卓球のマンガ

何年か前、中学校のときに描いたマンガが実家から出てきた。描いた内容はまったく覚えていなかったので、初めて読むような気持ちで読めた。面白いとか面白くないという以前に、卓球マニアであることがわかる内容で、自分ながら「好ましい中学生がいたものだ」と思った。

当時、私は、卓球を扱った少女マンガが昔あったという噂を聞いたことがあるだけで、卓球のマンガは一度も見たことがなかった。卓球がマンガに取り上げられたらどんなにいいだろうと思い、自分で描いたのである。ちょっと後に『ダッシュ勝平』というバスケットマンガで主人公が短期間、卓球勝負をするところがとても嬉しかったものだ。もし中学生の私が松本大洋の『ピンポン』なんか見たら泣いて喜んだことだろう。

私の描いたマンガに出てくる選手名や打球のフォームを見ると、すべて荻村伊智朗の『卓球世界のプレー』を参考にしていることがわかる。その本の中ではスウェーデンのステラン・ベンクソンが大きく取り上げられていたので、その憧れのベンクソンをマンガに登場させて主人公と試合をさせたりしている。

憧れているものになりたい、なれないなら自分のところまで引きずり落としたいという願望は当時からあったようである(覚えていないので想像だ)。

他にも、美術の授業の木板に浮き彫りをする工作で、ベンクソンのフォアへの飛びつきの様子を彫った覚えがあるのだが、残念ながらその作品は見つからない。『卓球世界のプレー』のモデルにした写真に、鉛筆で6分割して構図を測定した跡が残っているだけである。

ファーストフード

この町でもハンバーガー屋が繁盛している。マクドナルド、バーガーキング、チェッカーズ、ソニック、アービス、チキンフィレなど、多数ある。

すごいのがドリンクのサイズである。S、M、L、スーパーラージとあるのだが、一番小さいはずのS(左の写真)が、どうみても日本のLサイズである。ちなみにスーパーラージが右の写真だ。

しかもこれ、店内でいくらでも汲めるので飲み放題である。それなのに容器によって値段が違うのだが、なぜかというと、店を出るときに再び一杯にしてもっていくので、そのときの量が違うためだという。とても正気とは思えない飲量である。

子供から年寄りまでコーラが好きで、上司の年配のデビッドもなにかというとピーナッツを食いながらコーラをグビグビ飲んでは「ゲフーッ、エスキュズミ」なんて言いながら仕事をしている。

中には肥満に気を使ってダイエットコークにこだわって飲んでいる奴もいるが、1リットルも飲んで健康もクソもないと思うのだが。

ビートルズ6

もうしばらくビートルズを続けさせてもらいたい。今回は、マニア好みのアメリカ盤である。

ビートルズがその現役時代に発売したのは、13枚のアルバムと22枚のシングル、1つのEPセットだけである。彼らは、ファンに二度買いさせることを嫌ったのと、いくらでも曲が書けたということから、どんなに売れそうな曲でも、シングルとアルバムの曲がなるべく重複しないように発表していた。『ヘイ・ジュード』ほどの大ヒット曲をアルバムには入れなかったし、『イエスタディ』ほどの名曲はシングルカットされず単なるアルバムの一曲である。とんでもないグループなのだビートルズというのは。

ところが当時はアーティストよりもレコード会社の権力が強く、ビートルズでさえもイギリス以外の国では、自分たちの好きなようにはレコードを発売できなかったのである。どういうことかというと、各国のレコード会社が勝手に曲を組み合わせてアルバムを作って乱発していたのだ。結果的に、アナログ盤時代には50枚以上のアルバムと数え切れないほどのシングル盤が存在していたのである。特にひどいのはアメリカで、オリジナルアルバムの曲を減らして、2枚のアルバムから3枚のアルバムを作るという荒業をやっていたり、2年間で14枚ものシングルをメチャクチャに出して、結果、ヒットチャートの1位から5位までビートルズが独占したりした。日本でもなんと64,65年の2年間に27枚のシングルが発売された。すべてレコード会社の仕業なのだ。

80年代後半にCD化されるときになってこの状況が初めて整理され、CDになってからはイギリスオリジナル盤以外のものはなくなった。その結果、今ではアナログ盤時代のアメリカ盤が貴重なコレクターズアイテムになっている。

ここに紹介するのはそのアメリカ盤のひとつ『ヘイ・ジュード』。アメリカのレコード会社が大ヒットシングルをタイトルにつけて勝手に出したアルバムである。
さて、ビートルズごっこであるが、有名でもないし特徴もないジャケットなので、解説がないと一体何のつもりで写真を撮っているのか、もはや誰にも分かるまい。後向きで石膏像の役をやっているのは例によって弟である。誰に撮影してもらったかが思い出せないが、友人の数は限られているので、母か祖母あたりに頼んだ可能性が高い。それでブレているのだと思う。悔しい。

ステーキ対焼肉

ドーサンにはとても美味しいステーキ屋がある。ある人によれば、ニューヨークでもこんなに美味い店はないというぐらいである。しかも高くても30ドルぐらいのものだから、日本で同じものを食べることに比べれば値段も安い。

たしかに慣れると美味いのだが、最初の頃は、なんだかもったいないような気がした。私は韓国の焼肉が最高の肉料理だと思っているので、ステーキのような分厚い肉を見ると「これを薄く切ったらどれほどの焼肉ができるだろう」と考えてしまうのだ。そこで、2回目の出張に来るときに、贅沢の限りを尽くした焼肉のタレを3種類買い込んで来たのである。それは確か「しょうが味」「にんにく味」「味噌味」の3つだったと思う。何が「贅沢の限り」かといえば、これを一気に3つも買ったところが贅沢なのである。2つまではありがちだと思うが、3つというのはなかなかできることではない。

それで、ドーサンについてすぐにステーキ屋に入り、分厚いステーキを韓国焼肉風に薄くスライスした。店員がいなくなったところでカバンから焼肉のタレを3瓶取り出し、これを順番にかけて食ってみたのである。と、どうしたことだろう。まずいことはないが、それほど美味くない。出されたステーキの塩コショウの方が美味いのだ。やはりステーキにはステーキ屋の味付けが一番なようである。プロの仕事にケチをつけるものではないなあと思った。以来、ステーキに焼肉のタレをかけたいという欲望はすっかりなくなり、おとなしく出されたステーキを美味しくいただいている。

雑誌『卓球人』

昭和22年発行の雑誌『卓球人』は、私の卓球王国での連載につながった特別な意味がある古本である。これを入手したときに、なつかしく読んで喜んでもらえそうな人ということで、『卓球物語』を書いた藤井基男さんに、読みたかった送るという趣旨の手紙をニッタク・ニュース付けに出したのである(藤井さんはニッタク・ニュースで連載していたからだ)。もちろん知り合いでもなんでもないのだが、さっそく返事が来て、これを貸したところ大変喜んでくれて、わざわざ仙台まで返しに来てくれた。以来、手紙のやりとりをさせていただくようになったのである。

何年かしたあるとき、仙台に来るというので昼食をご一緒することになった。そこで、「卓球本のコレクションがあるんだからこれを世の中に紹介することは卓球界のためになる。そういう連載をしたらどうか。その気があるなら雑誌に紹介する。」という話をいただいた。藤井さんへの手紙はいつも面白く書くように努めていた甲斐があったわけである。私は以前から卓球雑誌などで「特別寄稿」などという記事を見ると、「どうしてこんな人のが載るのに俺の文章が載る機会はないのか」と勝手な憤りを感じていたぐらいなので(当たり前なんだが)、願ってもない話であった。ところがその反面、締め切りに追われて連載を続ける自信はなかったのだから情ない話である。それで、喜んだものの断腸の思いで「仕事もあるので書く時間がとれず続ける自信がない」と断ってしまった。すると藤井さんが「伊藤さんね、物書きはヒマがあるから書くんじゃないんですよ」と言った。これはキツかった。私はすぐに考えが甘かったことに気づき「やります」と言ったのだった。それで卓球王国に紹介してもらい(編集部にはすでにいろいろな物を送りつけて断られている仲だったので少々気まずかったが)、連載にこぎつけたのである。

後日、藤井さんに「今野さん(卓球王国の編集長)、伊藤さんのこと知ってたよ。だいぶ有名みたいだね。」と言われて恥ずかしかった。人生、何がきっかけになるか分からないものである。

ともあれ、この『卓球人』は面白い。昭和22年発行なのに「あの頃を語る」とさらに昔を語ったり、卓球小説、卓球川柳などとにかく可笑しい。これを毎日1ページずつ紹介したいぐらいである。「電光石火」「意表を突く」とあるが、意表を突かれたのはこっちだって。

『根性の発見』

私が収集した卓球本で、特に気に入っているものは、いくつかの分野に分けられる。まず、荻村伊智朗のもの、次に古いもの、そしていわゆるトンデモ系のものである。

その中のもっとも極端な例がここに紹介する2冊である。なにしろ「根性の発見 人生と職場に活かす卓球観」である。説明不要だろう。素晴らしすぎる。

もう一冊が「女子卓球新指導」である。これも味わい深い書名である。ネットの古書店でこれを見つけたとき、私は飛び上がって喜んだのだが、なんと13,500円である。普通の卓球本が高くても3000円ぐらいなのに対して、これはないだろう。店主は完全に戦略を見誤っている。昭和初期の卓球の古本を買う奴など、どうせ日本に私しかいないのだ。こんな只でも要らないようなものにこんな値段をつけてどうする。さっそくその店にメールを出して「相場は3000円ほどではないでしょうか」と反省を促したのだが(相場などないのだが)、断られてしまった。まあ、放っておいてもどうせ誰も買わないのだから、そのうち値段を下げるだろうと考え、しばらく気長に様子を見ることにした。店主との我慢比べである。

で、3ヶ月で私が負けたのであった。これが今まで買ったうちでもっとも高価な卓球本である。

卓球本コレクション

私が卓球の本の収集を始めたのは、かれこれ15年ぐらい前になろうか。ある大きな古本屋で卓球の指導書が5冊も並んでいたのを見て「これを買ったら家のをあわせると10冊ぐらいになって壮観だろうな」と思ったことだった。それ以来、電話帳で調べて仙台市内の古本屋を一軒残らず回り、卓球専門店も周り、出張や旅行で古本屋を見つけると必ず入って古本を収集した。99年にインターネットをやるようになってからは収集効率が飛躍的に上がり、それがなければ一生買えなかったであろう本が買えるようになった。ネットの古本屋はもちろん、全国の大学や県立、市立の図書館にアクセスして、どんな本が発売されていたのかを調べ、場合によっては全ページコピーをしてもらったりして(著作権の問題があり、半分までしかコピーをさせてもらえないのだが、3番弟子の小室を使って二人がかりで申し込んだ)本を収集した。ただこの一点だけをもっても、私にとってインターネットは素晴らしいものである。

今では日本で発売された卓球関係の単行本のほとんどを持っている。年に1、2回、見たことがない古本が出てくるのがひそかな楽しみである。

恐怖の韓国雑貨店

ドーサンから車で40分ぐらい走った隣町のデルビルというところに、韓国人の経営する雑貨店がある。ここには、数多くの日本食品が常備してあるので、ドーサンに住む日本人にとってなくてはならない店である。ところがこの店、ひとつだけ問題がある。賞味期限である。いくら日本人が必要としているとはいえ、このあたりに日本人などほとんどいないのだから、どうしても商品の回転が悪くなる。そのため、おいてある品物の多くが賞味期限切れなのである。始めの頃は賞味期限以内のものしか買わなかったのだが、カップヌードルやスナックなど、賞味期限が過ぎたからと言って急に腐るわけもないので、数ヶ月ぐらいなら全然気にしないで買うようになった。

2000年に出張にきたあるとき、箱の色がすっかり薄くなったハウスのカレールーを見つけたのだが、なんと賞味期限が2年も前に切れている。こりゃひでえ、と面白がって手にとって「88年か」などと見ていたら、よく考えるとそれは2年前ではなくて12年前であることに気がついた。12年前に賞味期限が切れているカレールーなのである。これにはあきれてしまった。

このように、賞味期限がわかるものは実はまだいいほうである。1/3ぐらいの商品はことごとく賞味期限のところにシールが貼ってあって、わからないようになっているのだ。この12年前のカレールーをみてからは、わからないものは買わないことに決めた。

それにしても置いてある商品の怪しげなことよ。日本のメーカーのものも結構あるのだが、ちゃんとアメリカ用にデザイン、味とも改良(改悪?)されていて、微妙に変な味がする。それでもやはり我々日本人には他のものよりは口に合うのである。ほかにも、柿とかナツメとかの、わけのわからない缶ジュースが置いてある。かたっぱしから飲んでみたが、さすがの私も二度と飲んではいない。

これでも我々赴任者の間では「使い方さえ間違えなければ役に立つ店」という位置づけで重宝しているのである。

目を疑う話

「目を疑う」と言う表現があるが、これは大概は比喩であり、本当に自分の目の錯覚であることを疑うことなどない。しかし私は一度だけ、本当に「今のは見間違いではないか?」と思ったことがある。

それは忘れもしない、大学4年のとき、2年先輩の大学院生二人と研究室で世間話をしていたときのことだった。Mという先輩が、机の引き出しから耳掻きを取り出して、話しながら耳掃除を始めた。あまり見て楽しいものではないが、この程度なら会社でも見たことがあるし家でなら当たり前のことだ。ところがMさんは、耳掻きを耳から出した後、そのまま口へ運んだのである。私は「あれっ?今、何した?」と本気で自分の目を疑った。自分が何かを見間違ったのではないか、あるいは画像編集でもされたのかと思ったぐらいである。Mさんは世間話を続けているのだが、もうそんなものは私の頭に入らない。私は、今度は絶対に見逃すまいと、Mさんの行動に影響を与えないように平静をよそおいながら、耳掻きから目を離さないよう精神を集中した。次の瞬間、Mさんはその耳掻きをあろうことか鼻の穴に突っ込んで耳掻きのヘッドを上手にクリクリと回しながら壁面の鼻クソを掻き取り始めたのである。「まさか・・これも」と思う間もなくMさんはそれをこともな気に口に運んだ。その後も耳掻きは耳の穴と鼻の穴と口を何回か巡回し、Mさんは満足してそれを机にしまった。

Mさんがいなくなったあと、もう一人いた学さんという先輩に「今、Mさん、耳クソと鼻クソ食ってましたよね」と言うと、学さんは「そうなんだよあいつ。気持ち悪いから止めろって言ってるんだけど『僕は昔からこうだから気にしないで』って全然聞かないんだよ」と言った。気にしないでってあんた、気になるってそんなの。

これは、誰に話しても「絶対ウソだ」といわれるが、誓って本当の話である(フィクションだとしたらこんなもの可笑しくもなんともない)。

うちの子供はよく爪を噛むので止めろと言うと、彼らは美味しいのだという。兄弟どうしの爪でも美味しいという。指をなめていたときもそう言っていた。考えるのも不快だが、Mさんはおそらく耳クソと鼻クソ、どちらもそれぞれに別の味わいがあって美味しいと思っているに違いない。また、ある意味綺麗好きともいえるのかもしれない。それにしても不愉快な話である。恐れ多くも、同じ学科の他の研究室の教授の甥っ子だという彼が結婚したかどうかは知らない。

アイスコーヒー

アメリカ全体がどうかは知らないが、私が住んでいる町には基本的にアイスコーヒーというものはない。アイスティーならどこにでもあるが、コーヒーを冷やして飲む習慣がないのである。レストランで「アイスコーヒー」と言うと、冗談を言っていると思われて笑われたりするのだ。日本でいえば、「冷えた味噌汁をくれ」といったようなものだろう。それで「わかった。じゃ、コーヒーと氷をくれ」と言うとものすごく喜んで笑って用意してくれた。もちろん、もともと薄いコーヒーがもっと薄くなってしかもぬるくなってとても飲めなかった。

基本的にはそうなのだが、ある店のメニューにアイスコーヒーと書いてあったので頼んでみると、なんと店員どうしが作り方を相談し始めたではないか。「ただ氷を入れればいいんだろ」などと言っているのがジェスチャーからわかる。頼まれたことがないので作り方を知らないのだ。嫌な予感どおり、普通に作ったコーヒーに大量の氷を入れられて、目もあてられない薄くなったぬるいコーヒーを出された。

そんなこの町でも実はアイスコーヒーを飲む方法がある。缶コーヒーである。日本では喫茶店として有名な「スターバックス」の缶コーヒー(阿部さんはよくオートバックスと言い間違える)が、スーパーに唯一置いてあるのだ。買う人が少ないため、一缶2ドルとかなり高いのだが、これしかないので仕方がない。同じくスターバックスの瓶コーヒーもあって、コーヒー牛乳のような味で結構おいしい。

ちなみに、日本人が緑茶を冷やして飲むようになったのは、80年代に伊藤園がPETボトルや缶入りの緑茶を出してからのことである。それ以前には、冷えた緑茶を飲むなどありえなかった。しかし、用具マニアの友人「杉崎君」だけは当時から冷えた緑茶が大好きで、出されたお茶が冷えるのを待って飲んでいた。ときどき、そうとは知らない人に片付けられてしまい「せっかく冷やしていたのに」と怒って家人を困惑させたりしていた。

さて、ここまでは、普通の店を前提とした話である。実は車を40分走らせた隣町で、韓国人が経営している雑貨屋に行けば、なにやら怪しい商品がいろいろと買えるのである。写真のように、得体の知れない缶コーヒーが並んでいるのだが、どれもこれも薄くてまるであずきの茹で汁のような味である。ジョージア、UCCと書いてあるが、本当だろうか。この店の怪しさについては後で書くとしよう。