えて映画を作ったらどうなるだろうか。一度見てみたいものだ。

内容自体は、面白くなくもないのだが、それよりもとにかく俳優陣の濃さに圧倒されて、そればかり強く感じさせられるのだった。

ちなみに、ウィキペディアによれば、ジェームス三木は新人の頃、名前を覚えてもらえず、「ジュース三本」と間違われたことがあるという。