月別アーカイブ: 4月 2011

親切な自動販売機

自転車で近所をフラフラ散歩していたら、たいへん親切な自動販売機を見つけた。

そこには、次のように書かれていた。

この自動販売機は毎日売上金を回収しています。
This vending machine collects proceeds every day

これ、誰に何のために書かれているのかといえば、泥棒さんに対して書かれているのだ。毎日売上金を回収していて中にはそれほど大金は入っていないから、泥棒しても効率は良くないですよと言いたいのだ。これを、これみよがしに英語、韓国語、中国語でも書いているところがかなりブラックである。この自販機の他の表示は、HOTとかCOLDなどわずかの英語以外はすべて日本語であり、韓国語と中国語の表記は皆無である。それが、泥棒さん用の注意書きだけは韓国語と中国語がしっかり書いてあるのだ。・・・なんと人種偏見に満ち満ちた親切なのだろうか(笑)。

しかもこの英語、主語が自動販売機になっているので「自動販売機が毎日売上金を集めている」ということになり、大金が入っていないどころか、大金がたんまりありますよという正反対の意味になっている(笑)。もしやと思ってYahoo!の自動翻訳機にかけてみると、見事に一字一句たがわぬ英語が出てきた。英語が分かる人にチェックしてもらう手間さえ惜しんだのだ。しかもピリオドが抜けているので中学の英語も落第である。さすが臆面もない人種差別をするだけのことはある。

このステッカー、並んでいた異なるメーカーの自販機すべてに貼られていたので、自販機のメーカーとは関係なく売られるか配られるかしているのだろう。

「お金がたんまり入っていますよ」という親切な注意書きを見て英語圏の泥棒が大活躍しないければいいのだが・・・。

放射能の脅威

放射線被爆による健康被害を心配する声があちこちから上がっている。ちゃんと計算すれば、福島から離れた関東圏の放射線量など全然問題にならないほどの微量なのに、「検出された」というだけで大騒ぎである。なぜこうなるかといれば、マスコミの習性で、恐怖で人の興味をひきつけようと刺激的な見出しにするからだ。注意深く見れば、見出しは必ず刺激的で恐ろしいことを連想させるものになっていることがわかるだろう。そして読んでみるとたいしたことはない内容であることが多い。

「検出された、検出された」と散々書いておいて、最後の最後に「健康被害の心配はない」である。これでは大衆が恐怖に踊らされるのも当然だ。

ネットでいろいろ調べたところでは、長時間の放射線被曝と発ガン確率で証明されている関係は、総被曝量100ミリシーベルトで発ガン率0.5%ということだ。合計で100ミリシーベルト浴びれば、その後の人生で癌になる人が1000人に5人いるということだ。そして、被曝量と発ガン率は比例するとされている。ただしこれは、100ミリシーベルト以上の被曝者のデータから導き出された関係であり、100ミリシーベルト未満の被曝についてはその影響があまりに微量で検証が難しく、影響があるのかないのか自体が未だに実証されていない。つまり、10ミリシーベルト浴びたら10000人に5人が癌になるかどうかは分かっていないということだ。わからないが、念のため、そのように仮定して被曝限度量などを決めているという。

なぜ実証が難しいかといえば、そもそも人間は放射線がなくてもかなりの確率で癌になるからだ。たとえば日本人は生涯に約40%の人が癌になるのだから、放射線を合計100ミリシーベルト浴びた人が癌になる確率が、浴びない人の約40%に対して0.5%だけ増えることを実証しなくてはならないのだから、バラツキを考えるとほとんど計測不可能であることがわかるだろう。ましてや年間5ミリシーベルトだの10ミリシーベルトだのという量は、それで癌になるためにはいったい何年かかるのかというほどの微量なのである。

こういうことがわかれば、現在、水や食品から検出されている放射能物質がいかに問題にならない量かがわかるだろう。枝野長官も「ただちに健康に影響はない」なんて表現ではなく、「屋外で裸で24時間1000年浴び続けたときに10000人に5人が癌になるかもしれない量です」などと言えば誰も心配しないのにと思う。

週刊誌を見ると、当然のように恐ろしいことばかり書いてある。週刊朝日など、故意か間違いか「年間被曝量限度である1ミリシーベルト浴びると10000人に500人が癌になる」などと1000倍も間違ったことを平気で書いている。おそらくこれは、被曝量と癌発生率の公式な学術見解である「1シーベルトで5%」というのを単位を間違えたものだろう。だいたいこの記事にしたがうと、日本政府は100人に5人も癌になる被曝量を年間被曝量の限度にしていることになり、ムチャクチャである。記事を書いていて自分でおかしいと思わなかったのだろうか。たぶんオモシロ怖ければそれでいいんだろう。

バカな情報を鵜呑みにする大衆も悪いとはいえ、こうまで堂々と書かれたら信用してしまうのも無理もない。こういう報道の詭弁やウソは、もはやクイズをしかけられているようなものだ。ちなみに、このブログのタイトルに「脅威」とあるのはもちろん皮肉である。

他にも「チェルノブイリのように原子炉が爆発すれば」などとそもそも福島原発では有り得ない仮定のもとに「放射性物質が首都圏まで広がる」などと、その量を考えずに恐怖を煽っている。放射性物質が広がるのは当たり前である。昨日のニュースではすでに北半球全体に広がっているという。問題はその量なのだ。健康や自然体系に問題のない量がいくら広がったって何の問題があろうか。

もうひとつ付け足せば、人体に影響があるのは「放射線」であって「放射能」ではない。何かの「能力」が危険だというのは、言葉にこだわる私にとってはなんとも許しがたい表現である。どうしても放射能という言葉を使いたいなら、せいぜい、放射能物質が危険だとでもすべきだろう。「放射能で巨大化した怪獣」などが出てくる映画やドラマなどのために「放射能」という言葉が意味もわからずに使いまわされて定着したせいだろう。まともな学者はみんなきちんと放射線と放射能を使い分けている。なんでもかんでも放射能とだけ表現している記事や発言は、それ自体が素人の証拠であり信用するに値しない。そしていたずらに恐怖を煽っているのは常にそういう人たちであり、それはもはやただのデマと同じなのである。ましてやツイッターだの友達から聞いた話など、話にも何にもならない。

このブログのタイトルに「放射能」とあるのも、もちろん皮肉である。

小室の精神力

3番弟子の小室は私の家よりも海側にあったため、今回の震災で津波が家の二階まで上がり、家には住めない状態である。水が引いてから行ってみると、台所に設置していた自慢の1/2サイズの卓球台が更に半分になっていたという。また、液晶テレビとブルーレイレコーダーはなくなっていたという。

幸い、本人も家族も無事で、しばらくは奥さんの妹の家に避難をしていたのだが、先週めでたくアパートに移った。

家に損害があった場合には市から補助が得られるらしいのだが、全壊と半壊で金額が違うので、中途半端に壊れていたらもっと壊した方がいいかもしれないなどと言っている。

また、小室の家の辺りはどこもひどい有様で、もう誰も住まないだろうから気がねなく卓球場を建ててしまおうなどと言っている。自分たちはアパートを借りて住んでいるのに自分の土地は卓球場にするというのだから、卓球人として素晴らしい心がけである(一般的には完全にイカれた心がけだ)。奥さんは文句がないのだろうかと思ったが、なんとこれは奥さんの考えなのだという。奥さんの卓球熱の方が勝っているのだ。

小室の家の様子を見ようと近くまで行ってみたが、あまりに風景が変わっていて迷ってしまい、結局たどり着けずに、あらぬ方角から通りに出て帰ってきた。

「通れねっちゃ!」

先週の町内の瓦礫撤去作業のとき、また不快な思いをした。

水没した家にたまった漂流物をゴミ捨て場に移動しようと1ヵ所に集めていたところ、作業の途中でその隣の家のおばさんが車に乗って出てきて、運転席から顔を出して我々に向かって叫んだ。

「通れねっちゃ!」

確かにゴミは道路の真ん中に集めていて車は通れないが、我々がそれを置きっぱなしにするとでも思ったのだろうか。トラックが来るまでの10分ほどの仮り置きに決まってるではないか。それに通れないといっても、反対側を回ればどこにだって行けるのだ。

そもそも、この人を含めた、この通りの住人たちのために瓦礫撤去作業をしているのに、この言い草である。

「トラックが来たらすぐによけますから、済みませんが反対側から回ってください」

と言ったが、ボランティアをするということは、こういう人たちにも我慢して相手をしなくてはならないということであり、底知れない忍耐力が必要なものなのだ。私には無理そうである。私はまだ経験していないが、中にはボランティアに助けられるのが当然だと考えていて「もっと早くできねえのか」なんて言う人だっているに違いない。被災者とはいえ特別な人たちではないのだから、一般の人と同じ確率でオカしな人がいるのは当然である(そんなヤツはテレビに映さないことは言うまでもない)。

写真が問題の通り(瓦礫撤去後)。

元気なこどもたち

地震以来、こどもたちは毎日遊び呆けている。

なにしろ学校がないし、風呂が入れないと言っては友達の家に入りに行き、電気が来ないと言ってはロウソクの灯りで非日常を楽しんだりといった具合だ。

町内のゴミを集めた公園では、そのゴミを搬出する業者の横で子供たちが元気に遊んでいた。

再び大地震

昨夜は本震以来、最大の余震が来て驚いた。

普段着で寝ている甲斐があって、地震から1分後には家族5人が軽自動車に定員オーバーでぎっしりと乗って逃げていた。妻は油断してパジャマだったので、パジャマのまま運転をしたのだが、ビールを4本空けた後だったので、危うく壁にぶつかりそうになり、それがもっとも危険であった。地震後に直ぐに停電したため、またもや防災リュックを持たずに飛び出してしまったので、今後は常に車に積んでおくしかないという結論になった。

十分に内陸まで走ってコンビニの駐車場で津波警報が解除されるまで1時間待ち、1時頃に自宅に戻った。今も電気が来ていないので、今晩は電気の来ている妻の実家に泊まることになった。

これで大きな余震は打ち止めにしたいものだ。

和解

妻は最近、例の「こんにちは、おはよう、ありがとう」という挨拶のコマーシャルがすっかり気にならなくなった自分を発見したと、すがすがしい顔で語った。

「何かを乗り越えた」のだそうだ。どうやら和解したようである。

自衛隊と警察

知人の田村が「今回の震災の復興で自衛隊が物凄い活躍だね」と言ったので、私が「俺はもともと自衛隊や警察には最大限の敬意をもっている」と言うと、田村はとても意外そうな顔をした。

普段、なんでもかんでも反対したり批判したりしている私のことだから、自衛隊と警察にもきっと反感をもっていると思ったのだろう。ところが違うのだ。命がけで日本の治安を守る警察や外敵から国民を守る自衛隊を批判する理由などない。

また、警察を批判するヤツらがあまりにも愚劣なので、その反動で意地でも警察に好感を持ってしまうというのもある。10代の頃によく聞かされたのが、スピード違反の検挙を隠れてやるのが卑怯だというものだ。スピードを出させたくなかったらなぜ堂々とやらないのかと言うのだ。

彼らは、隠れてやるからこそ少ない人数で最大の効果を得られているという当然のことすらわからないバカなのだ。「警察官の中にはろくでもないヤツもいる」というのも的外れである。警察官だろうと何官だろうと、ある確率でろくでもないヤツがいるのは当たり前ではないか。そういうヤツが紛れ込んでいて、なおかつ警察官個々の職務の動機が必ずしも市民のためではなくて私利私欲であったとしても、それでもシステムとして交通事故の低減に効果を発揮するように仕組まれているところこそが優れているのではないか。

警察が犯人を追いかけて、逃げる犯人が事故で死んだりするとすぐに警察に落ち度がなかったかを問題にするマスコミも気に入らない。逃げるほどの悪事を働いた犯人が悪いに決まっているのだから警察に落ち度などあるはずがないではないか。

自衛官や警察官が他の職業に比べてもともと特別に偉い人たちだとは思わない。しかし、経緯や動機はどうあれ、結果として国民のために命を懸けていることは事実なのであるから、それだけで私は敬意を表するのである(ただし、取調べで罪をデッチあげるのはこれはこれで死刑にも値する犯罪だと考える)。

ランゲルハンス島

糖尿病の検査の結果「ぎりぎり糖尿病です」と言われた。なかなか気の利いた表現にニヤリとした。ニヤリとしていられたのも、かなり軽度で、正常と糖尿病の中間である「境界型」なので治療の必要はなく、糖分や食事量を心持ち抑えればよいだけだということだからだ。

妻には「あれだけ毎日チョコレートやポテトチップスを虚ろな目で食べ続けていれば病気にならない方がおかしい」と言われた。まあ、妻の表現は誇張だが、甘いものが好きなのは確かだ。チョコレートは毎日食べるし時にはツブ餡の缶詰を買って食べるくらいだから、人並みとは言いがたい。

ネットで調べると、一度本当の糖尿病になってしまうと、もう治らないと怖いことが書いてあったので、今日からチョコレートもツブ餡も食べないことにした。チョコレートごときのために死ぬわけにはいかない。

初めて糖尿病を発見したのは、イギリスの医者トーマス・ウィリスで、1674年のことだという。トーマスは多尿症の研究をしていて、どうしても尿の成分を知りたくて患者の尿を舐め、それが甘いことから糖尿病を発見したという。

また、糖尿病がすい臓と関係があることを発見したのは、それから約200年後の1889年、ドイツの内科医オスカル・ミンコフスキとヨーゼフ・フォンメーリングだ。彼らが健康な犬のすい臓を除去するテストをしたところ(気の毒な犬だ)、何日かするとその犬の尿にハエが群がっていることに気づいて尿を調べ、すい臓と糖尿病に関係があることを突き止めたという。

現代の何をとってみても、先人の途方もない努力の上に成り立っていることを実感させられる。なんと我々は幸福な時代に生きているのだろうか。

ちなみに、ランゲルハンス島とは、血糖値をコントロールするのに重要な働きをするインスリンを分泌する、すい臓内の細胞群に、その発見者にちなんでつけられた名前である。まちがっても「そこに行ったことがある」などとはいわない方がよい。

チャリティーコンサート

初めてチャリティコンサートというものを知ったとき、ものすごく違和感があった。
最初、コンサートでどうやって寄付をするのか不思議に思ったものだ。恵まれない人をコンサートに招待するのだろうか、あるいはもしかして、恵まれない人たちを元気付ける歌でも歌うのだろうかなどと考えたのだ。

そうではなくて実は、コンサートの利益を寄付に回すのだということを知ったときの違和感はどうしても忘れられない。お金を払うのは裕福ではない一般人であって、裕福と思われる主催者側はただ演奏して歌うだけというのが腑に落ちないのだ。もちろん、演奏して歌うだけで経費がかかるし、本来、自分の利益になるはずの分を寄付するのだから、私財を寄付するのと同じことなのはわかるのだが、どうにも釈然としない。

「個人で寄付する金額には限界があるがコンサートで大勢の観客の入場料を集めれば大きな金額になる」という理屈もあるだろうが、それならそのアーティストは、普段はそのコンサートの収益をたっぷりと手にしているわけで、1回のチャリティーコンサートで得られる程度の金額の何倍もの資産を持っているはずである。わざわざコンサートなどして他人に金を払わせるのではなくて、自分の資産を寄付した方がよっぽど早いし直接的である。

金持ちは寄付すべきだと言っているのではない。チャリティコンサートなんてまわりくどいことをするくらいならただ自分の金を寄付した方が良いのではないかと思うだけだ。

孫正義が100億円を寄付することにしたそうだ。流石である。もっとも彼はコンサートしようにもできないわけだが。孫が小話しとかカラオケをしても客は30人くらいのものだろうしな。

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