年別アーカイブ: 2016

台湾での推理

今週も仕事で台湾に来ている。

同僚のHさんとレストランで夕食をとっていると、Hさんが厨房のオヤジに目を付けた。苦み走った厳しそうな顔がいかにも職人という感じで、この店は彼がその腕一本で立ち上げたのであり、客に出す料理の仕上げだけは絶対に他人には任せられず、よって彼がこの店のオーナーに違いないと断言する。

そう言われてみればたしかにあの眼光の鋭さは尋常ではない。昨日や今日入ってきたバイトであるはずがない。

私はアメリカにいたときに、アメリカ人から「中国人は絶対に金勘定を他人にまかせないので、レジにいるのがオーナーだ」と聞かされていたのでそれを思い出し「それではあのレジにいるのがオヤジの奥さんですか」と言うと、Hさんは「そうでしょうね。そしてイヤホンをつけている男が娘婿でしょう」と言う。

なんでそうなるのかさっぱりわからないが、ともかく想像で根も葉もないことを言うのは実に楽しい。面白いのでどんどん続け、最後には「注文を取りに来る若い女の子がこの春高校を卒業した孫娘に違いない」ということになった。

それで、彼女が注文をとりにきたので「この店のオーナーはあのおじさんですか?」と聞くと、なんとも面倒くさそうな顔で「ノー」と言われた。撃沈。すべてがガラガラと崩れたのであった。

グラスの底に残った紹興酒がどうしても飲めないと思ってよく見たら入れすぎたレモンが蓋になっていたのであった。こういう状態を「飲みすぎ」という。

格闘技

『探偵ナイトスクープ』が大好きで毎週見ているのだが、今日録画を見たのは依頼者がボクシングをやる回だった。

私が小さい頃はキックボクシングやプロレスを毎週テレビでやっていたし『あしたのジョー』『空手バカ一代』といった格闘技マンガも人気があった。ブルース・リーのカンフー映画もあった。高校の卓球部の先輩など、息子に「倍達」と名付けてしまったほどだ(わかる人はどれだけいるかな?)。

いつの時代でも格闘技は男にとって何がしか惹きつけるものがあるのだ。私もガラにもなく、いや、だからこそ自分にないものとして格闘技には憧れがあった。

『ナイトスクープ』を見ながらそんなことを思い、乱暴なことが嫌いな妻にわざとどうでもよいことを聞いてみた。

「俺がボクシングやってたら嫌だよな?」

「別にいいよ。子供たちは困るけど」

「・・・なんで子供たちはダメなんだ?」

「ほら、頭とか故障したら困るからね」

「・・・俺は、故障してもいいのか」

「今さらこないでしょ」

とのことだ。なにが「こない」んだか知らないがどうでもよいのでこれ以上の会話は止めた。

「北国」への違和感

最近見たある映画で、用事があって東京に出てきた山形県の人が、自己紹介をするときに山形を「北国」と表現していた。なんともいえない違和感があった。

たしかに一般的には「北国」とか「雪国」は東北や北海道のことを指すのだろう。しかし、私は自分の住む東北をそう表現したことはないし、周りの人が言うのも聞いたことはない。

なぜかといえば、これらの言葉は、小説や演歌などにだけ出てくる、ある種のロマンを含んだ言葉だからだ。そこで暮らす我々にとっては、ただ寒くて不便なだけのこの土地に、まかり間違ってもロマンなど感じないので、それを美化したようなこれらの表現は、どうにも抵抗があるのだ。

私は学生時代から仙台に住んでいるが、当時下宿していた親戚の家に2つ下の従妹が住んでいた。当時短大生だった彼女は、読んでいた女性誌に

「あなたが東北地方出身なら、出身地を聞かれたときに『東北です』ではなくて『北国です』と言いましょう」

と書いてあるのを読み「バカじゃない?そんな気取ったこと言える?」と大笑いしていたものだった。

我々にとって「北国」とはそういうインチキな言葉なのだ。

さて冒頭の映画だが、実はその映画では「気取った人物」を描いていた可能性はないだろうか。ない。なぜならそれは昭和10年代の時代設定であり、その男性はひどいズーズー弁でゲップやら下品なしぐさを連発する無学無教養な中年男性として描かれていたからだ。もしもこの男性が気取る必要があったのなら、「北国」と言うより先に気をつけるべきことが山積みだったのだから。

サザエさんの主題歌

毎週日曜の夕方になると家族が『サザエさん』を見る。その時間はたいていは私も家の居間にいるので、パソコンをしながら音だけは聞くことになる。

そこで気になるのがなんといっても冒頭の主題歌だ。

毎週毎週何年も聞いていてまず気になるのが「買い物をしようと街まで出かけたが、財布を忘れて愉快なサザエさん」というフレーズだ。財布を忘れた本人はどう考えても愉快ではないのだから、これは第三者の感想だろう。人が財布を忘れたことがそんなに愉快だとはなんと意地悪なのだろうか。そもそも愉快と言うほどのことか。

あとはやはり「みんなが笑ってる」というフレーズで、これは間違いなく被害妄想者の感覚だ。実際、高校時代のクラスメートでこういうことを言っていた奴がいたのだ。みんなが自分の学生ズボンを笑うから買い直さなくてはならないと言い、週に2回も買ったものだったが、後に彼は正式に入院してしまい、単なる変わり者ではなかったことが証明された。

病気と言えば、ある会社の同僚によれば「クラリネットこわしちゃった」も「大きな古時計」も頭がオカしい人の歌だという。クラリネットは音が出ないような壊れ方をするものではないし、100年も前の時計が動くと思う方がどうかしているのだそうだ。どう考えてもこの同僚の方がオカしいと思ったものだった。

台湾のトイレ

泊まったホテルはかなりグレードの高いものだったが、あいかわらずトイレは使い難かった。

トイレットペーパーを引き出す部分についている刃がギザギザで鋭利であるため、ちょっとでもぺーパーが刃に触れるように斜めに引き出すと切れてしまうのだ。

おまけに、もともとペーパーに入っているミシン目も異様に切れやすいので、刃に触らぬよう注意深くあくまで真下に引き出さなくては使い物にならないのだ。

しかもこれが便座から結構離れているのだから堪らない。

おまけに例によって、ウォシュレットのスイッチは背後の壁にあるので、スムーズに使うためにはかなりの柔軟性を要する(笑)。

もっとも、こういうトイレの使いづらさは台湾だけのことではなく、アメリカもヨーロッパも同じだった。日本以外は便座に座った状態での使い勝手など考えている国はないのだ。

「そんなの使う方がどうにか工夫しろよ」とでも言わんばかりなのだ。

まあそう言われればそうかもしれない。

台湾の不思議な日本語

今週は久しぶりに仕事で台湾に来ている。

レストランで夕食を食べたのだが、例によって使われている日本語がすこぶる面白い。

どうも、すべての「つ」を小さく「っ」と書いてしまったものらしい。そうと知りながら無理やり「みっ切れはし」「いつっ卵」などと声に出してはその発音の難易度を確認してモヤモヤした気持ちになる。

「切れはし」と書いてあるのは、細切れとか小さく切ってあることを表現したものと思われるが、こう書かれるとなんとも不味そうだから不思議だ。

「酸っぱい辛いスープ」はメニューの名前がそのまま性質の解説になっているなんとも親切な料理だ。

「スルメスープ」とはこれまた食欲をそそるが、頼んでみるとイカだった。メニューには他にも「スルメ」を使った料理がたくさん書いてあったが、おそらくこれは半端に日本語を教えられた人がイカのことを「スルメ」と覚えてしまったものと思われる。それにしても本当にスルメのスープがあったら食べたかった。残念。

頼んだ料理はすべて美味しかった。

そんなこんなで店を出ると、なんとも怪しいオカルトチックな看板が目に入った。

さてこれは、本当は何と言いたかったのだろうか。「”神グリコール”は、神様が生んだ飲み物です」だろうかやっぱり。ウソつけ!どう考えても人間が作ってるだろ(笑)。

息子たちの逆襲

息子たちがテレビでテニスの錦織の試合を見て「すごいすごい」と言っていたので、酔った勢いで

「こんなテンポの遅いラリー、卓球にくらべたら退屈で見てられない」

と言ったところ、高校時代にテニスをした次男が

「卓球なんて小さくてチャカチャカと忙しくて、まるで蟹のケンカ」

「カッコつけて卓球台の下がカブトムシの角みたくなってて笑った」

などと言う。

聞いていた双子の長男まで調子に乗って

「ユニフォームからまず変えないと」

と散々である。

卓球コラムニストの息子がこの体たらくとは一体どういうことだろうか。

つくづく下手なこと言うものではないなあ。

とうぎょう(東京)

しつこくてすまんが、引き続き東北弁の話だ。

黒柳徹子の半生を描いた『トットてれび』を見ていたら、典型的な間違った東北弁が出てきた。東京を「とうぎょう」と発音したのだ。この間違いはもう、映画やドラマに出てくる東北弁ではまるでそれが作法ででもあるかのように定着しているが、残念ながら「とうぎょう」とは絶対に言わない。「き」に濁音がつかないことになっているわけではない。「先」は「さぎ」と言うし「時」は「どぎ」と言う。

地名や固有名詞が訛らないわけでもない。福島は「ふぐすま」、鈴木は「すずぎ」、下の名前さえ武を「たげし」と言う。それでも東京は「とうぎょう」とは言わないのだ。

なぜかと言われても困るが、ぼんやりとした区別としては、音読みの熟語には濁音がつかないような気がする。法則化はかなり困難と思われる。

「っぺし」問題

『アヒルと鴨のコインロッカー』を見直したが、本屋の若い女性店員がこれまた標準語の合間に唐突に「おら」などと訛っているのに苦笑した。いくらなんでもこんなヤツいない。どう考えてもいない。絶対にいない。

さらにこの店員、ある人物の噂をするときに、声を潜めて「ここだけの話、クスリとかやってっぺし」と言うのだ。なんとも言えない違和感だ。「っぺし」という語尾は確かにある。しかし、この場面には微妙にそぐわない。

「っぺ」という語尾は「べ」と並び、推測を表す「だろう」の意味だ。これに話に続きがあるように思わせる昨今流行の語尾「し」をつけて「っぺし」となる。したがってこの場面を翻訳すると「ここだけの話、クスリとかやってるだろうし」となる。「ここだけの話」という重要情報が推測というのはいかにもおかしい。

仮に推測でよいとしても、この翻訳「やってるだろうし」は、どこか舌足らずな感じがしないだろうか。言うなら「やってるだろうし」ではなく「やってるんだろうし」ではないだろうか。これに対応する東北弁は「やってっぺし」ではなく「やってんだべし」となる。したがって「ここだけの話、クスリとかやってんだべし」ならば、まだなんとか成立した。残念なことだ。

なお、「っぺし」という語尾には、誘い掛けの「やろう」の意味の「やっぺし」「すっぺし」もある。関東圏でも「やっぺ」「やるべ」などとして使われているものと同源で、本来は「やるべし」「するべし」だ。これらの語尾の「し」が省略されたのが「やるべ」であり、語尾が残ったまま前半が促音化されたのが「やっぺし」「すっぺし」だ。しかしこの映画では「やってっぺし」と言っており「やっているべし」という、意味が通らないつながりになっているしそもそも文脈から、誘い掛けではありえないので、違うだろう。

こういう違いは、ネイティブの東北人でも、聞いたときに違和感を覚えることはできても、その違和感の正体を分析して表現できる人は希だし、何回も口に出していると次第に自分でもよくわからなくなるものだ。だからスタッフの中にネイティブの東北人がいれば済むというものではないのだ。これが、映画で間違った東北弁が使われ続ける本当の理由だと思われる。

そいうわけで、困ったときは私に声をかけてほしいものだ。かけられるわけないが。

アヒルと鴨のコインロッカー

テレビで『アヒルと鴨のコインロッカー』という映画を見た。

原作も読んでいたが、仙台が舞台の映画でロケも仙台ということで興味深く見た。

内容はともかく、東北弁が滅茶苦茶だった。いや、東北弁自体はメチャクチャではないのだが、用法があり得ないのだ。主人公たちは東北人ではない設定なのだが、それに話しかける地元の人たちの訛り方が尋常ではない。

バスの運転手やら店員やらアパートの住人やらが、主人公たちにあり得ないほどに容赦なく訛るのだ。しかも、当然ながら東北弁にも敬語とタメ口があるのに、すべてタメ口なので、まるで東北人は全員が無知で粗野で非礼な人たちのようだ。

そもそも今どき公共の場で、相手が標準語なのに手加減もなしに訛る若者などいるわけもない。テレビでは毎日標準語を聞いているし、あくまで東北弁は非公式なものだという意識があるから、学校の授業中でも先生も生徒も技術的な限界はあるものの、意識の上ではなんとか「よそゆき」の言葉である標準語を話そうとするのだ。そんなことはテレビでインタビューに答える東北の若者たちを見ればわかるではないか。

この映画での東北弁の違和感は、たとえていえば、横浜が舞台の学園ドラマだからといって生徒たちが授業中に先生に向かってタメ口で「ぼくんち二世帯住宅じゃん」と言うようなものなのだ。

どうせなら仙台の人にも違和感なく映画を見てもらいたいと思わないのだろうか。本当に不思議だ。

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