私は伊丹十三の文章が好きだ。彼の映画も好きだが、文章はもっと味わい深いものがある。
最近買った古本『再び女たちよ!』から、「猫の名前のつけ方」について論じた部分を紹介しよう。
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いかにも、たしかに猫に名前をつけることは大変に難しい。
ただし、世の中には、この難しさを、知っている人と知らない人と二種類あるらしく、知らないほうの人々は、ただただ可愛らしく、甘ったるい名前をつけて、事足れりとなしているように見受けられる。つまり、「ロロ」であるとか「チョン」「ペペ」「ピータン」その他の、女学生時代から一向に知能の成熟しない女(そうでない女がいるかどうかということは、この際ぜんぜん別問題として)そういう女に名付けられたとしか見えない名前の一群である。
私の友人に、八匹の猫を飼っていて、その八匹の猫の名前が全部「玉」という男がいる。
つまり彼は、猫の名前は「玉」でなければならなぬ、と信じているわけで、私は、これはこれでいいと思うのです。少なくとも毅然たる態度であると思うのです。
ともかく大の男が一戸を構えた、その神聖なる城塞の中じゃないか。チーチとかミカとかいう国籍不明のめめしい名前を男は断固排除していいと思う。全部タマ、結構じゃないですか。いっそすがすがしいと、私は思うのです。
(中略)
では、日本語でどういう名前をつけるかというに、第一に、まずそれは堂々たる名前でなくてはならぬ。威風あたりを払うの概がなくてはならぬ。
と、同時に―これが難しいところなのだが、それは全くばかばかしい、なんとも愚かしい、実に間の抜けた、出鱈目きわまる印象を与えるようでなくてはならぬ、のですね。
つまり、なんといったらいいのかな、私にとって、猫とはそういうものなのですね。私は、猫のあの凛としたところと、あの救い難い無知みたいなところ、両方、実に好きなのですね。だから、これをなんとか名前で表現したいと思うのです。名前の上にそれを反映したいと思うのです。
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もちろん私は猫の名前などどうでも良い。ただ伊丹十三のこの言葉の使い方がとっても好きなのだ。