年別アーカイブ: 2014

中国ナショナルチームの強豪

久しぶり試合に出た。サイン会をした卓球場、『卓球ラウンジNOA』の方々に誘われて、出ることにしたのだ。すべてダブルスの試合で、かなりパートナーに迷惑をかけたが、結果は勝ったり負けたりで、若干勝ち越したぐらいであった。

団体戦では結構、強いメンバーと組んだので、90歳以上の部(ペアの合計の年齢が90歳以上)で3位となり、調味料のセットをいただいた。包装だけみると、どう見ても米寿かなにかのお祝いである。

試合後、『串焼き遊』という居酒屋で打ち上げを行ったのだが、そこに登場した「社長」というあだ名の青年の顔つきが、髪型といい顔形といい、妙に艶のある肌といい、どうみても中国ナショナルチームの強豪という感じがして面白かった。その顔でわざと片言の日本語で大会会場をうろつけばみんなビビること間違いなしだと思ったのだが、みんなの話によると「プレーをすれば3分でバレる」そうだ。ま、そういうことだ。なぜかお店の方との撮影なのであった。

次元の違う話

人々が話す言葉でいつも気になるのが「次元」だ。「世界選手権ともなると次元が違う卓球だ」などという使われ方をする。まるで「次元」がレベルとか世界と同じような意味だと思っている使われ方なのだ。

もちろん次元にそんな意味はない。スポーツやゲームで言えば、一直線上を走る100メートル走は1次元のスポーツと言えるし、平面上で勝敗を競う囲碁や将棋は2次元のゲームと言える。空間を使う球技のほとんどは3次元のスポーツだ。これに時間も加えればそれぞれ1次元増しになる。次元とは要素の数を表す数学用語なのだ。だから「世界選手権ともなると次元が違う」という使い方は比喩にもなっていない単なる誤用である。もちろん「卓球が強いということと年収がどれくらいかということは別次元の話だ」というのも誤用だ。単に「別の話だ」と言えばよい。

もっとも、ある新興宗教のパンフレットに書いてあった次元の話は素晴らしかった。この世は20次元だかからできているそうで、「次元の意味を分かりやすく説明すると18次元が高校生だとすれば19次元は大学生だということです」などと気が狂ったようなことが書いてあった。ここまでデタラメだと巧まざるユーモアとなって爆笑を誘うのでこれはこれで素晴らしい。

これほど可笑しい場合は良いが、可笑しくもない単なる誤用は勘弁してもらいたい。

シャツを揃えた

私は自分の服装というものには何の興味もないのだが、体面上、毎日同じシャツだと汚いと思われそうなので、一応、毎日替えている。そのため毎朝、着るシャツを選ぶ作業がなんとも不愉快なのだ。どれでもよいといっても、なるべく前に着てから日が経ったものがよい。そんなことをあれこれ考えるのが嫌なのだ。それで、一時期は曜日ごとにシャツを並べていたこともあったが、それもなんだか面倒になって結局、毎朝面倒な思いをしている。

ところがよく考えると、服装に興味がないはずの私も、実は着るときに贔屓して着がちなデザインがあるのだ。それは、青の縦じまのシャツだ。下にガラ物のTシャツを着ても透けにくいし、なんとなく好きなのだ。

それで今回、思い切って同じガラのシャツだけ数着買ってしまえと思った次第だ。着心地や耐久性など、買ってからしかわからないことがあるから、今回は複数の店で別の製品を買い、しばらく使ってみて気に入ったものを後で大量に買って、生涯、二度とシャツのことを考えなくてよいようにしようという計画だ。毎日同じシャツなら同僚も替えているかどうかわからないから実際に替えていなくてもバレないという利点もある。

それで買ったのがこれらのシャツたちだが、

泊まったホテルのガウンも同じ柄だったのがまったく奇遇であった。

自覚のない東北弁

方言というものは、自分が方言を話している自覚があって話すのなら別に恥ずかしくないが、標準語を話しているつもりで実は訛っていたというのは恥ずかしい。

私は幼少より東北弁と標準語の違いについてはかなり自覚的であり、話せないまでも何が標準語なのかは完璧にわかっているつもりだった。ところが、大学を卒業してから関東の人から指摘されて初めてそれが標準語ではないことを知った衝撃的な東北弁がある。

それは標準語で「○○しなきゃなんない」を意味する東北弁「○○しなきゃない」だ。標準語における「なん」が抜け落ちているのだ。同様に「行かなきゃない」「言わなきゃない」などと言う。

これはもともとは堅い言い方をすれば「しなければ成らない」だ。このうちの肝心な「成ら」を省略して「しなければない」としてしまったのが先の東北弁なのだ。だから標準語圏の人が「しなきゃない」と聞くと「いったい何が無いの?」という一瞬の戸惑いを覚えるという。ただ、ほとんどの場合は文脈から意味が分かるので聞き返したり指摘したりはしないので、これを使っている人は自分がニセ標準語を使っていることに気づくことはない。また、ニセ標準語を使っていると自覚している人もいない。なぜそう言い切れるのか。それは「しなきゃない」という言い方がそもそも本気の東北弁ではなく、標準語を使ったつもりの「自覚なき東北弁」であるからだ。

本気の東北弁では「しなければ」は「しねば」あるいは「しねげ」となるのであり「しなきゃ」自体が標準語というか東京弁というか、ともかく関東の言葉を使っているつもりの言葉なのだ。ゆえに「しなきゃ」と言う人は当然標準語を使っているつもりなのである。

その証拠に、仕事の会議など、オフィシャルな場でも「しなきゃない」以外はすべて標準語を使う人の口からこれが連発されるのだ。それほどこれは、標準語を使いたい東北人にとって最大の盲点となっている。

ちなみになぜこの言い方が定着したのかと言えば、本気の東北弁が「しねばねえ」「しねげねえ」と「成ら」を省略した形で定着した後で、これを標準語に変換したためだと思われる。和製英語を本当の英語だと思い、正しい発音で使うようなものである。

標準語を使いたいと願っている東北人の参考になれば幸いである。

『卓球ラウンジノア』でのサイン会

土曜に、仙台市内の卓球クラブ『卓球ラウンジノア』で初のサイン会を行った。

実はこの卓球クラブには昨年の1月、新しい卓球場ができたという情報を得て、ふらっと寄ってみたことがあるのだ。それをブログに書いたところ、オーナーの千葉さんという方から感謝のメールをいただいた間柄である。「こんな小さな卓球場を全国に紹介してくれて嬉しい」と、やたらと感謝をされたのだが、今回訪問してその理由が分かった。

千葉さんは、私が仙台在住とは知らず、わざわざ東京かどこかからやってきてタクシーで乗り付けたに違いないと思い込んでいたというのだ。卓球コラムニストなのだから全国の卓球場をネタ探しに回っていて暮らしていると思ったという。それなら楽しいのだが、実際には田村を連れて車を近くの工事現場に停めての訪問だったのだ。

まずは卓球台の上に広げられた昼食をいただき、その後でのサイン会となった。

クラブの生徒さんたちに『ようこそ卓球地獄へ』を合計で18冊もお買い上げいただき、それぞれ名前を入れてサインをした次第だ。ファンが18人来るのかと思ったらそうではなく、実際にいらしたのは数人で、ほとんどはご本人がいないところで宛名のリストを見ながら黙々とサインをしたのであった。

サインをした後はダブルスの試合を数試合行い、意外と汗だくになってしまった。クラブ員の中には糠塚重造選手の知り合いだという、マニアックといおうか同世代といおうか、そういう方もいらした。

写真は、ノアのブログhttp://www.takkyu-noa.net/から拝借した、クラブのスタッフの方々との記念撮影だ。右端からオーナーの千葉さん、私、千葉さんのお母さん兼スタッフ、インストラクターの大高さん、インストラクターの千葉さんだ。インストラクターの千葉さんは、オーナーと苗字が同じだがこれはたまたまで、夫婦でも兄弟親戚でもない。この千葉さんは全日本選手権4回出場の宮城県トップレベルの選手だが、卓球王国のDVD『アウト・オブ・コントロール』がめちゃくちゃ面白かったと絶賛してくれたのが嬉しかった。『ザ・ファイナル2013』も持っていてお気に入りだそうだ。しかし『スウェーデン時代』は未見だというので、薦めておいた。

また、オーナーの千葉さんが『ようこそ卓球地獄へ』の「悪臭を発するラバー」の話が面白かったと言っていたのが印象に残った。これまでいろいろな方々が面白かったところを指摘してくれたのだが、興味深いことに、ほとんど重複する意見がない。ある人は「ある営業マンの告白」がよいと語りある人は「卓球小説」がよいという。他にも「素質のない人」「アメリカ生活」「下痢」「中学時代のトレーニングの挿絵」など、意見はさまざまだ。それだけ見どころが多い本になっているということだろうと、ひそかに自画自賛している次第だ。これだけ書けば「ひそかに」じゃないが。

意外な結末

そのレバー焼きの店に今週も行ってきたのだが、そこで話は意外な展開を見せたのである。私の後から入ってきた常連と思われる客が、例の「レバー焼き」を頼んだのだ。数分後、私の時と同様、生のレバーが皿に盛られて客に差し出された。するとその客は店主に「ライター貸してください」と頼んだではないか。

「なにっ?」と思った私は本を読む姿勢のまま目玉が苦しくなるほどの横目でその客の動向を盗み見したが、そいつは・・・・煙草に火をつけて悠々と吸ったのであった。ガクッ。

不思議なレバー焼き

東京に出張のときに、よく一人で行く小さな飲み屋がある。先日行ったとき、メニューに書いてあった「レバー焼き」について、どういうものか店主に聞いてみた。串焼きのようなものなのか、野菜と一緒に炒めたようなものなのか、そういったことを聞きたかったのだが、彼の答えは異様なものだった。

「生のレバーをお客さんにお出ししますから、ライターであぶって食べてください」

・・・確かに私はこの店の常連であり、店主と顔見知りではあるが、いきなりこんな理不尽な冗談を言われるほど親しくはない。注文と会計以外の会話はしたことがないのだ。そもそも店主は冗談が好きなようにも見えないし冗談を言っている顔つきでもない。

戸惑っている私に気が付いてかどうかわからないが、店主はこれ以上の会話を拒否しているようにも見える。ちょっと気まずい時間が流れたが「迷ったらとにかくやってみる」といういつもの信念に従い、私はその「レバー焼き」とやらを頼んでみた。

数分後、私の前にレバーの刺身が置かれた。明らかに生だ。念のために周りを見渡してもコンロもライターもない。こんな「レバー焼き」が一体どこにあるというのか。たまらず私は「これ、焼いていないんですか」と言った。すると店主は「焼いた方が良かったですか?」と言う。気まずいながらも私が「・・・・はい」と言うと、店主はその皿を引っ込め、数分後、焼いたレバーを差し出しながら「焼いたのが良かったらレバーの串焼きって頼んでもらえればもっと安くできますから」と言った。

薄々わかったのが、これはおそらく、食中毒の問題で本来は出してはいけないレバ刺しを、どうしても食べたい客のために表向きレバー焼きとして出しているのだろう。わかる客だけが以心伝心で頼むというわけだ。しかし私は「レバー焼きってどういうのですか」と聞いたわけだから、明らかにそれを知らない客である。とはいえ、店主もありのままに「生で出す」と言ったわけだから、嘘はついていない。店主に非があるとすれば、ライターであぶってくださいなどと、冗談のようなことを付け加えたばかりに、私が全体を冗談である可能性を考えてしまったことだ。とはいえ、レバー焼きという名目で売っている以上、そう言わなければ店主の偽装は完結しないわけだからこれも仕方がない。結局、誰が悪かったのか、どうすればよかったのか未だにわからない。ま、出してはいけないものを出すのが悪いといえば悪いわけだが。

その日の最後、いつも頼んでいるお握りがサービスで二つ来たことが、無口な店主の私へのケジメであると受け取った。

意外な帰国子女

次男が珍しく面白いことを言った。

「ドラマやアニメを見ていると、よく”僕、お父さんの仕事の関係で小さい頃外国に住んでいたんだ”ってやつが出てくるけど、そんなやついるかよって思ったら俺だった」だそうだ。

確かにそうだ。次男の気持ちはよくわかる。どうしてこういう感覚になるかというと、ドラマやアニメで出てくるこういう人物は、ある特別な人間像を与えられているわけで、それが自分と合わなすぎるからだろう。その人間像とは、裕福で知的で孤独で物静かな感じだ。そういう人間像にしたいからこそわざわざ外国に住んでいた設定にするわけで、単なるわんぱく坊主にそんなややこしい過去を設定する理由がないし、したら無意味である。わが次男のような、底抜けに明るく軽薄で友達の多い人間は、帰国子女のイメージと全然合わないのだ。そういうことを自然に感じ取っての次男の反応だったのだろう。