年別アーカイブ: 2010

足立さんの卓球

卓球台が10台ほど置いてある部屋に行き、いよいよ足立さんと初手合わせとなった。足立さんは長年、平均寿命が58歳という激務の商社に勤めていて、それを辞めて、今は別の日本の貿易関係の会社の米国支部を一人でやっている。卓球は中学生のときにやって以来ずっとやっていなくて、つい4年ほど前に再開したという。足立さんが中学生のときは長谷川信彦と伊藤繁雄が現役のときで、地元の北九州に来て模範試合をするのを見たという。それがもっとも新しい記憶だというのだから驚く。当然、郭躍華も知らなければ孔令輝も知らないのだ。さすがにワルドナーは今でもたびたび話題になるので最近知ったという。

それで、話をしていると、ちょっとしたタイムマシンを経験するような面白さがある。河野満やベンクソンあたりまでも話はできるのだが、ちょっと油断をするとすぐに荘則棟とか木村興治の話になるのだ。

足立さんの戦型は右ペン裏ソフト攻撃型で、もうひとつ通っているクラブを含めると週に3日は練習しているという。王さんの個人コーチも受けているだけあって、まったく古さを感じさせない卓球だった。特にバックのショートは金擇洙ばりの”フォアハンドと同じ腰の回転を使った弾くようなショート”で、足立さんが中学生のときにはまだ世界のどこにも存在していなかった技術だ。

試合は私の勝ちだったが、サービスの回転でごまかしただけであり、基本技術ではまったく対等に思われた。

ウエストサイド卓球クラブ

いよいよ足立さんの通っているというウエストサイド卓球クラブに到着した。ちょっと通りから奥に入ったところにあったので専用の卓球場かと思ったが、そうではなくてもともとはフェンシングの練習場で、時間によって卓球クラブが借りているということだった。なので、会場の看板にはtable tennisの文字はない。

中はかなり広く、二つの部屋に分かれていて、片方の部屋には卓球台が一台だけ出してあり、そこでこのクラブのコーチである、王巍(Wang Wei)さんという女性が時間性で個人コーチをしていた。王さんは中国のナショナルチームにいた人で、それほど有名ではないが、千葉やエーテボリにも出場していた。引退後は96年アトランタ五輪にアメリカ代表で出場している。足立さんの言うとおり、ものすごく優しそうで感じの良い人だった。私は中国の指導に興味があったので、さっそく素振りの重要性について聞いてみた。すると、中国でも素振りは大切な練習で、フォームができあがる最初の2年ほどは毎日させるという。日本では国の代表クラスの選手にとっても素振りが重要だと考える人がいるが、中国ではどうかと聞くとそれはなく、素振りをさせるのはあくまで初心者の段階だけだという。思ったとおりだ。

写真は王さんの個人コーチの方の部屋だ。肝心の王さんの写真を撮り損ねた。

山頭火でラーメン

レンタルビデオ屋の隣にはLee’s TofuとかTebasaki Chickenとか書いたわけの分からない日本レストランがあった。

その後、私がラーメンを食べたかったので、山頭火があるというモールに行き、ミニみそラーメンを食べた。まだ蟹で腹がいっぱいであまり食欲はなかったのだが、なにしろこの後夜8時から、足立さんの通っているウエストサイド卓球クラブで卓球をするので、食べないわけには行かない。このクラブでは毎週土曜、総当りの大会を開いていて、夜の12時頃まで試合をするというのだ。

さあロサンゼルスの卓球クラブ、いったいどんな人たちがいるのか、これからが面白いところだ。

ロスの古本屋とレンタルビデオ店

ドーサンやアトランタでは有り得ないことだが、ロスにはなんと日本語の古本屋まであった。しかも1ドルコーナーまである。これは日本のブックオフと同じだ。

しかも幸運なことに、閉店セールをやっているレンタルビデオ屋まであった。日本のDVDをわざわざ日本から取り寄せると大変な金額になるのだが、それがここでは中古とはいえ3ドルで売っていた。しかも話題作が目白押しだ。

写真の量を買ってたったの30ドルだったので、日本で買うよりも安く買えた。ただ、中を開けてみるとすべてコピー品だったが・・・さすがだ。画像には問題ないのでよしとしよう。

ロスの本屋

同じ建物の中には大きな本屋もあった。壁には、日本での本の定価とこの店での売値の対応表が100円きざみで貼ってあった。1600円なら23ドルという具合で、やはり送料と手間賃の分、1.5倍くらいの値段になっていた。

卓球王国があるかどうか見たが、残念ながらなかった。「料理王国」がいつものように紛らわしい。

スポーツ本コーナーには意外にも卓球の本も置いてあった。アメリカでわざわざこんな本を買って卓球をする人がいるとは思えないのだが、ともかく置いてあった。卓球王国から出版されているものでは、唯一、高島規郎の『戦術ノート』が置いてあった。さすがだ。ロスで『戦術ノート』とはおしゃれである。

ちなみに足立さんは、ロスの本屋さんに頼んで卓球王国を毎月取り寄せてここ4、5年は毎号読んでいるという。年間で150ドルくらいするというから、かなり高い。それで私の連載も読んでくれていて、ブログを見てメールをくれたのだ。だからこのブログも読んでいるというわけだ。

日本食スーパー

さすがにロスは日本人が多いというだけあって、日本食のスーパーまであった。ミツワというスーパーだが、建物の外観はいつものように思いっきり勘違いしたようなデザインで「日本」をアピールしていた。どうみても中国だが、これがアメリカにおける日本らしさなのだから仕方がないのだろう。

私は急に和菓子を食べたくなり、2.8ドルもするきんつばを1個買った。足立さんも甘いものが好きで、薄皮饅頭を1個買ったので、二人でお茶屋さんの赤い布が敷いてあるイスに並んで座って食べた。・・・ますます疑われる。

茶屋にはなにやらコスプレをしているアメリカ人がいたので、こっそり写真に撮った。ちょうどその日、そういう会合だかなんだかがあったらしい。

蟹屋2

ここの蟹の食べ方は変わっていて、屋外の石のテーブルの上で、木槌を使って叩いて甲羅を割るのだ。こんな軽い木槌で割れるものかと思ったが、軽く何度も叩くとそのうち割れることがわかった。

割った断面を見ると、かなり甲羅が厚く、日本で知っている蟹とは種類が違うことを実感した。それにしても、蟹みたいな面白い形の生き物を見ると、どうしても進化の不思議さを考えざるを得ない。塩さえ使わないのに美味い蟹味噌を食べながら「こんなに美味いんじゃ食われるわけだ」と思った。

蟹屋

ロサンゼルス空港で迎えに来てくれた足立さんと初対面を交わした。
まずは昼食を食べることになり、足立さんの車で海沿いの蟹屋さんに行くことになった。ロサンゼルスというとなんとなく刑事コロンボとか近代的なビルばかり連想していたが、ビーチも結構有名らしい。

蟹屋に行くと、見たことがない形の生きた蟹が置いてあり、そこから好きなのを指定してその場で茹でてもらう方式だ。生きた蟹はライブ・クラブで、死んだ蟹はフレッシュ・クラブと書いてあり、なるほどと思った。この店ではウニまで置いてあり、立ったまま生ウニを食べている人もいた。アメリカ人もウニを食うのかと思ったが、よく見ると客の7割ぐらいはアジア人だった。ロスはアジア人が多いが、こういう店だと余計多いのだろう。

ロサンゼルス観光

もともとはエリア51に行って宇宙人の肉で作られているという触れ込みの「エイリアンバーガー」を食べようとしていたのだが、あいにくこの日程で日本人ツアーの催行がなかったので、かわりにユニバーサルスタジオでヒッチコックの「サイコ」のベイツ・モーテルのセットを見に行くことを思い立った。

それで、以前、ロサンゼルス在住の足立さんという方からメールをもらっていたことを思い出して連絡をすると、家に泊めていただいてロスを案内してもらえることになった。

足立さんは、アメリカ人の奥さんと結婚して、もう27年もアメリカに住んでいる人で、なんと卓球王国を本屋から取り寄せて毎月読んでくれている人なのだ。それで、今回のロス観光のプログラムに、足立さんと卓球をすることが当然のように組み込まれた。

初対面ではあるが、ロスに知人がいるなんて心強い。職場のゲイリーがいつものように週末の予定を聞いてきたので、送られてきた足立さんの写真(下の写真)を見せながらロス観光の話をすると、ゲイリーが「奥さんの写真はないのか」とニヤニヤしている。何が可笑しいのかわからなかったがハッと気がついて「奥さんは女性だぞ。成人した子供が二人もいるんだ」と言った。自分でもあわてて取り繕っているような気になってしまうのが可笑しい。ゲイリーはなおも笑いながら「そうだといいがね」と言った。

そういえば妻も「中年男二人でユニバーサルスタジオかや?」と言っていた。確かにサンフランシスコも近いしな。まあ、そう思わせるのも面白かろう。望むところだ。

ということで、生まれて初めてのロサンゼルス観光2日コースの始まりである。

家族の帰国

先週末に妻と子供たちが帰国した。前日にアトランタで一泊し、翌朝空港で見送りをし、その寂しさを紛らわすためというかこれ幸いにというか、私はそのまま別の飛行機に乗ってロサンゼルスに遊びに行く計画だった。ところが私の勘違いで、なんと私のフライトの方が早いことが前夜に発覚した。またやってしまった。

翌朝、当初の予定とは逆に、これから帰国をする妻と子供たちに見送られて少し気まずい思いでホテルを後にしたのだった。

妻はすっかりドーサン生活が気に入り、日本に帰るのを残念がっていたが、子供たちは全員大喜びだった。そもそも英語に憧れなどない年代だし、ただわけが分からないだけだったのだから仕方がない。長男が言うには「アメリカに来るときはとても嫌だったが、実際に来てみたらもっと嫌だった」というからかなり苦労をさせた。実際、最初の年は精神的なものから物を食べられなくなり、ひどいときは水も飲めなくてガリガリになり、顔色も表情も無くなってかなり大変だったのだ。

今のところはマイナスばかりのアメリカ生活だが、ちょっとは英語がわかるようになったのだから、そのうちいいこともあるだろう。将来、よかったと思ってくれればいいのだが、今のところは「刑務所に入れられていたようなもんだ」と言っている。