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子供の躾

箸渡しはするは、箸をご飯に突き立てるは、そんなことで家での子供の躾はどうするのかと言われたことがある。

子供たちには「日本では”葬式を思い出す”などという戯言を理由に悪いマナーだということになっているので外ではやらないように。家ではどんどんやってよい。ただしクチャクチャと音と立てて噛むのは俺が不愉快なので絶対にやってはいけない」と言ってあるので心配には及ばない。

礼儀作法の続き

なんだか「人には挨拶しよう」とか「ゴミを拾おう」などという説教くさい正論を書いているような感じになってしまったが、そう思われるのも本意ではない。

ただ私は、意味の分からない礼儀より普通の礼儀の方を重んじたいだけだ。学生時代、コンビニでアルバイトをしていた友人がいて、彼があるとき「レジでお客さんに『どうも』とか言われるとそれだけで嬉しいんだよ」と言った。それまで私は、店員は仕事でやっているだけだし余計な事を言われても面倒なだけだろう、彼らは機械のように気持ちを殺して働いているのだ、などと漠然と考えていたから、この話を聞いたとき「そうだったのか、嬉しいのか!」と目からうろこが落ちたのだった。

それ以来私は、年賀状は出さないしお土産は買わないし箸渡しはするしご飯に箸を突き立てるしスパゲッティは箸で食べるが、コンビニの店員にだけは声をかけるのだ(文句あるか)。

ただ、コンビニに入店したときに「いらっしゃいませ」と言われるのに応えるのは、さすがに何と言っていいかわからないので「ハイハイ」などと小声でお茶を濁している。かえって異常な客だと思われてるかもしれない。

ちなみに、卓球の選手が指導者に大声で挨拶をしたりコーチひとりひとりに頭を下げたりするのを人間育成だと思っている指導者がいるようだが、私は反対である。そんな異常な行為は礼儀ではないし、社会にでたときにも何の役にも立たない。第一、そんなものはガソリンスタンドか居酒屋で1日アルバイトをすれば覚えられる。もちろん卓球の役にも立たない。中国もドイツも、そして水谷も岸川もそんなことをしていないのに強いことを見れば明らかではないか(韓国は危ないけどな)。

ご飯の御代りの作法

礼儀作法のことをネットで調べたら、驚くべき作法を発見した。

ご飯の御代りをするときは、ご飯を全部食べずに、少し残して差し出すのが礼儀だとされているのだ。どうしてそうした方がよいのかにはいろいろ理由が書いてあるが、どれもこれも屁理屈にしか思えない。

こんな、説明しなくては気づかないようなクイズまがいの「理由」なら、そもそもそんな作法は守る必要がないではないか。世の中にはそういう作法にこだわる人がいて「本式はどうだ」とか議論までされているようだ。

何のためにこれらの作法があるのかと考えてみると、ルールに従わない奴を探し出すためだとしか思えない。「よーし、会ったときに薬指を鼻に当てるのを仲間の合図にしようぜ。そうしない奴は仲間外れにしてやろう」という感じで適当に決めたルールのようなものだ。人間がお互いに気持ちよく付き合うために作法があるはずだが、実際には人間を阻害しているのだ。

そんなわけのわからない作法を守らないことよりも、コンビニの店員や守衛などに挨拶をされても無視することのほうがよっぽど礼儀に反していると思うのだがどうだろうか。挨拶をされたらし返すという、時代と地域によらない人類普遍のマナーをしない人たちが箸の使い方だの座る位置だのにこだわるのだから滑稽ではないか。「どっちが大事なんだよ、おい」と言いたい。

礼儀作法

先日、祖母の葬式に自分でお経を読んだ友人のことを書いたが、彼は、日常、箸を置くところがない時など、よくご飯に箸を突き立てて妻の顰蹙を買うという。私もこれはよくやる。箸を置くのに適当な場所がなく、手を空けたいときはなんといってもこれが便利だ。また、食べ物を箸でやりとりする「箸渡し」もよくやる。早くて便利だからだ。

これらはいずれも日本では葬式を連想させる縁起の悪い作法としてやってはならないこととされているので、一応私も公共の場ではやらないようにしている。

作法は文化であり、人間関係を円滑にするためのものだから価値は認めるのだが、こういう変な理屈をつけた作法にはどうにも逆らいたくなる。葬式を思い出すというのは、それを葬式の時しかしないからだ。普段から箸をご飯に突き立て、箸渡しをやっていれば、誰も葬式を思い出しはしない。その証拠に、もっと葬式の特徴と合致する、魚を焼いたりフライドチキンの骨をしゃぶるという行為をしても、誰も葬式を思い出さないではないか。

本来、便利な動作を、わざと葬式の時だけすることにして、日常はそれを禁止にするというのがどうにも納得できない。どこかの「気を利かせすぎたバカ」が作った、人間より上に置いた本末転倒なルールのような気がするのだ。

昔は、人口の半分も二十歳まで生きられなかったのだし、盲腸でも死に出産でも高い確率で死んでいて、いずれもその原因がよくわからなかったのだから、それは縁起にでも頼りたくなろうというものだ。だから葬式のときだけする動作を決めて、日常ではそれをやらないようにして「葬式をするハメにならないよう」祈ったのだろう。祈るしかなかったのだからしょうがない。

しかし現代は、科学が発達して、多くのことの因果関係がわかっている。どう考えたって箸の使い方と人の生き死には関係がない。「縁起」というものを楽しい方向に活用するのは良いと思うのだが、便利なことを禁止するネガティブな方向の「縁起」はいただけない。どうしてもそういう縁起を作りたいなら、葬式の時にはもっと珍しい不便な動作をすればよい。

箸を3本もって骨をつまむとか、ご飯に箸を水平に刺すとかだ。そうすれば誰も迷惑を被ることなく「縁起」を維持できよう。だいたい火葬なんて一般人が初めて50年ぐらいしか経っていないのだから、こんな縁起などつい最近、葬式業者か坊主が思いつきで決めただけのことだろう。いわば、バレンタインデーに職場でオヤジに義理チョコをあげるのが礼儀だと思うのと同じようなものなのだ。そんなものに縛られるのはごめんだ。

スティーブからの返事

先日、卓球のテレビ放送のカメラ位置について説明してDVDを送ったITTFのスティーブから返事がきた。

私の言わんとするところは理解したらしいが、カメラ位置を変えるためにはスポンサーの広告やらその他、いろいろとクリアしなくてはならない問題があり、すぐにはできないそうだ。

すぐには動いてくれそうにもないが、ともかくカメラ位置問題の犯人は分かったし、スティーブはかなり柔軟な考えで私の意見にも少なくとも聞く耳は持っているので、今後、少しづつ改善されるかもしれない。

気がかりなのは、彼が、「卓球の放送こそ3Dに向いている、3Dを導入するのはどうか」と見当違いのことを言っていることだ。あんなに高く遠くから遠近感のない撮影をしておいて3Dもクソもあるか。3Dの前にやることがあるだろう。カメラ位置を変えることだ!

この人に託しておいて本当にいいのだろうか。

『再び女たちよ!』伊丹十三

私は伊丹十三の文章が好きだ。彼の映画も好きだが、文章はもっと味わい深いものがある。

最近買った古本『再び女たちよ!』から、「猫の名前のつけ方」について論じた部分を紹介しよう。

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いかにも、たしかに猫に名前をつけることは大変に難しい。
ただし、世の中には、この難しさを、知っている人と知らない人と二種類あるらしく、知らないほうの人々は、ただただ可愛らしく、甘ったるい名前をつけて、事足れりとなしているように見受けられる。つまり、「ロロ」であるとか「チョン」「ペペ」「ピータン」その他の、女学生時代から一向に知能の成熟しない女(そうでない女がいるかどうかということは、この際ぜんぜん別問題として)そういう女に名付けられたとしか見えない名前の一群である。
私の友人に、八匹の猫を飼っていて、その八匹の猫の名前が全部「玉」という男がいる。
つまり彼は、猫の名前は「玉」でなければならなぬ、と信じているわけで、私は、これはこれでいいと思うのです。少なくとも毅然たる態度であると思うのです。
ともかく大の男が一戸を構えた、その神聖なる城塞の中じゃないか。チーチとかミカとかいう国籍不明のめめしい名前を男は断固排除していいと思う。全部タマ、結構じゃないですか。いっそすがすがしいと、私は思うのです。
(中略)
では、日本語でどういう名前をつけるかというに、第一に、まずそれは堂々たる名前でなくてはならぬ。威風あたりを払うの概がなくてはならぬ。
と、同時に―これが難しいところなのだが、それは全くばかばかしい、なんとも愚かしい、実に間の抜けた、出鱈目きわまる印象を与えるようでなくてはならぬ、のですね。
つまり、なんといったらいいのかな、私にとって、猫とはそういうものなのですね。私は、猫のあの凛としたところと、あの救い難い無知みたいなところ、両方、実に好きなのですね。だから、これをなんとか名前で表現したいと思うのです。名前の上にそれを反映したいと思うのです。
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もちろん私は猫の名前などどうでも良い。ただ伊丹十三のこの言葉の使い方がとっても好きなのだ。

名もなき卓球場

つい先週、近所の住宅街に名もない卓球場があることを発見した(比喩ではなくて実際に名前がないのだ)。

その卓球場は通りに面して建っていて、壁にデカデカと「卓球場」と書いてあるだが、通ったことがない通りだったので知らなかったのだ。

さっそく行ってみると、それは普通の民家の裏に別宅として建てられた卓球場で、ちゃんと営業をしていた。内部には洒落た感じのカウンターなどあり、趣き深い卓球場であった。ただ、現在は卓球場としてよりも社交ダンスの練習場としての方が多く使われていて、平日の夜は水曜以外は毎日ダンス教室の予定が入っているそうだ。

卓球場もダンス教室も、この家の奥さんの趣味が高じて始めたのだという。今は卓球よりもダンスに情熱を傾けているらしい。

卓球場は25年も前に始めているが、名前もないし宣伝もしないので近所の人しか知らないらしい。どおりで私も知らなかったわけだ。

使用料金は1台で1時間500円だそうで、近所の奥さんやら子供などが遊びに来たり、中総体の前に中学生が来たりするという。

こういう、好きなことを貫いている人を見ると、なんだか嬉しくなってしまう。それが他ならぬ卓球なのだからよけいである。

帰り際に「ダンスを始めないか」と誘われたが、丁重にお断りした。私は踊りほど嫌いな娯楽はないのだ。

あるママさんの話

ママさんといってもママさん卓球の話ではない。

先週末、ある飲み会の二次会で小さな飲み屋に行ったのだが、そのとき、たまたまカウンターで隣に座った年配の女性と話すことになり、そこでなかなか考えさせられる話を聞いたのだ。

彼女は54歳であり、あるスナックのママさんであり、この店のマスターとは30年来の知り合いだという。結婚をしたことはないが、かつてとても好きな男性が二人いて、二人とも死んでしまったという。ひとりは29歳のときに交通事故で死に、もう一人は今年、60歳を前にして病気で死んだという。その人も飲み屋のマスターであり、前々から体の調子が悪かったが、病院には行かず、病院に行ったときには内臓中に癌が転移していて手遅れだったという。健康診断には行ってなかったのかと聞くと、そのママさんが言うには「この商売している私たちがそんなもの行くわけないでしょ」という。もちろんママさん本人も行かないという。

どうして行かないかと聞くと、そのママさん、病気で死ぬのも運命だから治してまで長生きする気はないという。それに、死んだら待っててくれる人たちがいるんだから死ぬことは全然嫌じゃないというのだ。私は「あの世」がある可能性はゼロだと思うが、この人の、あまりに確信に満ちた安らかな語り口を前にすると、そういうことにして生きるのもいいものだなと初めて思った。それにひきかえ、長生きしたいと思っている自分が何か卑屈な存在のように感じられた。

かと思うと「死んだ人より生きている人の方がずっと怖いよ」などと、現実的なことを言うので「ほう、なるほど、さすが経営者だけあって現実も分かってるんだな」と思って続きを聞くと、なんとその意味は、生きている人の霊、つまり生霊(いきりょう)の方が怖いという話で、あまりのバカバカしさに我慢しきれず「ブハッ」と吹き出してしまった。

その生霊の話がふるっていた。そのママさんの店の常連で霊が見えまくりの女性がいて、あるとき、その女性の目の前でバチッと火花が散ったのだという。何事かと思って聞くと、ある男性がその女性のことを好きなので、それに嫉妬した奥さんの生霊がやってきて彼女の前で火花を散らしたのだそうだ。もはや検証とかいう以前の話である。

さらにママさん自身に霊感はないが、テレビ画面に幽霊が出るのは何度も見ており、その理由は「霊魂は電磁波だからテレビに映るため」と断言する。電磁波なら簡単に測定できるではないか。科学の外にあるからこそのオカルトを論じるのに科学の言葉を使う矛盾など、ものともしないのだ、こういう人たちは。

こういう、頭の痛くなるような目も当てられないオカルト話の上にしか「やすらかな死」は成り立たないのだろうか。

最後にこの店のマスターが「50過ぎればいつ死ぬかわかんないんだから我々みんな死刑囚のようなもんだよ」と言ったのが含蓄があって感銘を受けた。

酔いの回った頭で、感銘を受けたり吹き出したりうんざりしたりと、忙しい夜だった。

予知能力の証明

インターネットが普及して、私がかねてから注目していたあることが明らかになった。

それは、予知能力がある人などいないことだ。インターネットが普及する前なら、どこかに予知能力がある人がいても、それを事前に発言したことを証明する方法は極めて限られていた。予知内容をマスコミに送っても相手にされるとは限らないし、マスコミもグルになって「確かに事件の前に予知を受け取った」と口裏合わせをする可能性も考えられる。

しかし、今は誰でもインターネットを使えば自分のブログだろうか他サイトへの書き込みだろうが気軽に予知ができて、しかもいつ書きこんだかもほぼ疑いなく証明できるのだ。

もし自分に本当に予知能力があったら、それを証明するのは簡単なことだ。どこかに書き込めばいいのだ。誰にもじゃまされることはないし、何の問題もない。よく自称・超能力者が「本当に予知できるのならどうしてギャンブルで大儲けしないのか」と聞かれると「私利私欲のためには能力は働かないのです」とごまかすが、そんなもん、儲けたお金を全額どこかに寄付するとか宣言してやればいいだけのことだ。

それでも今のところ、そのような予知で予言を的中させた人は現れていない。すべて事後に「予知していた」と証明不可能な申し出をするだけだ。

これがとりもなおさず、この世に予知能力者などいないということを明確に証明しているのだ。

卓球テレビ放送のコレクション

私が撮りためた卓球に関するテレビ放送のリストを自慢させてもらおう。

「スポーツ大陸」とか「知ってるつもり?荻村伊智朗」とか愛ちゃん特番などの、1時間近い番組はそれぞれ別のDVDに録画してあり、あくまでこれはバラエティやニュースで瞬間的に卓球が出てきたときの映像コレクションだ。ここまでしている人は他にいないのではないだろうか。96年アトランタ五輪の開会式でワルドナーがスウェーデンの旗手として歩いている2分間の映像や、四元が「トリビアの泉」に出た映像もある。まいったか!

しかし仙台はテレビ東京が映らないのでそれはないし、アメリカに行っていたこの3年半は、大きな番組を人に頼んで撮ってもらった以外はほとんど録画できなかった。悔しい。