恐怖のエレベーター

一昨年の大震災以後、私の職場のエレベーターが奇妙な動きを見せる。オフィスは5階建ての建物なのだが、誰も操作をしていないのにエレベーターが突如動き出すことがあるのだ。2階で仕事をしていると、エレベーターが動く音がして扉が開く。しかし誰も乗っていない。誰も乗っていないし、2階で呼んだ者もいない。なぜなら2階には自分以外には誰もいないからだ。一体誰がエレベーターを呼んだというのか。あるいは誰がこのエレベーターから降りてきたというのか。このようなことが深夜に残業をしているときにあると、さすがの豪傑も肝を潰すだろう。

実はこの話にはオチがある。震災のときに1階にあったエレベーターが津波で水浸しになって使いものにならなくなったので、それ以来、一定時間を過ぎると自動的に2階で待機するように設定をしてあったのだ。それにしても到着時に扉を開く必要はないと思うのだが。

平野が多すぎる

卓球界には平野という選手が多すぎないだろうか。平野早矢香は言うに及ばず、平野容子、平野美宇と女子の有名選手だけで3人もいる(他にはいないかもしれないが)。人口に占める平野という名字の割合からしてこれは自然なことなのだろうか。それだけではない。全日本のときにお世話になった千駄ヶ谷の親戚も平野、大学の卓球部の先輩も平野、職場の同僚も平野なのだ。

すまん、それだけだ。

大根おろし器

大根おろし器だそうだ。

「受け皿をそのまま器として使える」そうだが、箸置きを使うようなかしこまった状況で、はたしてこの器は「使える」と言って良いのだろうか。

これで使えるのなら、ご飯釜だろうが鍋だろうがそもそも使えないものはないような気がするのだが。

1952年のカルカッタ

お世話になった親戚の家では、叔父さんの昔話を聞かせていただいた。私は年配の方の昔話は、あまりにも愚劣な自慢話でないかぎり、聞くのが好きなのだ。

戦後間もない、昭和27年(1952年)、仕事でインドのカルカッタに1年半駐在をしたときの話が面白かった。当時叔父さんは二十歳ちょっとだったが、蛍光灯の電球にアルゴンガスを封入する技術を教えに行ったのだという。叔父さんにそんな技術があったとは知らなかったが、外国に行きたさにどこかの会社に2ヶ月ぐらい通って即席で覚えて、さも専門家のような顔をして行ったという。

カルカッタまでは船で、途中、香港だかシンガポールだかを経由して21日もかかった。当時のインドは冷房がなくて(今もかもしれないが)、とにかく夏は暑くて午前10時を過ぎると気温が42℃を越え、目を開けていられなくなるので、ホテルの部屋を閉め切って(開けると外気が入ってきてかえって暑いからだ)、4時くらいまで寝る毎日だった。もうひとつ困ったのは、カルカッタには歯医者がなかったこと。なぜかといえば当時のインド人には虫歯がなかったためだという。このあたりの真偽は私にはわからないがありそうな話ではある。

あるとき、バスに乗って外を眺めていたら近くの男が「俺の嫁をジロジロ見るな」といちゃもんをつけてきたという。「景色を見ていただけだ」と言っても男の剣幕は変わらなかったが、自分が日本人であることを言うと、男の態度は急変し、バスの中の乗客全員が握手を求めてきたという。その後、ホテルの部屋に帰ってからも他のインド人たちがホテルの前に大勢集まって呼び出され、みんなに触られたという。とにかく日本人だというだけで大変な人気だったという。仕事仲間のインド人に理由を聞くと「それは当然だ。日本人は長い間インドを植民地にしてきたイギリスの船に爆弾を落とした唯一のアジア人だからインドではみんな日本人を尊敬しているんだ」と言ったという。そんなような話は本で読んだこともあるが、その逆に憎まれていたという話もありよくわからなかったが、政治的偏向のない当事者から聞く話には格別の真実味がある。

カルカッタでは結婚披露宴が盛大に行われていくつも出席したが、一点不愉快なことがあったという。それは、お嫁さんが嫁ぐ家に持っていく金の腕輪などの装飾品について、夫から「足りない」と不満を言われて泣いているのを良く見たのだという。今でもインドでは男尊女卑が国際的に批判されることがあるが、当時はもっと激しかったのだろう。

ところで気の利く卓球ファンなら1952年のインドといえばボンベイ大会で優勝した佐藤博治のことを思い出すだろうが、さすがに卓球に興味のない叔父さんはそのことは知らなかった。

忘れたカーディガン

全日本では、千駄ヶ谷にある親戚の叔父さん叔母さんの家に3泊ともお世話になったのだが、そこでちょっとした面白いことがあった。初日は今野さんたちと夕食をしてから11時頃に親戚の家に着き、その夜はちょっと話して寝たのだが、翌朝、試合会場に行こうというときになって、家から着てきたはずの黒いカーディガンがないことに気がついた。前夜に食事をした新宿の『かに道楽』に忘れたに違いないと思ったが、取りに行く時間がない。仕方がないので、最終日の試合が終わった後で取りに行くことにした。

そしていよいよ明日が最終日という日の夜、叔父さん、叔母さんと夕飯を食べているときに、叔父さんが言った。「ママ、この服、どうもいつも着ているのと違うけどボク、こんなの持ってたっけ?」見ると、叔父さんが着ているのはまさに私の黒いカーディガンではないか。初日の夜に居間で脱いでそのままにしていたのを叔母さんがカゴに片付けたのだ。叔父さんは黒いカーディガンを2着持っているのだが、その日は3着あり、大昔に買った物がどこからか出てきたぐらいに思っていたのだという。3着のうち、たまたま私のカーディガンを手に取り、それを私の前で着てくれたために真実が発覚したのであった。

この偶然がなければ、おそらくそのカーディガンが私の元に戻ってくることはなく、捨てられるか関係者がこの世からいなくなるまでどこかにしまわれ続けただろう。神様も粋なことをしてくれたものだ(大げさだが)。

コーチという仕事

真面目な話も書こう。ミッシェルは「コーチとは本当に難しい仕事だ」と語った。人にはどんな仕事であれコーチが必要だが、それはコーチという仕事にも言える。ところがコーチのコーチはいない。どうしてよいかわからなくて誰かに助言をしてほしくても、誰も助言をしてくれる者はいない、それがとても孤独で辛いと語った。これは「自分のやり方が正しい」と自画自賛しているコーチにはわからないだろう。こういう意識があるからこそミッシェル・ブロンデルは優れた指導者たりうるのだと思う。

フランス人と日本人

ミッシェルは日本が大好きなのだが、特に好きなところが自由なところだという。ちょうど店内にふざけたような奇妙な帽子を被っていた客がいたので、そちらを指して「日本では他人と違っても誰も気にしないし気にもされない。フランスではまわりと同じような格好をしないと白い目で見られる」というようなことを言った。これには驚いた。これは我々が通常思っていることと正反対ではないか。

「フランス人の方が個性を重んじて他人に干渉しないと日本では思われてる」と言うと、フランス人がそう見えるのはそのように装っているからで、内心はおかしな格好をしたヤツは疎まれるのだと語った。つまりこうだ。どんな社会だろうが人間は奇妙な人間には好感を抱かずむしろ敵対心を抱く。仲間ではない信号を発しているのだから考えてみれば当然だろう。ところが理性では他人の自由は認めなくてはならない。だから表向きは奇妙な格好を許容する。このようなことで、お互いに他国が自由なように見えるのだ。「日本でも変わった格好を認めるのは表向きで、内心はバカめって思ってる。だから多分フランス人と同じだよ」と教えてやった。

ガシアンのこと

ミッシェルと今野さんによると、ガシアンというのは本当に希にみるナイスガイなのだそうだ。ミッシェルいわく、試合で負けて自分に「アイアムソーリー」と謝ってきたのはガシアンだけだったそうだ。卓球雑誌ではだいたいどんな選手でも気さくだのナイスガイだとの書くので(まさか「とんだゲス野郎だった」などと書くわけにもいくまいから当然だが)、私はそういうのはまったく信用していないのだが、どうもガシアンは特別で、本当に本当に紳士な男なのだそうだ。そんなに紳士な男なら、昨年ドルトムントですれ違ったときに一発失礼なことでもやってみるのだった。

なお、良い話の後で恐縮だが、ミッシェルが「卓球もパンクロックのようにプレーすべきだ」と言ったので「それはどういう意味だ?」と聞くと「わからない」と答えた(やっぱりか・・・)。パンクロックをやるように一定のリズムで激しく上下しながら卓球をしたら、タイミングはあわないし目線はズレるしでかなり入らないことは間違いないだろう。

ミッシェル・ブロンデルとの出会い

無事に全日本での仕事も終わり、自宅に帰ってきた。全日本では思わぬ出会いがあった。二日目の夜に、今野編集長の知人でフランスのナショナルコーチであるミッシェル・ブロンデルと夕食を供にしたのだ。その焼肉屋に私だけちょっと遅れて行ったのだが、初対面のミッシェルはなんだか笑いっぱなしでロレツが回らないような話し方なので「それは酔っているのかもともとなのか」と聞くと(失礼なことを聞いたものだ)「酔ってない、もともとだ」と言う。さすがにコーチをするときはこうではないらしいがプライベートではいつもこうなのだという。

今野さんとどういう関係なのか聞くと、ミッシェルは荻村伊智朗にあこがれて80年代に青卓会にコーチングの勉強をしに来日し、今野さんとは荻村に誉められたりいじめられたりの苦楽を供にした仲であり、今野さんを実の兄のように思っていると語った。卓球王国の誌面ではフランスのコーチとしていたって冷静に紹介をされているが、完全に「一味」「その筋の者」なのであった。

ミッシェルは荻村が亡くなる直前、パリを訪れた荻村とジャズバーで朝の5時まで語らい、荻村が話しっぱなしでジャズを聴くヒマもなかったという、感激のしどころがよくわからないがしかし魅力的な想い出を語ってくれた。そこから音楽の話になり、わかったことは、ミッシェルはパンクロックの大ファンで、中でもクラッシュの大ファンであるということだ。私もクラッシュの大ファンなので一気に盛り上がり、焼肉屋なのに二人でLondon’s Burnningを歌うに至った。歳が私より二つ下の47歳だということも音楽の好みが近い原因だろう。可笑しかったのは、ミッシェルは「荻村はパンクだ」と言ったことだ。「荻村はパンクなんか嫌いだったはずだ」と言うと、精神がパンクなのだと言う。荻村が1954年にロンドンでイギリス人のイジメを受けながらそれを跳ね返して優勝したことをまるで「卓球・勉強・卓球」を読んだように詳しく知っていて、それがパンクだと言うのだ。なるほどと思って話を聞いていると、水谷もパンク、丹羽もパンク、今野さんもパンクだと言うではないか。どうやらこの人、自分が好きなものはすべてパンクであることにしているようなのだ。ミッシェルは80年代に相撲を題材としたドキュメンタリー映像作品を作っており、テレビで放映されたことがあるという。「相撲もパンクだ」と言うので、どこがパンクなのか聞くと、出羽海部屋を5週間取材したときに、常の山という力士が、日中激しい稽古をした後、毎晩のように酒を飲み歩き、ろくに寝ないで毎朝4時から稽古をするのだそうで「これこそがパンクだ」という。そういうことか・・・。映画監督の小津安二郎もヴィム・ヴェンダースもパンクだと言うのだから完全にメチャクチャである。注文をしたワインがグラスにちょっとしか入っていなかったので下手な日本語で「ちょっとこれ少ないんでしょうー」といちゃもんをつけたのも当然パンクなのだろうやっぱり。

ともかく、卓球界でこれほどパンクが好きな人に出会ったことは、高校時代のチームメート以外には記憶にないのでとても嬉しかった。今から世界選手権パリ大会が楽しみだ。卓球そっちのけでパンク話で盛り上がりそうである。

全日本を取材

今日から会社を休んで全日本に来ている。豚野郎の話ばかり書いているわけではないのだ。本来ならば速報でもしたいところだが、それは編集部にまかせるとして、今回はビデオ撮影のお手伝いという名目の参加だ。決勝のテレビ放送で背景に映るかもしれない。

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