年別アーカイブ: 2011

「がんばろう東北」

今日は、息子たちの高校の制服の採寸のため、仙台市内の中心部に行った。
先週とは見違えるほど多くのレストランや喫茶店が開いていて、もはややっていない店の方が少ない感じがした。

あるソバ屋は、まわりの店がやっていてその店だけがやってないのに、「臨時休業中 がんばろう東北」と書いてあった。

「いや、がんばらなくてはならないのはお宅ですが」って思ってしまった。

放射性物質の影響

福島原発の事故に伴い、あちこちで暫定規制値を超える放射性物質が測定され、出荷自粛だの摂取を控えるだのの騒ぎになっている。

専門家によれば、暫定規制値はかなり厳しい値であり、現状で計測されている値はほとんど気にする必要がない値だということで、いかに安全かということをテレビで説明していた。

私としては、もうひとつ説明が必要だと思う。「少量なら安全だ」と言われても、少しでもリスクがあるなら避けたいと思うのが人情だろう。それはひとつの誤解に基づいている。物質には人体に無害の物と有害の物があるという誤解だ。実際には、過剰に摂取すればどんな物質でも有害であり、底抜けに無害な物などこの世にはないのだ。砂糖だって塩だってアルコールだって水だって採りすぎれば弱い放射線を浴びるよりずっと恐ろしい事態になる。だからといって「少しでもリスクを減らすため」にこれらを自粛する人はいない。そんなことをしたら摂取できるものはひとつもなくなるからだ。

そういう説明を具体的な例(塩を通常の何倍採ったら死ぬか等)を挙げて説明するともっと納得してもらえるのではないだろうか。

水を求めて並んだり食べ物を捨てることの方がずっと確実な無駄である。

日本好き

三男の小学校の卒業式があり、通信簿と工作を持って帰ってきた。

工作はオルゴール付きの小物入れだが、なんとそのデザインは日本の国旗。

よっぽどアメリカ生活が嫌だったらしい。わが三男は、左翼の人たちが大騒ぎしそうな「軍国少年」というところだろうか。

折りしも震災で日本人の品格が世界に認められつつある昨今、私にとっても非常にタイムリーな工作だったといえる。それにしてもデザイン性のかけらもないが。

さらばマーチ

会社の駐車場に停めてあった愛車マーチが見つかった。ちょっと離れたところにレッカー移動されたらしく、他の車たちと一緒にぎっしりと並べられていた。車のナンバーは覚えていなかったが、トランクに見覚えのあるコードとボックスティッシュがあったのでわかった。後の席には田村の自転車を積んだときに汚れないように敷いた新聞紙が残っていた(田村は「これで自転車でシートを汚したのを気にしなくて良くなりました」と喜んだ)。

助手席の物入れから車検証を見つけて自分の車であることを確認した。

何台かの車にチラシが貼ってあるのでよく見ると、運んで廃車手続きをしてくれておまけに買ってくれるのだという。早速電話をかけて買取価格を聞くと5,000円~10,000円だということだ。只でもいいくらいなのでお願いすることにした。

さも人助けのためのようなことを書いてるが、ちゃんと儲かるのだろう。ガソリンもしっかり抜くんだろうな。書いてあったウエブサイトのURLにアクセスすると「作成中」となっているし、仙台の小さな会社だというので、おそらく震災後に急にビジネスを思いついたのだろう。たいしたものだ。

29万円で買って、発進時に下の方からカタカタと音のするクソ愛車マーチだったので、まあ良しとしよう。

何でもないような夜

毎週土曜の夜、卓球の帰りに心地よい疲労感でお菓子や飲み物を買いに寄っていたセブンイレブンを見てきた。この店で買い物をしているときの悩み事といえば、どれを買ったら美味くてカロリーが少ないかぐらいのものだった。

何でもないようなことが/幸せだったと思う/何でもない夜のこと/二度とは戻れない夜

という誰かの歌をしつこくこのコンビニで聞かされていて、そのたびに「ああ、何か不幸があると後でそう思うんだろうな、今の何でもない状況を楽しもう」と思ったものだった。

今、そういう日常が非常に懐かしい。

思い出の消失

我が家より海側には思い出深いところがある。

息子たちがお世話になった幼稚園があるのだ。学校からわずか1.5キロの道を、途中のガソリンスタンドで休んだりあれこれ道草を食ってなぜか1時間半もかけて毎日通っていた幼稚園だ。妻と共稼ぎだったので、すっかり暗くなるまでお世話になった思い出深いところだ。

行ってみると、建物の形は残っていたが、水やら流木やらをもろに浴びて、もはや使い物にならない状態であった。地震から津波までは40分ほどあったので、被害にあった人はいないことを願う。

地震の跡

昨夜から自宅に移った。埋立地のためか、心なしか揺れ方が激しいような気がして夜は余震が起こるたびに不安だ。

わずか500mほど離れた住宅地の海に近い方は完全に床上浸水をしていたことが、壁についた跡でわかった。

毎週土曜に卓球をしていたコミュニティーセンターに行ってみると、そこもやはり1メートルぐらいの水かさだったようだ。ただ、玄関が閉まっていたため、内部の水深は20cmほどであり、和室には水が上がってはいなかった。

以前のようにここで卓球をできる日はいつのことだろうか。しかし全壊した釜石や石巻とは違い、時間さえかければその日は確実にやってくるのだから、幸運だったと思うしかない。

紛らわしい家

仙台の沿岸沿いの惨状は目を覆うばかりだが、津波が来なかった内陸地は、建物としての被害はまったくといっていいほど見られず、何事もなかったかのようである。

ところが、そういう地域にもときどき、津波が来たかのような家があってドキッとするのだが、津波とも地震とも関係ないいわゆる「ゴミ屋敷」や廃屋だったりして実に紛らわしい。

叔母夫婦の被災

現在私がお世話になっている妻の実家に、今回の津波で家を失った妻の叔母夫婦が石巻から昨日、避難してきた。被災して以来、ずっと近くの中学校に避難していたのだが、今後しばらくはここに住むことになった。

70代後半の叔母夫婦は、地震が来たとき、家の近くのイオンスーパーで買い物をしていたという。レジに並んで1万円札を出したときに大きな揺れがきて、店内は大騒ぎになった。すぐに「津波が来るので逃げろ」となった。レジが動かないのでおつりを出せないと言われた叔母は1万円札を返してもらい、その上、商品だけ只でもらえないか聞くが、「それどころじゃない、逃げろ」と叔父に諭され自宅に向かった。

家に着くと仙台から近くの実家に帰省していた大学生の孫が飛び込んできた。一緒に車で逃げようというのだ。大急ぎで金庫の中からお金やら書類やらを掻き出していると、孫は「一度家に戻る」と言っていなくなってしまった。そのうちに、「水が来た」という声が辺りから聞こえてきて、向かいの家の奥さんが「上がっていいですか」と避難してきた。一度、叔母夫妻の家に入ったその人は、なぜか再び水位の高い自分の家の方に戻って行き、未だに見つかっていないという。看護婦をしている人だったという。

水はどんどん流れてきて、外に逃げるのは諦めて2階に避難した。孫が勝手口から飛び込んできて、3人で2階に上がった。水は2階の床上30センチほどになって止まった。3人はベッドの上で膝をかかえてそのまま恐怖の夜を迎える。

家や自動車などさまざまな漂流物が流れてきて家にぶつかる。横に長い家だったが、大きな車がぶつかってちょうど避難していなかった側半分がむしりとられた。大量に流れてきたオイルやガソリンの臭いが立ち込め、口が開いたままのプロパンガスのボンベが水上でシューシューとガスを噴出しながらねずみ花火のように回転している。引火とガス中毒が恐ろしくて、雪の降る中、一晩中窓を閉めることもできない。水の底の方で点滅している自動車のテールランプが心底不気味に見える。

余震の津波が来ると、遠くの松林からサワサワと音が聞こえてくる。そのたびにもう終わりだと思い「3人で死のう」と堅く抱き合った。

大学生の孫は隣の家でひとり2階に避難していた奥さんに声を掛けて一晩中励ました。その奥さんは家族5人のうちひとりだけ生き残ったという。

翌朝、水が引くと1階の台所にどこかの遺体が浮いていた。水が膝ぐらいになるのを待って、避難所である中学校に移り、昨日までそのまま着替える機会もなく避難をしていた。ここに来て地震後初めてテレビを見た、乾いた服と布団が夢のようだ、他に何も要らない、と言った。

幸い、息子夫婦も孫も親族はすべて無事であり、生き延びた嬉しさに、涙はまったくなかったが「こんな経験は1回で十分、1回も要らない」と語った。

愚劣な言い換え

被災者がインタビューをされると、ときどき「部落」という言葉が出てくる。部落とは「地区」をあらわす行政用語であり、方言ではない。ところがテレビではこれに「集落」という字幕があてられる。「部落差別」に対する配慮からだ。

部落差別は悪いに決まっている。これほど愚劣なものはない。しかし部落という言葉を避ける理由はどこにもない。

「部落」という言葉を「集落」という言葉に変換して字幕を打ち込むとき、ほんの少しも疑問に思わないのだろうか。

このような話を以前、職場の昼礼でも話したが、微妙な雰囲気であった。だいたいいつも浮き気味である。