以前、このブログや雑誌の連載でも紹介したことのある「営業マンMさん」と初めて卓球をした。
彼は高校を卒業してから27年間というもの、自分が卓球をしていたことをひた隠しにし、奥さん以外の人に卓球歴を語ったことは一度もなかったという。
それが3年前、私と仕事で一緒になった時に、私があまりにも堂々としかも「異常な熱意」で卓球について語るのを聞いて、カミングアウトをしたという方なのだ。
それで昨夜、Mさんと初めて卓球をすることになった。30年ぶりの卓球であるにもかかわらず、フォアロングもバックショートもツッツキも横回転のレシーブも普通にできたのが感動的であった。
「自転車と同じで忘れないもんですね」とMさんも感動を隠し切れない。
しかも呆れたことに「現役時代より入るような気がします」とまで語る。「30年間の人生経験が卓球に活きているんだと思います」だそうだ。あるかそんなこと!
店にあった表ソフトと裏ソフトを打ち比べて、裏ソフトの方が打ちやすいことに気がつき「裏にしていればよかった」と後悔しているのも可笑しかった。
呆れたあきらめの悪さだ。卓球を捨てたくせに、上手くできなかったことが今でも悔しいのだ。
それほど卓球というのは人の心に深く突き刺さる何かを持っているということなのだろう。
あるいは、そういうウジウジしたヤツに限って卓球をするということなのだろうか。
そんな思いを巡らせた夜であった。