月別アーカイブ: 11月 2008

小野田寛郎

小野田寛郎の『たった一人の30年戦争』を読んだ。
小野田寛郎といえば、私が小学校のころ、ルバング島で発見されて帰還した旧日本兵だ。てっきり、生き残るためにずっと逃げ回っていたんだろうと思っていたのだが、実際はまったく違っていた。

彼は、日本軍の諜報員(スパイ)養成学校「陸軍中野学校」出身の諜報員で、戦後27年間もルバング島にとどまっていたのは、敵から逃げるためではなくて、残置蝶者としてゲリラ戦を展開するためだったのだ。諜報活動には、敵に自分の存在を知らせて間接的に祖国の仲間に自分の存在をアピールすることも含まれているから、故意にたびたび地元住民の前に姿を表しながら「諜報活動」を続けたという。つまり小野田は、逃げて隠れていたのではなくて、信じがたいことに、ひとりで戦争を続けていたのだ。

陸軍中野学校は、その性質上、戦時中は存在をひた隠しにされており、関係者以外には親にさえその任務は知らせてはいけなかったという特殊機関である。人材は高等教育を受けたエリート集団で、天皇批判も国体批判も自由、忠誠を誓う相手はただひとつ「日本民族」だったという。どんなことがあっても玉砕は禁止、敵の捕虜になって偽情報を与えることが任務だったという。証拠が残るため、あらゆることについてメモは禁止だったので、ジャングル生活に入って20年目に新聞を拾ったとき、小野田のカレンダーは「6日ずれていた」ことがわかったそうだ。

小野田は日本のラジオや新聞の情報も得ていたが、なまじ諜報戦の知識があったために「これは敵の謀略だ、今の日本国家は敵国の傀儡政権だ」と敗戦を信じなかったという。日本政府は何度か上空からビラをまいたり拡声器で呼びかけたりして小野田の投降をうながしたが、運の悪いことに、ビラに字の間違いがあったり、小野田の父が小野田の弟の名前を書き間違えたりしていたことから「やっぱりこれは敵の謀略だ」と確信を深めるに至る。また、兄が大好きだった一高の寮歌を歌って本物であることを示したが、この一部が「調子っぱずれ」だったことからやはり敵の謀略だと判断したのだが、実は涙をこらえるために音程が狂ったのだとは小野田は知る由もなかった。

小野田は、痕跡をさとられないように2週間おきに居場所を変えていたが「旧日本兵のねぐら発見」「たき火跡を発見」などと書かれた新聞を拾って見ては「私はよほどバカだと思われているようだ。ブタや牛じゃあるまいし、ねぐらや足跡を残して三十年も生き抜けると思っているのか。せいぜいブタでも追っかけてろ」と笑ったそうだ。

結局、小野田が投降することになったのは、鈴木紀夫という青年探検家が現地にキャンプを張って粘り強く滞在して小野田と接触したことがきっかけだった。この鈴木青年が小野田さんに「27年前に戦争は終わっている」とどれだけ言葉を尽くしても鈴木青年のファッションや言葉遣いがあまりに「敵国製らしかった」ため信用できなかったと言うくだりが面白かった。

結局「上官の谷口少佐の命令があれば投降する」という小野田の言を受け、谷口元少佐を現地につれてきて「任務解除命令」をしたことによって、初めて小野田は戦争が本当に終わっていることを知った。この直前の小野田の考えも凄まじい。

「新聞によると、谷口少佐は宮崎県で本屋を営み、一市民として暮していると言うことだった。しかし、それはあくまで表向きで、市民を装いながら、裏では依然、諜報活動を続けているのではないか。軍の謀略関係者が、そう簡単に一市民に戻れるはずがない。(中略)谷口少佐は、私がどのような命令を与えられ、ルバング島に赴任したかを一番よく知っている人物だ。それを知りながら、いまなお「任務解除」の命令を伝えないのは、残置諜者として私をこの島にとどめておく必要があるからにちがいない。」

小野田はもともとバリバリの軍人だったわけではない。召集される前までは、貿易会社で中国湖北省の漢口支店に勤めており、英国製の背広を着て米国製36年型スチュードベーカーに乗って夜のダンスホールに入りびたっていたという。「どうせ二十歳になれば召集」と刹那的に遊びまわっていたそうだ。そういう人間が、陸軍中野学校に入って命令を受けたからといってその責任感だけで27年間もジャングルで任務を遂行する、こんなことが人間に可能なのだろうか。この本を読んでから、朝起きるときや夜寝るとき、小野田さんの生活がどういうものだったのかということを考えずにはいられない。いくら考えても想像がつかない。本当に凄い人間がいたものだ。

小野田が帰還したときの記者会見で「ジャングル生活で一番辛かったことは」との質問に「戦友を失ったことです」と答えた(投降の2年前まで、小塚一等兵と二人で諜報活動をしていたが、地元軍によって狙撃された)。「楽しかったことは?」と聞かれ「今日の今までひとつもありません」と答えた。兄の格郎の言葉「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います」という言葉どおり、ある意味でこの人は狂ってると思う。しかしその生き様には、感動で身震いを禁じえない。生きているうちに会いに行きたいと思うが、そのチャンスはたぶんないのだろう。

わけがわからない

昨日のニュースで、福岡の教師による生徒のイジメ事件の裁判結果が報道された。教師によるイジメが認定されて、市に対して330万円の支払い要求だ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081125-00000016-nnp-l40

しかし、これ、何ヶ月か前(2008/8/3)にこのブログに書いた、福岡殺人教師事件のことで、これは私が読んだ本『でっちあげ』によると、すべて児童と両親によるでっちあげだったはずだ。もちろん、この本の方がでっちあげだとするサイトもあるにはあったが、この本を支持する意見が大勢だった。

裁判結果をみると、児童にPTSDの症状は認められないとなっているから、この『でっちあげ』の内容は一部は裁判でも認められたことになる。しかし、この本によれば、被害者側が訴えていることは一から十まですべてデタラメだったはずだ。それが裁判で330万円の支払いになったとはどういうことだろう。やっぱりこの本の方がデタラメだったのだろうか。しかも、この裁判で認定された教師の言動が事実なら、この人はどうして今も教師をやってられるのだろう。

まったくわけがわからない。真実は一つなはずなのに。私はこういうデタラメな事には我慢がならない。マスコミはこういうときこそ徹底的に追求して欲しいもんだ。

日替わりシャツ

毎日なにが面倒かって、会社に着ていくシャツを選ぶのが面倒だ。本当なら毎日同じのにしたいところだが、それだといかにも洗ってないという感じがしてまずいので、一応、前の日とは違うのを着ていくことにしている。だからといって2着を一日おきに着るわけにも行かないので、なるべく「久しぶり」の奴を選ぶようにしているのだが、その記憶があまりないので、どれもこれも最近着たような気になって、どうにも選ぶのがわずらわしい。

それで、何年か前に良い解決方法を思いついた。5着のシャツを用意して、曜日ごとに固定するのだ。かくして、日本に住んでいたときの我が家の廊下には、月から金まで曜日が書いてあってその下にハンガーとシャツが並んでいた。これがとても便利だった。「シャツを選ぶ」という人生の無駄時間を一つ減らすことができたし、職場の連中も私のシャツを見ればいつでも曜日が分かるという寸法だ。

こちらに着てからは、そのセッティングをすること自体が面倒で、未だにやっていない。だから毎朝、余計なことを考えさせられている。

そういえば元の職場の後輩に、カーステレオで聴く音楽が偏らないように、持っているCDをアルファベット順にローテーションで聴くという奴がいた。これはちょっと違うのではないだろうか。いつでも聴きたい音楽を聴けば良いわけで、規則的にローテーションをする意味が分からない。まあ、ちょっと違う男なので仕方がない。

40mmボール

もう8年も前のことになってしまったが、卓球のボールの直径が38mmから40mmになったときのことだ。

「40mmになるとボールが遅くなるので、ラリーが続き、これまでよりも体力の重要性が高まる」と言われた。それは本当かもしれない。しかし、そういう人たちが、もしこれから直径が再度38mmに戻ると言われたらなんと言うだろうか。先の意見がきちんと論理立てて考えられたことなら「38mmになるとボールが速くなってラリーがあまり続かなくなるので、体力の重要性は低くなる」と言わなくてはならない。

しかし本当にそう言うだろうか。「38mmになるとボールのスピードが速くなるのでそれに対応するより激しい動きが必要になるため、より体力の重要性が高まる」と言うような気がしてならない。社会学と同じで、こういうものは、いくらでも好きな結論を導くことができてしまうのだ。慎重に考えなくてはならない。もっとも、この程度のことを誤解したところで何の不利益もないわけだが。

子供の暴力行為 過去最多

何日か前のヤフーのニュースで、「小中高生の暴力行為が過去最多を記録した」と書かれていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081120-00000034-maip-soci

近頃の異常な犯罪事件などを見ると、さもありなん、子供がオカしくなっていると不安になる。しかし、これはいつものマスコミの印象操作なのだ。ためしに記事のもとになった文部科学省の発表を見ると、たしかに暴力行為は過去最多だが、いじめ、不登校児、自殺件数はいずれも減少し続けている。http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/11/08111707.htm

しかしニュースの見出しは「暴力行為が過去最多」だ。その方が読者の不安をかき立てて興味をそそるからだ。こういう結果が出ると次には「ゲームの影響」だとか「ネットの影響」などの可能性をならべて警鐘を鳴らすのがお決まりのパターンだ。それなら、ゲームやネットの影響で自殺やいじめが減ったという説も対等に論じられなくてはならないし、性風俗の氾濫によって性犯罪が減ったとする説も論じられるべきだろう。

ちなみに、このサイトには載っていないが、青少年の凶悪犯罪は、戦後一貫して減り続けている。子供どうしがとっ組み合いの喧嘩をし、人と人とのつながりが今よりもずっと密だった昭和30年代は、現在の何倍もの青少年の凶悪犯罪があったのだ(たしかに今の50代の人たちの気の荒さはただごとではない)。http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm
しかしそれは話題に上ることはない。「現代は何かが狂っている」と煽り立てた方が面白いからだ。こうして大衆は踊らされているのだ。

やっぱり血液型には意味があるかも・・

異様によく当たる血液型の性格診断テストのサイトを見つけてしまった。

http://www.senrigan.net/bloodmind/index.html

うーん。こういうのを見ると考えが揺らいでしまう。もしかするとこれは全面的に考えを改めなくてはならないかもしれない。
血液型と性格との関係を心理学者は再検討する必要があるのではないだろうか。既存常識にとらわれず、分からないことを分からないと認め、事実を直視することから科学は始めるべきだからだ。

『血液型性格判断批判』の批判

私はこういうことにはとてもこだわる性格なので(笑)、もう少し書きたい。

よく血液型性格判断を次のように批判する人がいるが、これらは間違った批判であり、こんなことを言ったら逆効果である。簡単に反論されてしまうのだ。

・多様で複雑な人間の性格がたったの4種類の血液型で表せるはずがない。
→ ある観点で大まかに4種類に分けることが不可能とはいえない。こんなものは批判のための批判で、もっとも愚劣な批判である。

・脳と血液の間には血液・脳関門という関門あるため、血液型物質は脳組織には入れない。したがって、血液型が性格に影響を及ぼすことはあり得ない。
→ 脳に入らなくても、体の違いが間接的に性格に影響を及ぼす可能性を否定できない。そもそも、メカニズムが解明できないからといって「血液型と性格に関連がある」という事実を否定するのはおかしい。まず事実を認めて、分からないことを解明するのが科学ではないか。

・日本人はたまたま4種類の血液型に分かれるので面白く占いができるが、人口の多くがA型の民族や、全部がB型の動物などはどうするのか。
→ その民族ごとあるいは動物ごと、その血液型の性格になるのではないか。そうでなくても知ったことではない。自分で研究しろ。こっちは、メカニズムまで分かっているわけではない。「理由はわからないけど、日本人の血液型と性格には関連がある」と言っているだけなのだ。外国人や動物の話をして何を得意になっているのか。

・血液の分類はなにもABOだけではない。それとは別の分け方がいく通りもあるのに、どうしてそのひとつであるABO型が性格に影響があるのか。
→ どうしてかはわからないが、それが事実なら認めるしかないではないか。メカニズムがわからないから事実を認めないのは科学者の悪い癖だ。

・血液型性格判断は人種差別がその起源にある危険な思想だ。
→ 血液型と性格に関係があるかどうかとは別問題。
血液型性格判断を批判するのに小理屈をつけると墓穴を掘る。ただ「偶然以上の確率では当らない」という事実を言えばよいだけだ。ノストラダムスの大予言と同じく、血液型を聞いてから「そういえば当たってる」と思うだけなのだ。

http://jp.youtube.com/watch?v=fa1Z5L2Xsgo&feature=PlayList&p=D7F1DB1E606F948D&playnext=1&index=26
さて、このテレビ番組はいかがなものだろうか。

血液型性格判断

2,3日前、yahooのニュースに疑似科学についての記事が載っていた。疑似科学とは、科学を装った非科学のことだ。

血液型性格判断もそのひとつだ。よくこれに対する批判として「血液型性格判断には科学的根拠がない」というセリフがあるが、これは大衆を誤解させる危険を含んだ表現だ。「科学的根拠がない」といわれれば、普通の人は「既存の科学知識とてらしあわせて、そんなことがあるはずがない」ととられる。もちろん科学者は、そういう理由で否定しているのではない。ここでいう「科学的根拠がない」とは「科学的に調査をしたが、そういう事実を見出せない」ということなのだ。竹内久美子など、血液型関連の本を出す人は、「血液型と性格の関連づけをすることは科学者の間でタブーになっている」などと書くが、別にタブーなのではない。何度調査をしても、そのようなデータが出ないから明快に否定されているだけのことなのだ。

http://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/pseudo.htm

話としては面白いかもしれないが、本気で主張されると困ってしまう。血液型による性格判断など、どうにでもとれるものばかりだ。たとえば「物事にこだわらない」という表現があるとする。私の場合、興味があるものには偏執狂的にこだわるが、興味のないものにはまったくこだわらない。だから「こだわる」「こだわらない」どちらを見ても「当たってる」と思うわけだ。また、「あなたは理想を貫こうと思っていますが、妥協しがちです」などというのは、自分にだけ当てはまっているように誰でも思うものだ。いうまでもなく、人はいつも自分の内面を意識しているが、他人の内面は意識しないので、内面を深く掘り下げたようなことを言われると、自分にだけあてはまったような気がするのだ。自分以外はみんな気楽に生きているように見えるのと同じことだ。

科学者が血液型を否定するのに「科学的根拠がない」とか「どうして性格がたかが4種に分けられるのか」と言っても全然反論になっていないし信者を納得させることはできない。

そうではなくて「調査をしてもそのようなデータが得られたことがない、そういう事実がないのだ」とだけ言えばいいのだ。これ以外に何も必要ないではないか。

政見放送

YouTubeを見ていると実にいろんな映像がある。
最近見つけて感動したのが、政見放送シリーズだ。金さえ出せば誰でも立候補できるものらしく、とんでもない人たちの映像が堂々とテレビ放送されたということがわかってとても面白い。

中でも最高だったのが、永遠のロックローラー、内田裕也の政見放送だ。

なにしろ政見放送なのに、いきなり英語の歌を無伴奏で歌い始めるのだ。歌が終わっても内田裕也はなんと英語で演説を始める。いったい何のために?という疑問は無意味だ。なにしろ相手は内田裕也なのだ。

もうひとり素晴らしかったのが、やはり奥崎謙三だろう。奥崎謙三は、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』で有名になったカリスマだ。天皇の戦争責任を追求していろんな事件を起こしているのだが、なにしろこの人、完全にオカしくて、殺人や殺人未遂で刑務所に何度も入っている。『ゆきゆきて神軍』の撮影のときも、原監督に、元上官に罰を与えるために殺すので、その場面を撮ってくれと申し出て断られたりしている(映画にはならなかったが、実際に奥崎は元上官の家に行き、出てきた息子に発砲して重傷を負わせた)。

http://jp.youtube.com/watch?v=t3EALg22uMY&feature=related

こういう人が選挙に立候補しようというのだから、まったく恐ろしい話だ。

写実画

モンゴメリーでは美術館にも行ってきた。
そこで、アメリカの画家、ウイリアム・ハーネットという人の絵に驚いた。

異常に精密なのだ。たかだか横50cmくらいの小さいカンバスに、異常に緻密な画が描かれている。このハーネットという人は、おそらく描くことで表現したいものなどなく、とにかくいろんな質感のものをこれでもかというほど精密に描くことに生きがいを感じていたのだろう。金属、材木、生物、印刷物とどれもこれも信じられない描き込み方で、思わず接写してしまった(撮影可なのだ)。

しかもこのハーネットと言う人、100年以上前に死んでいる。100年以上も前にこんなとんでもない画を描く技術は完成していたのだ。本物そっくりに描くのが偉いなら写真を撮ればいいという言い草があるが、ここまで見事だと、やはり感動する。また、写真ではここまで鮮やかな色は出せまい。

較べるのもなんだが、私も小中学校の頃、画が上手い方でそれなりに自信があった。しかしあるとき『やまねずみロッキーチャック』というアニメを見てからすっかり描くのが嫌になった。そのアニメに出てくる背景が、当時の私がどんなにがんばっても描けないであろう見事な画だった。そしてそれが背景としてほんの数秒使われるだけなのだ。世の中にこんな奴がゴロゴロいたんじゃ、どうにもならないではないか(実際にはゴロゴロはいなかったんだが、たかがアニメの背景ということで、そう感じた)。

もちろん画の良し悪しは上手い下手だけではない。他に魅力があったり、伝えたいことがあったりと価値はいろいろだが、あいにく私の場合、その点でもなーんにもないことが自分でわかっていたので、早々とその道は諦めたのだった。

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