今日は、息子たちの高校の制服の採寸のため、仙台市内の中心部に行った。
先週とは見違えるほど多くのレストランや喫茶店が開いていて、もはややっていない店の方が少ない感じがした。
あるソバ屋は、まわりの店がやっていてその店だけがやってないのに、「臨時休業中 がんばろう東北」と書いてあった。
「いや、がんばらなくてはならないのはお宅ですが」って思ってしまった。
福島原発の事故に伴い、あちこちで暫定規制値を超える放射性物質が測定され、出荷自粛だの摂取を控えるだのの騒ぎになっている。
専門家によれば、暫定規制値はかなり厳しい値であり、現状で計測されている値はほとんど気にする必要がない値だということで、いかに安全かということをテレビで説明していた。
私としては、もうひとつ説明が必要だと思う。「少量なら安全だ」と言われても、少しでもリスクがあるなら避けたいと思うのが人情だろう。それはひとつの誤解に基づいている。物質には人体に無害の物と有害の物があるという誤解だ。実際には、過剰に摂取すればどんな物質でも有害であり、底抜けに無害な物などこの世にはないのだ。砂糖だって塩だってアルコールだって水だって採りすぎれば弱い放射線を浴びるよりずっと恐ろしい事態になる。だからといって「少しでもリスクを減らすため」にこれらを自粛する人はいない。そんなことをしたら摂取できるものはひとつもなくなるからだ。
そういう説明を具体的な例(塩を通常の何倍採ったら死ぬか等)を挙げて説明するともっと納得してもらえるのではないだろうか。
水を求めて並んだり食べ物を捨てることの方がずっと確実な無駄である。
会社の駐車場に停めてあった愛車マーチが見つかった。ちょっと離れたところにレッカー移動されたらしく、他の車たちと一緒にぎっしりと並べられていた。車のナンバーは覚えていなかったが、トランクに見覚えのあるコードとボックスティッシュがあったのでわかった。後の席には田村の自転車を積んだときに汚れないように敷いた新聞紙が残っていた(田村は「これで自転車でシートを汚したのを気にしなくて良くなりました」と喜んだ)。
助手席の物入れから車検証を見つけて自分の車であることを確認した。
何台かの車にチラシが貼ってあるのでよく見ると、運んで廃車手続きをしてくれておまけに買ってくれるのだという。早速電話をかけて買取価格を聞くと5,000円~10,000円だということだ。只でもいいくらいなのでお願いすることにした。
さも人助けのためのようなことを書いてるが、ちゃんと儲かるのだろう。ガソリンもしっかり抜くんだろうな。書いてあったウエブサイトのURLにアクセスすると「作成中」となっているし、仙台の小さな会社だというので、おそらく震災後に急にビジネスを思いついたのだろう。たいしたものだ。
29万円で買って、発進時に下の方からカタカタと音のするクソ愛車マーチだったので、まあ良しとしよう。
現在私がお世話になっている妻の実家に、今回の津波で家を失った妻の叔母夫婦が石巻から昨日、避難してきた。被災して以来、ずっと近くの中学校に避難していたのだが、今後しばらくはここに住むことになった。
70代後半の叔母夫婦は、地震が来たとき、家の近くのイオンスーパーで買い物をしていたという。レジに並んで1万円札を出したときに大きな揺れがきて、店内は大騒ぎになった。すぐに「津波が来るので逃げろ」となった。レジが動かないのでおつりを出せないと言われた叔母は1万円札を返してもらい、その上、商品だけ只でもらえないか聞くが、「それどころじゃない、逃げろ」と叔父に諭され自宅に向かった。
家に着くと仙台から近くの実家に帰省していた大学生の孫が飛び込んできた。一緒に車で逃げようというのだ。大急ぎで金庫の中からお金やら書類やらを掻き出していると、孫は「一度家に戻る」と言っていなくなってしまった。そのうちに、「水が来た」という声が辺りから聞こえてきて、向かいの家の奥さんが「上がっていいですか」と避難してきた。一度、叔母夫妻の家に入ったその人は、なぜか再び水位の高い自分の家の方に戻って行き、未だに見つかっていないという。看護婦をしている人だったという。
水はどんどん流れてきて、外に逃げるのは諦めて2階に避難した。孫が勝手口から飛び込んできて、3人で2階に上がった。水は2階の床上30センチほどになって止まった。3人はベッドの上で膝をかかえてそのまま恐怖の夜を迎える。
家や自動車などさまざまな漂流物が流れてきて家にぶつかる。横に長い家だったが、大きな車がぶつかってちょうど避難していなかった側半分がむしりとられた。大量に流れてきたオイルやガソリンの臭いが立ち込め、口が開いたままのプロパンガスのボンベが水上でシューシューとガスを噴出しながらねずみ花火のように回転している。引火とガス中毒が恐ろしくて、雪の降る中、一晩中窓を閉めることもできない。水の底の方で点滅している自動車のテールランプが心底不気味に見える。
余震の津波が来ると、遠くの松林からサワサワと音が聞こえてくる。そのたびにもう終わりだと思い「3人で死のう」と堅く抱き合った。
大学生の孫は隣の家でひとり2階に避難していた奥さんに声を掛けて一晩中励ました。その奥さんは家族5人のうちひとりだけ生き残ったという。
翌朝、水が引くと1階の台所にどこかの遺体が浮いていた。水が膝ぐらいになるのを待って、避難所である中学校に移り、昨日までそのまま着替える機会もなく避難をしていた。ここに来て地震後初めてテレビを見た、乾いた服と布団が夢のようだ、他に何も要らない、と言った。
幸い、息子夫婦も孫も親族はすべて無事であり、生き延びた嬉しさに、涙はまったくなかったが「こんな経験は1回で十分、1回も要らない」と語った。