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ウォルマート

アメリカにはウォルマート(Walmart)という便利な量販店がある。日本の家電量販店と似たようなイメージの店舗だが、大きな違いは何でもそろっていることと、24時間営業であることだ。

食料、日用雑貨はもちろんのこと、衣類、床屋、眼鏡屋、薬、車のオイル交換等までできる。さすがにすべてが24時間営業ではないが、これらが、広大な駐車場とともに、平屋の店舗で展開されているのだ。この店さえ知っていれば、とりあえず生きて行ける。ドーサンにも2店舗あるくらいだから、アメリカ中にどれだけあるかわからない。

それにしても、ここいらの客のマナーの悪さにはあきれてしまう。写真のように、マットを床にしいてそのまま放置したりは当たり前。また、CDの棚にジュースのカップが置いてあったりもする。

いつだったか、衣類のコーナーでその場でズボンを脱いで試着している客がいた。それを見た私は、それが当たり前なのだと思って、日本から出張に来ていたKさんにそれを勧めたのだった。Kさんは「郷に入れば郷に従え」とばかり、写真のジーパンコーナーでパンツ一丁になって、つぎつぎとズボンを試着したのだった。後で気づくと、近くにちゃんと日本と同じように試着室があった。たしかあれは夜中で他の客がほとんどいなかったからよかったが、昼間にやっていたらどうなっていただろうか。おどおどしながらズボンを脱ぐKさんの姿がありありと思い出される。Kさんには未だに訂正していないので「アメリカではあれが普通なんだ」と思って他人に吹聴してるかもしれない。

元旦のアクセス数

元旦のアクセス数は171件だった。仕事をしている人は少ないだろうし、帰省している人もあるだろうに、元旦からこんなに読んでくれる人がいたというのは嬉しいことだ(10件ぐらいは自分でアクセスした分だと思うが)。

昨年の元旦のアクセスは139件だったから、徐々にではあるが読者数は増加しているようだ。一年を通した傾向もそうなっている。ちなみに、8月の急増は勝手にやった北京オリンピックの実況中継のためだ。

まだまだ「卓球王国」の宣伝効果としては微々たるものしかなく恐縮ではあるが、地道に続けて行きたい。

靴を買った

正月だからと言うわけではないが、久しぶりに靴を買った。今まで履いていたものが壊れたのだ。

私は靴を買うのが嫌いだ。履き慣れたものにかなう履き心地のものは絶対にないし、いざ買うとなれば値段やデザインで迷いに迷って疲れるし、紐は通っていなくて自分で通さなくてはならないしで、本当に嫌なことばかりだ。

それでも壊れれば、新しいのを買わざるを得ない。ついこの前買ったと思っていると、もう壊れて、せっかく足になじんでトロトロのクニャクニャになっている靴を捨てて、硬くて履き心地の悪い新しいものを買わなくてはならない。

いったいどれくらいの周期で靴を買っているのか記録をしたことがなかったのだが前回「今度こそは」と買った日にデジカメで撮影をしておいた。それが今回壊れて、役目を終えた。撮影日を見ると2004年5月となってるから4年7ヶ月だ。意外と長く履いていることに驚いた。それにしたってこのペースだと20年のうちには4,5回買わなくてはならない。できることなら一生同じ靴を履いていたい。ちょっとぐらい値段が高くても良いからそういう買い方はできないものだろうか。それなら高級店へ行けばよさそうなものだが、丈夫だから高いのか、見た目にかっこいいから高いのかわからないわけで、長持ちする補償がない。何万円もしたあげくにやっぱり5年で壊れたというのではたまらない。どこかに「普通に履けば20年もつ」という折り紙つきの靴はないものだろうか。

一時期、これとは間逆の考え方で「何も考えずに極安の粗悪品を頻繁に買う方がコスト的に得かもしれない」という甘い誘惑に誘われて390円の靴を買ったことがあるが、形と素材が恐ろしく悪くて、履いて1日めでくるぶしの皮が向けて足首が血だらけになり、即、捨てたことがあった。靴に限らず、安すぎるものは使えない場合が多く、ほとんどの場合は間違った考えであることが今では分かっている。

さて、今日買った70ドルの靴、いったい何年もつだろうか。見たところ、やっぱり前の靴の方がいいと思うのだが(新しいのを買うたびに毎回こう思う)。

映画『バックダンサーズ!』

会社に誰かがおいていった『バックダンサーズ!』という映画のDVDを見た。

2006年の日本映画で、まあまあ面白かった。登場人物の演技で気になるところはなかったし、話も面白いし役者も魅力があった。

ただ、実は私は本来この映画を論じる資格がないのだ。それは、踊りが大嫌いだということだ。

小学校の運動会で、毎年「胆沢町音頭」という盆踊りを全員で浴衣姿でやらされたのだが、嫌で嫌で仕方がなかった。正確にはそれほど嫌なわけではないが、「面白くない」だけであり、他の面白くないことと同じように、それに時間を費やすのが嫌だったという意味だ。

逆に私の母は踊りが好きで、「何が面白いのか」と聞くと「音楽に合わせて体を動かすのが楽しい」と言う。母は運動会で私の盆踊りを見て「ロボットみたいだ」と言った。

大学生になったときには、なにか良いことがあるかと思ってディスコに行ったりもしたが、泣きたくなるくらい面白くなかった。踊りも酒も嫌いなのだから当たり前だ。もちろん良いことなどひとつもない。トイレの便器に敷き詰めてあった氷を小便で溶かすのが面白かったぐらいが収穫だ(女子トイレの便器にも氷、敷き詰めてあるんだろうか)。

そんなわけで、私はあらゆる映画の中でミュージカルほど嫌いなものはない。いきなり登場人物が歌いだしてそれが徐々に大人数になって画面いっぱいに広がるなどもってのほかだ。ビデオではそういう場面はどんどん早まわしにして、あっという間に映画は終わってしまう。人が踊るということに何の楽しさも感じないのだから仕方がない。おまけに歌でセリフを言われたりすると意味がわからなくなる。長々と歌って物語の進行を滞らせている役者を見ていると憎しみすら沸いてくる。

また、時代劇や現代劇の高級料亭シーンなどで宴会で芸者を躍らせてみんながいかにも楽しそうにしている場面が出てくると「こいつら、こんなことの何が楽しいんだ?」と強く思ってしまって、ストーリーに入り込むことの妨げになるほどだ。

そういう私が、ステージのバックで踊る少女たちの青春を描いた映画『バックダンサーズ!』を、まあまあだと思ったのだから、もしかするとこれは普通の人にとってはかなり面白い映画なのではないだろうか。調べてみたら、これはテレビドラマ「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」など、名だたるヒット作を監督した永山耕三という人の初映画作品で、面白いのも当然であった(しかしやはりダンスのシーンは飛ばさせていただいた)。映画の中で、行き詰った主人公が「ダンサーなんかやっていて何になるんだろ」と自問するところで「そりゃそうだ。バカバカしいから早く止めた方がいい!」と激しく同意してしまった自分が我ながら可笑しかった。私はこの映画内の価値観を根本的に否定している間違った観客なのだ。

これほど踊りが嫌いな私は、異常なのだろうか、それとも同好の人はけっこういるのだろうか。

『Celebrity Ping Pong』発見

編集部から情報があった、アメリカで創刊されたという卓球雑誌『Celebrity Ping Pong』をやっと発見した。どうもこれは、通常の雑誌ではなくて、インターネット上のブログのようである。http://www.celebritypingpong.blogspot.com/
どうりで本屋で探しても見つからないわけだ。

ジェームズ・クーパーというよくわからない人がやっているブログで、とにかく卓球に関係するどうでもよさそうな記事を書いている。まあ、私と似たようなものだ。11月10日の記事のところで本人が卓球をしている動画を見ることができる。日本人からみると実力はかなり落ちるが、アメリカ人としては普通のレベルだ。ちなみに、相手をしている東洋人はかなりできるとみた。これもまたアメリカでよくある風景だ。

ブログだけではなくて、無料とはいえ、ちゃんと紙の雑誌も下の方で紹介されているので、せっかくだからこれをもらえないかメールを出してみた。どんな返事をもらえるだろうか。

卓球人口の少ないアメリカにこんなにも卓球に熱中している人がいると思うと嬉しくなる。

医学の進歩

ゼンメルワイスという19世紀の医師がいる。医師が手を消毒することによって感染症を防げることを発見した人だ。当時は、お産のときに多くの人が産褥熱で命を落としていた。出産するたびに死を覚悟していたのだ。出産しなくても結核にかかれば死ぬし、盲腸でさえ死の病であった。何百万年の人類の歴史で、今のように医学が進歩したのは、ほんのこの100年ほどのことなのだ。

ゼンメルワイスの時代には、そもそも細菌というものが発見されていないので、消毒するといっても、いったい何が手についているのかわからないし証明もできなかった。そこでゼンメルワイスは、目に見えない悪いものが手について、それが産婦を死亡させていると推定するしかなかった。それを示唆しているのが臭いだろうということで、カルキによってその臭いを消せばよいという理屈で消毒を始めたのだ。

ところが当時の医学会ではこれは証拠がないとしてオカルト扱いされて認められず、ゼンメルワイスは失意のうちに亡くなっている。「手を消毒する」こんな今では当たり前のことにさえ発見の歴史があり、それを知らないばかりに、それこそ数え切れないほどの人間が何百万年も延々と命を落としてきたのだ。それを免れている現代の我々を幸福と言わずなんといおう。私だって、もし現代の医学がなければ、18歳で自然気胸で死んでいたのだ。

こういう情報は私はもとから知っていたわけではなく、インターネットでつい最近知ったものだ。インターネットで歴史や科学の情報を検索していると時間がいくらあっても足りない。便利な時代になったものだ。

天国とはまさに今この時代のことだと思う。

知的好奇心

オランダの画家、レンブラントが膨大な骨董品をコレクションしていたことを知った。その中には、アンモナイトの化石などもあったが、17世紀当時の科学では、それが一体何なのかを知る物は誰もいなかった。化石が古代の生物だという説は当時もあったらしいが、進化論自体がまだ認められていないし、古代といっても、それが何年くらい前なのかを知る方法もなかった。

分からなかったのは化石だけではない。空に浮かんで見える太陽や月や星が何なのか、宇宙の始まりはどうなっているのか、光とは何なのか、こういうことがほとんど何も分からないままに当時の人々はその生を終えていったわけだ。どんな天才たちでさえもだ。私が月や星を見るたびに思うのは、その神秘や美しさではなく(そんなものは感じない)、その正体を知ることなく生を終えていった無数の人間たちのことだ。

その後の地道な科学の積み重ねによって、現代の我々は凡人でも「化石は何なのか、どういう原理でいつごろできたものか」を容易に知ることができる。知的好奇心という点ではこんなに幸せなことはない。現代に生まれた自分はなんと幸運なのだろうと思う。そしてこれを読んでいるあなたもその仲間なのだ。

テニスの『ポールまわし』

ゲストブックでKOさんという方から投稿があって、ネットを迂回するボールはテニスにもあって『ポールまわし』といわれていると教えていただいた。さっそくネットで調べてみると、すぐに見つかった。
http://yasu.www.noahis.com/blog/index.php?UID=1214975654
テニスでも「一度はやってみたい夢の打球」といわれているようだ。

「卓球でしかあり得ない」と浅はかなことを書いてしまって恥ずかしい。

となると、本当に卓球でしかあり得ないボールは、台より下で打球することができる「弾まないボール」しかないことになる。

卓球にしかあり得ないボール

先に書いた台の外からコートの隅に入るストレートだが、よく考えるとこれは卓球だけにあるコースだ。似たようなネットを使う球技であるテニス、バドミントン、バレーボールではまずあり得ないだろう。なぜ卓球だけにあるかといえば、それはコートが小さいからだ。コートが小さいので、人間の動きでネットの外側にまで容易に移動することができ、打球もできるわけだ。

卓球の試合を面白く解説するためには、このような卓球にしかないボールを上手く説明できたらよいと思うのだがどうだろう。

さて、99ストレートは稀なコースではあるが、それだけでは返球不可能とまではいえない。しかし卓球には、原理的にほぼ返球不可能なボールが存在する。それは、ネット際のコートの外に落ちたボールをコートよりもかなり低い位置で打球し、ボールがネットの下または外側を通るようにすると、ボールの頂点がちょうど相手コートの台の高さくらいになって、ほとんどバウンドしない、または瞬間的に2バウンドをしてしまって相手が打球するチャンスがないボールというのが可能なのだ。もちろん、そのような打球点が相手から与えられること自体がアクシデントなので、そうそう狙ってできることではないが、ときどき起こることだ。このボールにも『ミラクルボール』とかなんとか名前をつけたいものだ。

下の写真はその実例で、左から順に『インパクトの瞬間』『上昇中のボール』『相手コート上で軌道の頂点を迎えたボール(バウンド前)』の様子だ。明らかに頂点がネットより低くなっている。この後、ボールはコートに極めて短時間のうちに2回バウンドし、相手は打球を諦めている。なお、映像の出展は、リフレックススポーツ社で、93年エーテボリ大会での増田選手のプレーだ。

この打球が可能になるケースは、相手からクロスに鋭角に来たボールがネットに触れてポロリとネット横に落ちた場合だ。私はこれをどうしても自分でやってみたくて、2番弟子の田村にバッククロスのつっつきを上手にネットできるまで延々とやらせて、見事、再現できた。田村が「そんなことやりたかったのか・・」と悔しがったのは言うまでもない。

もちろんこれも、コート面よりも下で打球することが可能な卓球にしかあり得ないボールだ。

子供の自由な感性

9歳の息子が国語の勉強で、自由に何かを書く課題のところで、なかなか面白いことを書いた。

「テレビはぜんぜんはずかしがらない。みんなにじーと見られても、もじもじしないでじっとしている。」

普段、恥かしがりの三男らしい目の付けどころで、面白いなあと思った。でも、これを素直な子供の気持ちだと思ったら大間違いだ。

小学校4年生ぐらいのとき、詩を書かされた。クラスのある女子が「空の雲はどうして浮いているんだろう。空に磁石でもついているのかな」という意味の詩を書いて先生にえらく褒められた。「バカ、空に磁石などあるわけないだろ。そんなことわかってるくせに『子供らしい自由な感性』を演じて大人を喜ばせようと思って心にもない恥かしいことを書きやがって。だいたい、雲は磁石につかないだろ。」と苦々しく思ったのを思い出す。こういう、子供に対する幻想の欺瞞性みたいなものが私はとても嫌だった。こういうのは、素直な自由な感性などではなくて、そういう幻想を前提とした単なる作文技術なのだ。それならそう指導してくれればよかったのにと思う。私は「感じたことを書きなさい」という指導を本気にして、いつも本当に思っていることを書いていたので、作文で先生に褒められることはなかった。

念のため三男に「本当にテレビに対してそんなことを思っているのか、それとも人が喜びそうだから書いたのかどっち?」と聞くと、後者だという。安心した。前者だとしたら病院に連れて行かないといけない。