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不思議なレバー焼き

東京に出張のときに、よく一人で行く小さな飲み屋がある。先日行ったとき、メニューに書いてあった「レバー焼き」について、どういうものか店主に聞いてみた。串焼きのようなものなのか、野菜と一緒に炒めたようなものなのか、そういったことを聞きたかったのだが、彼の答えは異様なものだった。

「生のレバーをお客さんにお出ししますから、ライターであぶって食べてください」

・・・確かに私はこの店の常連であり、店主と顔見知りではあるが、いきなりこんな理不尽な冗談を言われるほど親しくはない。注文と会計以外の会話はしたことがないのだ。そもそも店主は冗談が好きなようにも見えないし冗談を言っている顔つきでもない。

戸惑っている私に気が付いてかどうかわからないが、店主はこれ以上の会話を拒否しているようにも見える。ちょっと気まずい時間が流れたが「迷ったらとにかくやってみる」といういつもの信念に従い、私はその「レバー焼き」とやらを頼んでみた。

数分後、私の前にレバーの刺身が置かれた。明らかに生だ。念のために周りを見渡してもコンロもライターもない。こんな「レバー焼き」が一体どこにあるというのか。たまらず私は「これ、焼いていないんですか」と言った。すると店主は「焼いた方が良かったですか?」と言う。気まずいながらも私が「・・・・はい」と言うと、店主はその皿を引っ込め、数分後、焼いたレバーを差し出しながら「焼いたのが良かったらレバーの串焼きって頼んでもらえればもっと安くできますから」と言った。

薄々わかったのが、これはおそらく、食中毒の問題で本来は出してはいけないレバ刺しを、どうしても食べたい客のために表向きレバー焼きとして出しているのだろう。わかる客だけが以心伝心で頼むというわけだ。しかし私は「レバー焼きってどういうのですか」と聞いたわけだから、明らかにそれを知らない客である。とはいえ、店主もありのままに「生で出す」と言ったわけだから、嘘はついていない。店主に非があるとすれば、ライターであぶってくださいなどと、冗談のようなことを付け加えたばかりに、私が全体を冗談である可能性を考えてしまったことだ。とはいえ、レバー焼きという名目で売っている以上、そう言わなければ店主の偽装は完結しないわけだからこれも仕方がない。結局、誰が悪かったのか、どうすればよかったのか未だにわからない。ま、出してはいけないものを出すのが悪いといえば悪いわけだが。

その日の最後、いつも頼んでいるお握りがサービスで二つ来たことが、無口な店主の私へのケジメであると受け取った。

意外な帰国子女

次男が珍しく面白いことを言った。

「ドラマやアニメを見ていると、よく”僕、お父さんの仕事の関係で小さい頃外国に住んでいたんだ”ってやつが出てくるけど、そんなやついるかよって思ったら俺だった」だそうだ。

確かにそうだ。次男の気持ちはよくわかる。どうしてこういう感覚になるかというと、ドラマやアニメで出てくるこういう人物は、ある特別な人間像を与えられているわけで、それが自分と合わなすぎるからだろう。その人間像とは、裕福で知的で孤独で物静かな感じだ。そういう人間像にしたいからこそわざわざ外国に住んでいた設定にするわけで、単なるわんぱく坊主にそんなややこしい過去を設定する理由がないし、したら無意味である。わが次男のような、底抜けに明るく軽薄で友達の多い人間は、帰国子女のイメージと全然合わないのだ。そういうことを自然に感じ取っての次男の反応だったのだろう。

日経新聞の書評に!

今日の日経新聞の夕刊の書評になんと『ようこそ卓球地獄へ』が取り上げられている。「目利きが選ぶ今週の3冊」というコーナーで、スポーツライターの藤島大という人が、マイクタイソンについての本と、サッカーについての本と並んで『ようこそ卓球地獄』を星4つで選んでくれているのだ。

感激だ。あんまり嬉しいので全文を引用しよう。

高貴なる競技なのに、ちょいとマイナー感がつきまとう。列島唯一の「卓球コラムニスト」の軽妙でふいに鋭利な筆致を支えるのは主流でない自覚と愛と自尊である。

さすがプロだ。たったこれだけの限られた字数でこの本の本質をなんと的確に表現し得ていることか。これがセールスにつながればなお良いが、正直に言えば、これまで読んでくださった方々の評判でもうとっくに満足している。

 

気になるアナウンス

駅のホームでのアナウンスで気になるところがある。

分かりやすいように気を使っているためだと思うのだが、駅名の前後の間を異様に空けるのだ。

「次の電車は中央特快    立川   行き    です」

という言い方だ。あんなに間を空けなくても普通の会話のペースでアナウンスしてよいと思うのだが、あれはやっぱり日本語がよく聞き取れない外国人向けなのだろうか。それならまだわからないこともないが、英語でのアナウンスのとき、たとえば盛岡などの駅名をモリオーカーなどと英語風のアクセントで言うのだけは勘弁してもらいたい。いったい何のためにあんなことをするのだろうか。せっかく正しい日本語を覚えようとしている外国人の妨げにさえなるではないか。ここでそのアナウンスを表現できないのが残念だ。ワタシ、ニホンゴワカリマセーン式のよくある日本語の下手な英語圏の外国人の日本語の物真似そのままなのだ。誰のためにあんなことをするのかと、聞くたびに苦笑している。

思わぬ理由

コンビニの店員がいちいち「カードで?」と聞きかえす理由が分かった。カードで払うと、店側が一定のパーセンテージをカード会社に払わなくてはならないので、彼らはなるべく現金で払ってほしいというのだ。そのため、少しでも客にプレッシャーをかけるために聴くのではないかという推測だ。

しかし、そういう背景がわからないと、いくら聞き返されたところで、いったい何を期待して何を聴かれているのかもわからないのだからまったく無駄な努力である。

ガムを買おうとしてレジに持って行って、本当は別のものを買ってほしい店員に「ガムですか?」と聞かれるようなものだ。わかるかそんなの。

カードでよろしかったですか?

私は買い物をするときは、どんなに少額でもクレジットカードを使える店ではクレジットをカードを使うようにしている。現金を補充する手間を省くためだ。以前はそんなことはしていなかったのだが、アメリカで生活していたときに、アメリカ人がみんなそのようにしていて、真似をしたらとても便利だったからだ。以来、日本に帰ってきてからもそれを続けている。

それで、コンビニでも必ずカードを使うのだが、店員とのやりとりでいつも嫌だなと思うことがある。レジでカードを出すと必ず「カードでお支払いでよろしかったですか?」などと聞かれるのだ。こちらがカードを突き出しているのにカードを使いたくないということが有り得るのだろうか。最初、質問の意味が分からず「は?」と聞き返したほどだ。もしかしてポイントカードと間違えてクレジットカードを出していることでも心配しているのだろうか。それなら現金を出していないことと矛盾しているし、仮にそうだとしても、それはカードを出した客のミスなのだから、バカバカしい確認などせずに迅速に処理をしてほしいものだ。

しかしこれはどこのコンビニに行っても同じように聞かれるので、そのような教育をされているのだろう。ファミレスの「よろしかったですか?」という異常な過去形の言葉遣いとともに、どうもこのような、何事かを心配した過剰な応対というのは嫌なものである。いわんや居酒屋の「喜んで〜」をや(そんなに働くのが嫌か?)。

頼むから普通にしてほしい。

満員電車での善行

昨夜、新宿から厚木に向かう満員電車の中で良いことをした。足が悪く杖をついたオヤジが、酔っているのか素面なのかわからないが立ったままブツブツと「みんな自分のことしか考えない」「人を助けてあげようとか思わないのか」なんて怒ったような独り言を言っていた。そしてついに目の前の自分と同じくらいの身長の若い女性に標的を定め、顔を近づけて「荷物を前に抱えたら他人にあたって迷惑だと思いませんか」などと絡み始めた。私は珍しい生物を見つけたと顔がほころぶのを抑えきれないほどだったが、若い女性にとっては苦痛だろうと思い、無理やり二人の間に割り込んで、そのオヤジに背を向けて立ってやると静かになった。次の駅でそのオヤジが降りると、女性から礼を言われると同時に、近くの若者から「オジさんナイスでした」と親指を立てられた。

「俺、オジさんかよ」と思ったが仕方があるまい。それどころか、1ヶ月ほど前には、やっと言葉を話し始めた感じの幼児が私を指して「じいじ、じいじ」と言い、その母親と思われる女性が「こらっ、違うの、じいじじゃないのっ」と叱りながら赤面で私に平謝りであった。それにくらべれば「オジさん」というのは実は気をつかっていたのかもしれん。

今朝方、昨夜のオヤジがなぜか厚木の交番の警察官になっている夢を見た。いかにも夢らしいどうでも良い事象だ。

オチのない音楽

この週末、何度か町で夏祭りに出くわした。町内の人たちが仮装をして神輿を担ぎ、その後ろを女性や子供が笛や太鼓を叩いて歩いていた。これまでに何度も見てきた光景だが、あらためて意識してみると、面白いことに気が付いた。それは笛の旋律だ。西洋の音楽なら、導入部があって途中で繰り返しの盛り上がりがあり、最後にいかにも曲の終わりという感じの旋律に落ち着くというストーリーがあるのだが、この祭りの笛の旋律は、なんだか常にランダム、デタラメという感じでしかもストーリーもオチもない。だからとても落ち着かない。しかし、これは西洋音楽の影響を受ける前の日本人本来の音楽が、庶民によって伝承されて現代まで生き残っているのだろうと思い、音楽ではなくてそのことに少し感動を覚えた。

もし私に音楽理論の知識があれば、この笛のコード進行はどうだとか楽しい話ができるのだろうが、それができないのが残念だ。意外と「祭りの笛も明治維新後に西洋から入ってきたものだった」などというのが真相だとがっかりするのだが、まあそんなこともないだろう。西洋にはあんなヒョロヒョロとした根無し草のような旋律はないはずだ。それにしても落ち着かない。楽しいとも悲しいともなんの感情も喚起しないピーピーピーという笛の音だが、昔の人たちは何か感じたのだろうかと思うと不思議な気持ちになる。

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