年別アーカイブ: 2008

サナギの缶詰

例の韓国雑貨店でめずらしい缶詰を見つけた。缶に印刷されてある写真を見ると、どう見ても何かのサナギのようだ。書かれていた英語を辞書で引いてみるとやはりサナギだった。私はサナギは食べたことがないが、写真を見ると、なにかイカの燻製のような色合いで、食べなくても味が想像できる。美味いに決まっている。鍋に入れて湯気を立てている写真が念入りで楽しい。

こういうものは気の持ちようである。海老などまるっきり昆虫と同じだし、蛙だって鶏肉と変わらない味だった。わたしはいわゆる青虫などは嫌いだが、蚕(かいこ)はきらいどころか可愛いと思う。小学校の頃、実家で養蚕をやっていた時期があるのだ。金になると思うと、気持ち悪いどころか「がんばってくれよ」というような気持ちになって、何匹もまとめて掌にのせてなでていたりした(ひんやりしていたな)。蚕を飼っている部屋に入ると、何万匹もの蚕が桑を食べる音が「ザーッ」と部屋中に響き渡るのが、当たり前とはいえ凄いと思った。

繭を作る時期になると、4cm四方ぐらいの格子が10×10ぐらいならんだ紙製の枠に蚕を一掴み置く。するとうまい具合に格子に一匹づつ蚕が入って、体を反らしながら口から糸を吐いて繭を作り始める。何日かすると完全に真っ白な繭ができ、あとはそれを棒で抜いて出荷するのだ。中のサナギはどうなったのか覚えていない。煮ていたような気もするし、繭を裂いていたような気もする。

毛虫と蚕の違いといえば毛だが、一概に毛があるから気持ちが悪いというわけでもない。杉崎君は何年か前の年賀状に「俺の可愛さランキング」というのを書いてきた。それによると、「猫>子供>ハムスター>亀」だそうだ。当時は息子が生れたばかりで情が移っていなかったようだが、さすがに今では一番だという。毛が生えている点で猫に軍配が上がったそうだ。

シャララ会長との邂逅!

1月12日にペンサコーラというところで卓球の試合に出てきた。そのあたりのことはまた雑誌に書くが、まさか国際卓球連盟のシャララ会長と試合をするとは思わなかった。まあ、ヒゲが似ているだけだと思うが(右が本物)。

郊外の風景

ドーサンから遠出をするとき、ふと車窓から郊外の風景を見ると、なかなか味わい深いものが見える。そのひとつがトレーラハウスだ。トレーラーハウスというのは、長方形の住居で、タイヤがついていてトラックで運ばれてきたものだ。そう考えると、なにかキャンピングカーのようなものを思い浮かべるかもしれないが、そうではなくて、これは貧しい人たち用の低価格の住居なのだ。移動を目的としているわけではなく、製造、設置までの簡便さのためだけにタイヤがついているのだ。電気も水道も下水も通っているらしい。低価格といっても家なので、300万円ぐらいはするのだろうがよく知らない。トレーラーハウスに住んでいる知り合いは一人もいないが、内部がどんな感じになっているのか、いつか見たいものだ。

また、以前、警官がレストランや自宅に帰るのにパトカーをそのまま使うことを紹介したが(10/30参照)、なんとスクールバスもなのだ。ドーサンに限らず、町の郊外に行くと、ときどき普通の民家の庭にスクールバスが停めてあるのをよく見かける。最初は、たまたま迎えに来たのかと思ったが、通るたびに同じ家の前にあるのでネットで調べてみたら、アメリカでは運転手が自宅にバスを持ち帰ることは普通なのだと書いてあった。

スクールバスについては、日本にはない交通ルールがある。スクールバスの上には降乗車中に光るランプがついているのだが、このランプが点灯中は、バスに向かって走っている車は対向車も含めてすべて停車しなくてはならないのだ。なかなかよいルールだと思う。

漢字の読み間違い

『なごり雪』で思い出した。元の職場の同僚で、「名残り」を「なのこり」だと思ってずっとそう読んでいた人がいた。「なごり」は知っていたが、別の言葉だと思っていたそうだ。こういうことは誰でもあるのではないだろうか。あまり人前で話す必要がない言葉で、いつも黙読している言葉にそういう間違いを犯す危険がある。この歳になってそういう思い違いを発見するのは恥ずかしくもあるが、それ以上に新鮮な驚きで嬉しくなる(自分で気づいた場合に限る)。

たとえば私は大学時代まで「教諭(きょうゆ)」のことを「きょうろん」だとばかり思っていたし、5年ぐらい前まで「造詣(ぞうけい)」のことを「ぞうし」と読んでいた。また、つい昨年まで「思惑(おもわく)」を「しわく」と読んでいたし、読みではないが、「系譜(けいふ)」のことを「譜系(ふけい)」と書いていた。「こんな一般的な単語も出てこないのか」とパソコンに毒づいていたが、間違っているのは常に私の方だった。自分の読みで変換されない単語があったら、まず自分を疑った方がよい。

「破綻(はたん)」を「はじょう」と、職場まるごと全員が誤読していたケースもあった。どうやってパソコンで変換していたのだろうか。

何年か前、上司が「示唆」を「ししゅん」と言ったのには困った。なにしろ厳しくて怖い上司で、しかも怒られているときに言われたのだ。まさか「それ”しさ”です」などと言えるはずもない。結局、教える機会はなかったので(あるわけがない)、今でも彼は「ししゅん」と言っているのだろう。言われた人の気持ちを思うといたたまれない。

「対症療法」を「対処療法」といい間違えるくらいは意味も似ているし気づかれにくいのでいいとして、「ししゅん」はやばいだろ。

またまた面白い映像を見つけたので貼っておく。

1つめのネタは、フランス人がhの発音をできなくてハンバーガーをアンバーガーとしか言えないこと等をネタにしている。昨年、フランス人の出張者が来たのだが、相手をしたフランス赴任経験者の宮根さんによると、彼らはsecond halfのことを「スゴンドアルフ」と言うのだそうだ。「へえー、フランス語ではそう言うんですか」と言うと、そうではなくて、これは英語を話しているのだそうだ。我々日本人の英語はもっとひどいのだろうか。

2つめの映像は、自分の発言に字幕がついていることに腹を立てるイラク人のネタ。隣のイラク人には字幕がつかないことで怒りはエスカレートする。彼は早口言葉を披露して見せるがずっと字幕はついたままだ。レポーターが無理やり話をまとめているところがおかしい。

久しぶりにビートルズ

久しぶりにビートルズのパロディといこう。今回は、写真ではなくてイラストだ。『ロックンロール・ミュージック』というアメリカ編集盤アルバムがある。あまり好きなジャケットでも内容でもないのだが、もともとがイラストなので、簡単に描けそうだということで、高校の授業中にノートに書いたのだ(罫線が見えている)。ジャケットだけでは寂しいので、日本版の帯をつけたところがよい判断だったと思う(実際にイラストに帯を巻いてある)。もっと大きく手間をかけて描けば上手く描けるのだが、こういうものは、そんなことをしてそっくりに描いても何の意味もない。この手抜き加減がよいのだ。

当時、友人の似顔絵をよく描いていて、ビートルズの4人のうち、リンゴだけをそいつの顔にしてしまうギャグをよくやっていて、ここでもドラムのところにおでんを持たせて座らせている。

先日、知人の家に遊びに行ってカラオケをすることになった。それで『なごり雪』を歌った。これ、曲も歌詞も好きなのだが、サビの「今、春がきて君はきれいになった」というところだけがどうしても好きになれない。歌うたびになんとなく不快な気持ちになるのだ。綺麗かどうかなど完全に主観なわけだが、あたかもそれを客観的事実のように、あるいはミスコンの審査員かのように判定、批評するような言いっぷりが不愉快なのだ。お前、自分が惚れてるくせして、この後に及んでなに相手を評価してんのよ、という感じだ。「前より好きになった」なら勝手なので問題はない。さらに、綺麗ということがそんなに重要なのかということもある。人の価値はさまざまだ。一昨年死んだ祖父は、祖母と結婚した理由を「土地がよかったから婿にきたんだ」と当たり前のように語った。「今、春がきて君は丈夫になった」でも「疑い深くなった」でも「黄色くなった」でもいいわけである(そんな歌あるかよ)。

ずいぶんと前、ある席で美人と評判の人と同席したことがある。そのときにある奴がその人のことを「美人だろう、きれいだろう」とその本人の前で私に同意を求めたのには困った。まさか「なんとも思わない」と本心を言うわけにはいかないではないか。「そうですねえ」と心にもないことを言うのが本当に苦しく、なんで俺はこんなことで本心を偽らなくてはならないのだと、聞いた奴に腹が立った。

もしかすると『なごり雪』のあの歌詞が嫌いなのはそのことが原因なのかもしれない。

アクセス増加

このブログのアクセス数だが、あるURLにアクセスをしてパスワードを入れると、下のように棒グラフで推移を見られるようになっている。最近、アクセス数が過去にない動きを見せている。年末から正月にかけてアクセスが減少していたのだが、ここにきて一気に挽回しているのだ。

とくに珍しいのが、土日のアクセス増だ。1/20が全日本選手権の最終日だったので、それがきっかけで卓球王国に来る人が多く、ついでにここにも来たのだと思われる。日曜にこんなにアクセスがあったのは初めてだ。その後も高目を維持しており、最高記録である一日294件は更新できていないが、月平均では過去最高を更新しそうな勢いだ。

You Tubeで卓球関係の面白い映像を見つけたので貼っておく。すごい奴らがいるものだ。

卓球とは関係ないが、こちらも傑作だ。

こんなに可笑しい映像が世の中にどれだけ埋もれているんだろうかと思うと悔しい。私は面白い話が好きなのだが、見たり聞いたりした面白い話を、どんどん忘れていくのがもったいなくて仕方がない。忘れないようにいつも思い出して反芻するようにしている。人に話すときも、ほとんど相手かまわず話してしまうのだが、それは自分のために話しているからなのだ。このブログを書くようになってから、ここに記録することで安心するためか、そういうことはあまりなくなったような気がする。

シナリオ考

先日、知人から日本のテレビドラマのVCDを借りた。先週から中山美穂主演の『眠れる森』を見ていて、やっと昨日見終わった。10年前に大好評だったドラマらしく、なるほど面白かった。話も演技もよかったのだが、前から気になっている日本のドラマのシナリオの嫌なところがやはり目についた。

それは、感情の高ぶった登場人物が自分の気持ちを説明するときの「ずっとそう信じてた」などとという語尾の言い切り方だ。一見すると、何が問題なのかわからないだろうが、これが大問題なのだ。考えてみて欲しい。日本人が現実場面で人と会話をするときにこのような語尾になることがあるだろうか。ないのだ。「信じてたよ」とか「信じてたのに」などとなるだろう。決して「た」で止める言い方はしない。そのため、どんなに上手い役者の演技を見ても、この台詞が出てくると、不自然ないかにもお芝居をしているというような「ヘタな演技」に見えてしまうのだ。現実場面でありえない台詞を言わされているのだから当然である。自然に言いようがない台詞なのだ。

ではどうしてシナリオライターはそういう台詞を書くのだろう。実はこれは文章で読むとおかしく感じないのだ。そう、こういう言い切り型の語尾は、活字の世界での標準形なのだ。女性言葉としての語尾「○○するわ」とか「○○よ」というのも同じく、映像がない活字の媒体での表現方法であるが、これをそのまま映画やドラマに流用してしまうので、結果として役者たちは映画やドラマにしかない言葉使いをさせられているのだ。

私は何も、ドラマのリアルではないことをすべて否定しようとしているのではない。視聴者に登場人物を説明するために本人に向かって「お隣の山田さん」と話しかけたり、話の筋に関係のない電話や訪問者がいないこととか、ドラマの都合上、仕方がない部分はいいのだ。でも、シナリオライターの想像力不足で台詞が不自然になってしまうことだけは我慢がならない。事情を知らない人にとっては、役者がヘタに見えるので役者もかわいそうだ。この台詞が出てくると、どんな役者がやっていても「ああ、またいつものこういう言い方をする演劇部の人が出てきた」と思ってしまう。

私は韓国ドラマ『冬のソナタ』が異常に好きだ。その魅力はとてもひとことでは言い表せないのだが、日本語吹き替え版でもそういう言い切り型の台詞が一切ないことも、安心して見ることができる要因だ。もしかして台詞の意味自体にそういう自分の気持ちを説明するシーンがないのかもしれない。そうだとすれば、やはり優れたシナリオだといえる。登場人物が自分の気持ちを「こう思ってた」「だからこうしたかった」と長々と言葉で説明しなくてはならないドラマはシナリオとしてどうかと思う。

このブログを読んでからドラマの台詞が気になってしまう人がいるかもしれないが悪しからず。

明晰夢

明晰夢というのをご存知だろうか。てっきり、はっきりと見える夢のこと思っていたが、調べてみると、「これは夢だ」と自覚しながら見る夢のことだという。

初めて明晰夢を見たときのことははっきり覚えている。小学校5年ぐらいのことだ。私は家の前の川の橋の上に立っていて、そこでふと「これ、夢じゃないかよ」と気がついたのだ。それならいつもできないことを思い切ってやろうということで、川の中の石めがけて頭から飛び込んでやったのだった。それで目が覚めて、今後はいつでも夢だと気がついて怖い夢を怖がる必要もないし、夢の中で好きなことをやろうと思った。ところがそう簡単にはいかないもので、その後、明晰夢を見たのは数えるほどしかない。

それとは別に、異常にはっきりくっきりと映像を見ることができる夢というのがある。これは今まで2回だけ見たことがある。そのうちの1回が、つい最近で、しかも「これは夢だ」と思いながら見たので大変面白かった。

まず、夢のなかで「これは夢だな」と確信をした。それで、ひとつこの夢の映像がどれだけはっきりと見えているかチェックしてやろうと思った。そう思いながら目に映っている映像を見ると、覚醒時とまったく同じ精細さで見えている。目を大きく見開いて(夢の中でだ)、目の前にある花だの紙に書いてある図形だのをしっかりと見たのだが、夢にありがちな曖昧さは微塵もなかった。人間の脳とはなんと面白いのだろうか。

この夢の精度を後で確かめられるようにと、私は目の前の紙に書いてある図形を見ながら、鉛筆で丁寧に別の紙に図形をトレースしたのだ。もちろんこれも夢の中なので、そんなことをしても後で確かめることなどできないのだが、そこは夢の浅はかさである。

「はっきりと見えたような気がした夢を見た」のではない。夢の中で、覚醒時と寸分変わらない精細な映像を見たのだ。しかも夢だと自覚しながら。これをわざとできるようになったらものすごいことになるだろう。ハイビジョンどころではない、無限のコンテンツが無料で見られるのだ。

人間の脳にはこういう可能性があるので、あるはずのないものが見えたり聞こえたりすることなど当たり前のことだ(UFO、幽霊など)。

叔母さんから聞いた話。大学時代に同居していた友人が首吊り自殺をした。自分の布団の上で首を吊られたという。叔母さんは徹底した唯物論者だが、ショックは大きく、その日から一年間毎晩、目をつぶるとその友人の姿が現れたという。歩いていても後から呼ばれ、振り向くとその人がいて、来ている服の模様から差している傘まではっきりと見えるのだという。叔母さんは「人はこれを幽霊と言うんだ」と自分に言い聞かせながら睨み返すと、すーっと消えていくのだそうだ。すべて、自分の心理から起こる錯覚だったのだ。

幽霊を信じたい人は、この話を聞いても「それは本当の幽霊で、睨まれたから消えたんだよ」と言うことだろう。結局、人は自分の信じたいことしか信じないのだ。

悪いのは誰か

スピリチュアル・カウンセラーの江原がマスコミでたたかれ始めている。http://netallica.yahoo.co.jp/news/22877
まだ生存している人を死んだと思って霊視したのだという。これに対していろいろな意見があることと思う。以下の意見が考えられる。

?生霊を霊視しただけであり問題ない
?霊視はウソであり、江原は悪い奴だ
?霊視がウソなのは当たり前で、信じる人が悪い
?霊視がウソなのは当たり前で、いままでそれを肯定的に取り上げていたマスコミが悪い

?は論外として、私の考えは?と?である。そしてこの中でもっとも悪質な意見が?だと考える。作る方は騙そうとして作っているのだから、だまされるのは当然であり、したり顔で「そんなの信じる方がバカなんだよ」などとは絶対に言えないのだ。そしてこういう意見がもっとも根本的な?や?の意見を疎外していくのだ。インチキに対して「騙される方がバカだ」という意見が間違っていることは誰でもわかるだろう。悪いのはインチキを働いている張本人とそれを斡旋している者に決まっている。

マスコミは、オカルトを取り上げるときにはもう少し慎重になってほしいものだ。フィクションだとはっきり伝えるか、そうでなければそれが本物である証拠をつかんでから放送するべきだ(そんな証拠はないに決まっている)。科学離れが進んでいるといわれる現代日本だが、我々の社会は依然として自然科学を大前提として営まれている。

まず、社会を規定する法体系が自然科学に基づいている。だから犯罪に関して、霊視による目撃情報や念による犯行の可能性は考慮されないのだ。もし念力で物を動かすことができるのなら、もっとも軽い物質である電子など簡単に動かせるはずだ。そうすると、電気仕掛けの機械やコンピューターなど念力によって簡単に誤動作してしまうことになり、あぶなくて新幹線にものれないし、コンピューターによって巨額の取引が行われる証券市場も成り立たなくなる。世の中を動かしている側は、そういうことをわかっているのだ。わかっていない側だけがデタラメな情報に騙され、カモにされている。

超能力によるスプーン曲げを未だに信じている人もいる。それをやり始めたユリ・ゲラー自体が手品師だというのに。もし本当にスプーンを力学的な力以外の方法で曲げているなら、スプーンの曲げる部分を1cmだけ切り出したものを曲げてもらえばよい。テコの原理は力学の原理だから、もしこれでも曲げられるようなら本物である可能性は残る。こんなすぐに思いつくことすらしないで放送をするということは実はマスコミ側もそれらがインチキであることを知っているからなのだ。http://homepage3.nifty.com/hirorin/natasha.htmだからインチキ霊能力者と同じくらいに悪いのは、それを結果的に斡旋しているマスコミだ。まあ、黒木梨奈レベルの人がうようよしているんじゃ、それも仕方がないかもしれない。我々一般人がができることは、せいぜい騙されないように自分で予防することだけである。

神様の話

昨日、帰り際に上司のデビッドが神様について話し始めた。彼によると、聖書には、貧しい人たちのために収入の10%を教会に寄付するよう書いてあるのだと言う。それで彼は若い頃からずっと毎週175ドルづつ寄付をしていて、これまでの総額は大変な額になるという。てっきり、それで損をしたという話なのかと思って喜んで聞いているとそうではなくて、そのおかげで幸せだと言う話だった。

結婚もした、子供もいる、みんな健康だ、家もある、車も食べ物もある。望むものはすべて手に入った。教会に寄付した額をはるかに超える溢れんばかりの恩恵にあずかっているという(寄付したからではなくてまじめに働いたからだと思うが)。

日本にはそういう習慣はないのかと聞かれたので、日本人は形式は仏教や神道に入っていてもほとんどの人は神様を信じておらず、無宗教だといった。それで寄付と恩恵に似た制度として、年金制度について説明した。我ながら見事に論点を外したものだ(神様と年金の何を比較しようというのか)。深夜だったので疲れていたのだと思う。

デビットが神様の存在を信じるようになったのにはきっかけがある。20代の頃に仕事があまりに辛くて、辞めたかったのだが家族もいて辞めるに辞められない時期があったという。そこである日、神様に「助けてください」と祈ったのだそうだ。するとその翌日、今の会社からヘッド・ハンティングの電話があったのだそうだ。さらに同じ週にもう一社から誘いがあったという。これで神様の存在を確信したそうだ。

ひとしきり話が終わり、しばらくしてあらためて「死後の世界があると本当に信じているのか」と聞いてみた。デビッドは「ビリオン(10億)%信じている。それも永遠の世界だ」と言った。

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