年別アーカイブ: 2012

反論

一番弟子の戸田から反論がきた。

「やさしい甘さ」の反対は「無慈悲な甘さ」あるいは「血も涙もない甘さ」だろう。

とのことだ。一方、同僚からは「喉が焼けるような甘さってのはどう?」と言われた。
どうでもいいと思うが。

「下品で厳しい甘さ」とは

ミルクティーを買った。上品でやさしい甘さだということだ。つまり、あまり甘くないということなんだろう。
「下品で厳しい甘さ」というのもぜひとも味わってみたいものだ。きっとそっちの方が美味いと思う。

「卒業」じゃなきゃダメなの?

私の勤めている会社では、ここ数年、退職する人のことを退職といわずに「卒業」と表現する。もちろん、正式文書ではまさか卒業などとは書いてはいまい。あくまで送別会の案内や式当日でのスピーチでの話だ。一回や二回ならまだしも、ある時期からすべての案内が「ご卒業」となりひとつの例外もなくなった。

「退職」や「辞職」という言葉があるのになぜわざわざ卒業などと表現しなくてはならないのか。アイドルグループじゃあるまいし、まったく苦々しい限りだ。別に、卒業という言葉が嫌いなわけではないし、何かの意図を感じるわけでもない。ただ、流行しているからというだけの理由で、何も考えずに無意味な言い替えをするのが嫌なのだ。

まだ先があるという意味を込めてでもいるのだろうか。退職だって先はあるではないか。この分ではそのうち葬式でも「人生をご卒業され」などと言いかねない。卒業後は幽霊にでもなるっていうことか。

まったく、正常な感覚の人は残っていないのだろうかと思う。

矛盾した言葉

「真剣交際」の話題から、同僚と矛盾した言葉を考え合った。

・豪華粗品
・死ぬほど健康になった
・必死で生きようとした
・恐ろしく優しい(「神田川」じゃないぞ)

接写

缶コーヒーが結露したのでなんとなく接写してみた。私のデジカメは1cmまで接写できるのでついこういうことをやってみたくなるのだ。

ここまで寄れるカメラは、レンズがニューっと突き出るタイプではなくて、小さいレンズが固定でついているタイプだけである。一見、安っぽそうなだが、この一点で私はカメラはこのタイプと決めている。ちなみに、もっと新しい薄い機種も買ったことがあるが、使いにくくて仕方がなかった。薄い商品は売っているのを見る分にはなんとなくかっこいいのだが、使ってみると指で固定しにくいし、シャッターボタンも小さくて押しにくい。だから私は前のカメラが壊れたときわざわざ中古で同じものを探したのだ。それがこのカメラだ。

結露といえば、ある職場の先輩は結露を「ロケツ」と読んでいた。気持は分かるが。

80周年記念水

日本卓球協会の80周年記念のペットボトルだ。
ジェームス・ディーンが卓球をしている珍しい写真をあしらっている。

このペットボトル、抗菌化質によって、開封後も室温で長い年月美味しく飲めるのだそうだ。そんなことが必要になるケースはとても思い浮かばないのだが。

駅弁

帰りの新幹線で駅弁を食べた。

いつもより早い時間に帰ったせいか、いつもは見ることのなかった商品を買うことが出来た。買ったのは「ビジネスマンのために厳選したおつまみを主体とした弁当」で、一品一品がいかに吟味された素晴らしい物であるかが週刊誌調のパッケージに書かれていた。

記事を読みながら食べると、なるほど素晴らしい弁当のような気もするが、読まなければ特に記憶にも残らないような気もする。まあ楽しかったからよしとしよう。

フォアグラの串焼き

出張で厚木に行ってきたのだが、夕食に入った居酒屋があまりよくなかった。昨春から同じところにもう10回以上も出張に行っているので、通りにある店にはほとんど入った。今回、前から気になっていて入っていなかった店に入ったのだが、外れであった。

なにしろお通しで出てきた筍の煮付けが、中が歯にしみるほど冷たかったところからしてもう絶望的であった。メニューを見ると一見値段は高くはないのだが、注文してみると異様に量が少ない。写真は「フォアグラの串焼き」600円である。飾りの枝などついているがフォアグラはほんのひとかけらだ。

客もほとんどいなくて、店員が私のテーブルの隣のついたての後に立っているなあと足音でわかる。追加注文をするために鈴を鳴らすとすぐに「はいっ」なんて出てきて「あ、やっぱりずっといた」なんて気まずい感じがした。

二度と入るまいとは思うのだが、それを忘れていつかまた入ってしまうのが心配だ。

エアギター

なにしろ曲がロックであるし、ろくに歌えもしないのでいきおい、エアギターに走ることもしばしばなのであった。

夢のカラオケ大会

昨夜、学生時代からの30年越しの夢であったカラオケを歌ってきた。

私は昔からロックが大好きで歌いたいと思っていたのだが、当時はロックのカラオケを歌う機会はほとんどなかった。まずカラオケボックス自体がなかったし、カラオケボックスが出てきた後でも英語の曲は少なく、ビートルズの曲でさえ超メジャーな曲が数曲、その他のロックとなるとほとんどなかったのだ。だからロックを歌うためには自ら演奏をするしかなかった。こう書くといかにも「だからギターを手に取った」という流れになりそうだが、私の場合はそうではなくて「だから歌わなかった」のだ(ガクッ)。

ところが最近、飲み会でカラオケボックスに行く機会があり、試しに曲を探してみたら歌いたい曲がわんさかあるではないか。ビートルズの曲はほぼ全曲あるし、70年代の名曲は目白押しだし、パンク、ニューウエーブ、80年代のネオアコースティックと揃っている。ピンク・フロイド、デビッド・ボウイ、クラッシュ、スミス、ニューオーダー、XTCのお気に入りの曲を熱唱できるなんて夢のようだ。それなら飲み会ですぐにでも歌えばよさそうなものだが、そうもいかない。こんな曲を職場の飲み会で歌ったところで誰も知らないし、だいたい英語の曲を歌うことだけでも場違いなこと甚だしいのだ。だから私はそういう場ではまず歌わないし、歌えと要求されれば僅かに知っている野口五郎の曲などを控えめに歌うことになる。

それで私はカラオケは嫌いだということにしてなるべく避けていたのだが、先日、ふと思い立ち、この道の同好者である同僚の立花さんと一緒に「好きな曲を思いっきり歌う」ことを企画し、ついに昨夜それを実行したのだ。他人の歌に手拍子をするでもなく、各自黙々と曲を選んで入力して歌うことの繰り返しの2時間であった。店員が飲み物を持ってくるのでさえ邪魔に感じたほどだった(注文しておきながら)。その結果、声は出ないし歌詞はつかえるしで散々だったが、酸欠で吐き気に襲われるほど激しく歌いまくり、とてもよい運動になった。ストレス解消になったかといえばそうでもない。もともとストレスはないし、思ったように歌えないことがかえってストレスになったような気もする。

次回があるかどうかは微妙である。